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憂い事  作者: 山神伸二
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悔やみと許し

 愛佳が留守の間に兄が菊一郎の家へ訪れた。

 愛佳は恋人と出掛けると言い、夜までは帰ってこない様子であった。

「愛佳は元気そうか?」と兄は家に上がって早々にそう言った。

「電話で言った通り、楽しそうにされていますよ。今日も恋人と出掛けていったそうで」

 菊一郎がそう言うと、兄はそうかと呟いた。

 わざわざ愛佳のいない時に菊一郎の元に来るということは愛佳は兄と喧嘩か何かしたのだろうと思った。よからぬ予感はしていた。

「兄さん、今日うちに来た用は一体なんでしょうか?」

 真面目腐った菊一郎の様子に影響を受けた兄も真面目な様子で菊一郎の目をじっくりと見た。

「察しのいいお前のことだから、心のうちではわかっているかもしれないが、数日前に俺は愛佳に俺らの関係を言った。愛佳はもう子供じゃない。隠し通せることかもしれないが、いつか、誰から真実を知られてしまうかもと恐れ、妻からも許しを得て、愛佳にその事を言った」

 菊一郎は驚きはしなかった。愛佳がうちに来た日になぜ愛佳が親元を離れ、叔父の家に来たかは大体想像はついていた。ただ、やはりと言うべきか、菊一郎は苦虫を噛み潰したような心持ちになった。

「それは愛佳ちゃんの気持ちを考えてですか?」

「そうだ」

「兄さんの心の怖気からではないんですか?」

「それもある。だが、愛佳がもしどこかでこの事実を知ったら、父親顔をしていた俺と妻のことを信用してくれなくなるかと思い、親の責任ということもあってな」

「親の責任なら兄さんではなく父さんではないのですか?」

 兄は何も言わなかった。菊一郎には育ての親と言う意味はわかっていたが、皮肉のつもりであった。

 愛佳はその事実に逃げ出してきたのだろう。愛しているということを感じているかもしれない菊一郎の元に。

 愛佳は菊一郎が愛佳の出生の真実を知らないと思っているのだろうか。叔父であるならば知らない可能性があると。しかし、菊一郎はその事を知っている。もし愛佳がそう考えているならば、愛佳にはその事を秘密にした方がいいのか悩んだ。

 菊一郎の存在も愛佳の裏切りになってしまう事に菊一郎は愛佳を哀れに思った。

「愛佳ちゃんが可哀想ではないんですか。僕が親なら墓場まで持って行きますよ」

 兄はやはり黙っていた。兄は菊一郎と違い、真っ直ぐな所があった。自分の信念が間違っていた場合、行き場のないこの後悔や思いをどこにやればいいのかと考えているのであろうと菊一郎は思った。

「菊一郎はそのままでいてほしい。愛佳の拠り所は親よりも叔父のお前だ」

 兄はそう言って頭を下げた。

「愛佳を頼みます。哀れな娘だ。悲しみに生まれ、知らぬ憎悪に気付かず過ごしてきた。そしてその事を知り、自分を見失っているのかもしれない。妻と俺の父が招き、そして俺が引き金を引いたもので、恥ずかしい事だが、お前が頼りだ」

「そうですか。けれど、ずっとこのままでは行かないでしょう。僕だって愛佳ちゃんが家にいるのはなんだか良くない気がします。愛佳ちゃんの気持ちが落ち着き、事実を受け入れることができたのであれば、再び兄さん達の元に戻ってくればいいのではないでしょうか」

 兄はしばらくして頭を上げた。その顔つきは父親そのものであった。

 菊一郎は兄に愛佳への強い愛情を感じ取った。愛佳に出生の事を話すのも相当な覚悟を持ったはずだ。後悔についても何度も考えたであろう。そして最後は自分の信念を信じ、愛佳に伝えたのだ。

 兄も被害者であると改めて菊一郎は思った。責任をここまで感じる兄はやはり、真っ直ぐに育った結果だろう。

 兄を尊敬すると同時に何もしない父に対して菊一郎はより軽蔑心を持った。

「ところで、よく考えれば、なぜ兄さんだけが、こんな事をしているのですか?父さんは何故何もしないのですか?謝罪の一つも兄さんや愛佳ちゃんにしていないではないですか」

 菊一郎は兄を責める訳ではなく、純粋な気持ちで言った。

「父さんは今、痴呆になったらしい。自分の事もよくわからないらしい」

 因果応報であると菊一郎は思うと同時に仕方のない事であるが、卑怯者だとも思った。

「父さんの勝ち逃げというやつですか?」

「そういう訳でもないだろう。自分が訳わからなくなるのは苦しいだろう」

「義姉さんは....」

「泣いて謝罪したよ。事実を隠していた事とそして私と愛佳を裏切った事にね。愛佳はどう思ったかはしれない。だが、その後に家を出ていった。叔父の家に行くと、愛佳の机に書き置きがあった」

 そう言うと不意に

「私はそんな妻を見て完全に許す事にした。今まで私に謝る妻を許してやってはいたが心の底ではやはり憎んではいた。だが、愛佳の本当の母として泣いて許しを乞う妻は心の底から後悔して反省しているようだった。あんなことさえなければ私達は普通の家族のはずだったのだがね」

 涙の幻が床に落ちたようだった。涙の跡は消え、夢の跡とでも言うべきか、焼け野原のようでもあった。

「菊一郎」

「なんでしょう」

「酒を一杯やらないか」

「いいですよ。お待ちください」

 菊一郎はその場を立ち、リビングを出ていった。兄はずっと窓の外を見ていた。

 春風が暑くなっていくようで、隙間風は暖かくも鬱陶しかった。

 菊一郎は酒を持ち、兄の元に戻った。

 兄と酒を飲み、菊一郎はそこで兄の愛佳に対しての想いを聞く事になった。

 兄は愛佳を妹と思ったことは一度もなかった。血縁状は妹ということさえも忘れている事も多かった。ただ一人の娘として妻と育てていたのだ。

 妻と父の不貞は忘れないにしても愛佳は兄の娘であったのだ。菊一郎は兄のこんなにも純粋な美しい愛情をまざまざと感じられるとは思わなかった。

 愛佳はこの愛情をしっかりと受け取っているのだろうかと考えた。だが、その考えもすぐ杞憂に終わった。愛佳はその愛をしっかりと受け取っていたのだ。菊一郎を散歩やご飯に誘った時、それは両親に対する愛の代わりを見出していた。菊一郎は愛佳は美しく生きていると思った。その美しさは愛佳の生まれの穢れを忘れさせていた。

「俺は愛佳の幸せを願っているんだよ」

「ええ、そんな気がしますよ」

 兄弟は蒸し暑い小さな隙間風など気にしていないようであった。

           ・

兄が家を後にしてから少しして愛佳は帰宅した。兄に会いはしないかと心配になったが、愛佳な様子から特にそう言ったことはなかったようであった。

 愛佳は荷物を置きに部屋に行った後、リビングへと戻ってきた。その様子に菊一郎は愛佳に怒りとも言えない何かを感じ取った。

「叔父様。私、今週末にはここを出て行って、家に戻りますわ」

 あまりの突然の言葉に菊一郎はどう反応して良いのかわからなかった。

「あまり、叔父様に迷惑はかけられませんもの。父と母と仲直りをしなくてはなりませんわ」

 愛佳は菊一郎に初めて、両親と喧嘩した事を伝えた。愛佳にとってはとでも勇気のいることだったのだろうと菊一郎は思った。

「そう、喧嘩でもしていたんだね」と菊一郎が言うと、愛佳は菊一郎の方を目を丸くして向き

「叔父様は何も聞いてないんですか?」

「え?ああ....」と菊一郎は言ってしまった。言ってしまっては後の祭りである。

「家の事で、家出をしていたんです。父から電話か何かきていたでしょう」

「来たけど、はぐらかされたんだよ」

 菊一郎は言葉の中に出来るだけ真実を混ぜ込んだ。

「確かにあの人は楽観的なように見えて慎重に動くから、叔父様に教えてない事も考えられますね。可哀想な叔父様。本当に申し訳ございませんでした。他人の喧嘩に巻き込んでしまって」

「いや、いいんだよ。だって、親戚じゃないか。姪っ子の我儘くらいは聞くよ」

 その言葉に愛佳は一瞬、目を逸らしたのを菊一郎は見逃さなかった。その目の光は僅かによろめいていた。

 愛佳はその後はその話をするのを躊躇うような素振りをしていた。菊一郎は特に言及はせずに、そのまま夜が完全に更から前に、布団へと潜った。

 夜は雨音が鳴り響き、窓を閉めたが、蒸し暑さに菊一郎は苦しめられた。

そして、眠りが、徐々に襲い始めた時、愛佳は部屋の外から菊一郎に声を掛けた。

「叔父様?」

 菊一郎は返事をせずに、様子を見た。

「叔父様」

 愛佳はもう一度、声を掛けた。菊一郎は眠たそうな声を出し、愛佳の言葉に反応した。

「お部屋に入ってもよろしいですか?」

 菊一郎は体を起こし、電気をつけた。扉を開けると、愛佳が立っており、顔は赤らみ、その目は泣いた後のようであった。

 愛佳が家に来て初めて菊一郎は愛佳に対して、少女らしさを感じた。両親のことを思ったからなのか、意地らしい子のようであった。

 菊一郎は愛佳の身長がまだ小さい事に気がついた。家に来た時は昔の愛佳と比べ、大人になったと思っていたが、まだ愛佳には未完成の美しさがあり、確立していない美を順序良く作り上げていた。

 愛佳は泣き止んでいたようで冷静さを取り戻した様子であった。

「私達は兄妹なんですわ」

 愛佳の言葉に菊一郎は体全身に電気が走ったような衝撃を受けた。

「父だと思っていた人も兄でした」

 愛佳が何故こんなことを言うのか。菊一郎は愛佳の顔色を伺うつもりで目を合わせたが、その時に直感的にこの事実を知らない方が良いと悟った。

「そうなんだ」

「そうなんですの....」

 愛佳の言葉を菊一郎は自分がショックを受けていると感じたと思った。

 愛佳の傷を深くするのは菊一郎には例え真実だとしてもできなかった。

 嘘をつくのは愛佳の心の重荷を少しでも軽くし、救うためであった。もし、嘘ということがばれたらその重荷は更に重くなって愛佳は支えられなくなるのは見えていたが、そうならないためにも徹底した嘘をつかなければならなかった。

「叔父様は知ってらしてはなかったんですのね」

 菊一郎は頭を軽く縦に振った。

 無闇に言葉を発しては勘付かれると思い、菊一郎は言葉一つ一つに時間を置いたり、敢えて何も言わないでいた。

「叔父様なんて呼び方よろしくないですわ。お兄様とでも呼んだ方がよろしいかしら」

 愛佳の涙声は菊一郎に小さな後悔を残した。

「叔父でいいよ。僕らは兄妹じゃない。今更、君を妹には思えない」

「私も叔父様を兄とは思えませんわ。ましてや、父も兄なんて」

 愛佳は泣いたような笑みを見せた。

「お祖父様が母との不貞でできた子らしいです。私は。それを父に打ち明けられて、私はそのショックに耐えられずに叔父様の元にお邪魔をしています」

 菊一郎は愛佳の肩から背に手を掛けて、抱いた。

 二人の間にはしばしの無言があった。

「私は父と母には怒りはありません。ここまで育ててくれて、謝罪もしてくれた。それは私を愛してくれたからではないでしょうか。祖父はもう自分がわからなくなっているらしいです。なので、私にはもう....。元気な頃に知らされていれば、許せたかもしれません」

「許さなくてもいいと思う。一生恨んでもしょうがない事だから」

 その言葉は嘘ではないが、菊一郎は自分の本心というよりはそれは愛佳が思う菊一郎からの言葉であった。菊一郎は自分で自分を敢えて苦しめ、懺悔の言葉ように言っていた。父親と同じ行為をしている事を今更ながらに後悔をしていた。

 愛佳の心には不貞や不倫は並の人よりも許せないものになっているのだろう。こんなにも愛佳が菊一郎を信用しているが、菊一郎は申し訳なさを感じ、自己嫌悪をした。

 愛佳が菊一郎の肩に手を添え、菊一郎は愛佳を手を離した。

「ありがとうございます。叔父様」

 そう言いながら先程とは違い赤らめた表情を見せた愛佳に菊一郎は愛佳は本当に自分の事が好きなのではないかと思った。自惚れのようであるが、真実のような気がしてならなかった。だが、菊一郎にはその事を言う気にはなれなかった。

           ・

 愛佳が菊一郎の前を後にしても、愛佳を抱いた暖かみが今でも肩の前辺りに残り、まだ抱いているような心持ちになった。それは僅かな恋心を思わせ、その暖かみは夜中から明け方にかけての冷たい雨が屋根に打ち付ける音と共にその音が消えるまで残っていた。

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