憎しみと愛
静香の家の近くの寺は紫陽花で有名である。全国、そして海外からも観光客が訪れる有名な場所である。
だが、静香自身はあまりそこの紫陽花を目にしたことはなかった。
菊一郎は静香の家を訪れた際にそんな事を聞いた。
「近くにあるとね。いつでも行けるから、あまり足を運ばないものですわ」
一連の流れが終わり、静香は服を着初めていた。髪を手で撫でる姿が、異様に美しかった。
「しかし、一度はあるでしょう」
「一度はありますけれど....」と静香は答えた。
「僕としては花なんか、興味はないんですけどね。姪っ子が紫陽花の話を今朝していたんですよ」
「ああ、例の姪っ子さん」
静香の言葉に菊一郎は皮肉を感じたが、確信には至らなかった。
「今月はうちにいるそうです」
菊一郎は服を手に取り、服を着た。
「姪っ子さん。女としての勝手な勘だけなのだけど、その子、菊一郎さんの事好きなんじゃないんでしょうか?」
兄にも言われた事を静香にも言われ、菊一郎は表情には出さずとも驚いた。やはり、そうなのかだろうかと思った。
「そんなはずないですよ。十も年が離れていますし、あの子は恋人がいるんですから」
「恋人がいても人は恋人以外と恋をしたいものですわ」
静香の言葉には菊一郎との今の関係を言ってるようであった。
静香の言葉は決して皮肉ではなく真実のようであった。すると、愛佳は本当に自分を愛していたのだろうかと菊一郎は思った。今朝の紫陽花の会話も二人で出掛けたいと言うものであろうか。
静香が冗談で言っていたとしても菊一郎はその言葉の恐ろしさが徐々に体を蝕むように、そして寒気すら感じ、静香と体を重ねたことすらも怯えた。
「ねえ、今夜はお暇?」
「姪には仕事で遅くなるって言っていますから、ある程度なら暇になりますね」
菊一郎は自分の言葉に早く帰りたいと言う意志があるように思えた。そう捉えられたらどうしようかと考えた。
「そう、遅くはならないと思いますわ。ちょっとした夕食を。旦那は帰ってこないので」
静香の悲しみを抱きしめられる程、菊一郎は静香の心中を深く探ってはいけなかった。
・
静香の悲しみは菊一郎の想像より深いのだろう。静香は暗闇の中で泣いているのかも知れなかった。
そう思うと菊一郎は旦那に怒りが湧いてくるようだった。
陽の光が入らない日には静香の哀愁が浮き出てきた。家の庭には雨粒が所々にあり、濁った空を映していた。
静香は家を出る際に傘を持っていった。菊一郎は傘を持っていなかったので、もし、雨が降って来た際に静香の傘に入るのは申し訳がないので、どこかで買って行きたいと思った。
夕方でもこの季節はまだ明るく、七時を過ぎても、夜を感じさせない程であった。
菊一郎は静香の後をついて行き、一軒の店へと入った。
「いらっしゃい」
「二名で」
「奥をどうぞ」
静香はそう言うと、奥の席へと進み、菊一郎もそれに続いた。大きな一窓だけがある店で、奥の方は電気がついていた。そこだけが真夜中のようであった。
つきっぱなしの扇風機が回っていたが、風は弱く、ついていないと言ってもよかった。
「菊一郎さん。何か飲まれます?」
「僕は酒ならなんでも」
静香は適当な酒を注文した。
「近頃は雨雲ばっかりよく見えて、頭もよく痛くなるますわ」
「しかし、雨は降りそうで降らないですね」
「それがまた、いらいらとさせてきますわ」
菊一郎と静香の前に蒸留酒が置かれた。
「先程の姪の話なんですが、静香さんが仰った姪が僕の事を愛してるって言葉。兄も同じことを僕に言っていたんです」
静香は特段驚きはしなかった。当たり前だと思っているのかもしれない。
「確かに、わざわざ僕の家に泊まりに来たり、散歩をしようと言ったりと、考えればそのように受け止められることもあるんですね。しかし、もし、それが本当なら姪もそれが駄目だとは知っていて愛していることになるんです」
「女って案外そんなものですわ」と静香はと言った。
「男の人は真面目ですもの。自分の気持ちに嘘をつきながら不貞を働く人が多くて、私みたいな女は開き直っているんです。姪っ子さんもきっと心の中ではそうなのではないかしら?」
静香の言葉には説得力があり、そう思うと愛佳が菊一郎に対してそう思っているとしか思えなくなってくるようであった。
しかし、これが静香の一人歩きした考えであり、愛佳が自分に対して何も思っていないとしたらと菊一郎は思うと、また素直に思えなくなるものもあった。
菊一郎は疑心暗鬼になり、曇った心に正しさを見出そうとしていた。
風が時折当たり、その度に菊一郎は寒気を感じた。汗で冷え、鳥肌が立った。
「寒いですか?」
「いえ」
「でも、顔色がよろしくないわ」
静香は扇風機を止めるように店員に言った。店員は慌てた様子で扇風機を止めた。
風が当たらなくなると、再び、暑さが込み上げてくるが、それでも先程よりは良くなったらしく
「菊一郎さん、だいぶ良くなったかしら。青ざめた顔が段々と元に戻ってきましたわ」
菊一郎の心は青ざめたままであった。だが、静香には悟られまいとした。
静香はその事に気がついているのかは菊一郎にはわからなかった。ただ、心配そうに菊一郎を見ていた。その様子は母のようにも思えた。
菊一郎はしばらく会っていない母を思い出した。父は特別嫌ってはいなかったが、兄嫁との不貞が原因で実家に顔を出すことはしなくなり、母ともそれ以来顔を合わせていない。母に会いに行くと父はそこに必ずいるので、母だけを見に行くことはできないことであった。
そのせいか、母の顔がうまく思い出せなくなっていた。母の顔を思い出そうとすると今は静香の顔が浮かんでくる。
菊一郎は父にその憎しみを抱いた。母すら顔をうまく思い出せなくなる。それは父のせいであると、菊一郎は改めて思った。
憎しみを紛らわすため、菊一郎は蒸留酒を喉に流し込んだ。
「随分な飲み方....」と静香は薄い声色で言った。
そうすることで頭の中で何が父で何が憎しみなのかを分からなくした。だが、ここで菊一郎は不思議と憎しみは父だけに向け、兄嫁には憎しみを持たない事に気がついた。
兄嫁は菊一郎はほとんど言っていいほど顔を合わせたことがなかった。愛佳がまだ幼い頃に一度か二度会っただけであった。菊一郎にとってはほとんど他人と言ってもよかった。だからであるのか、不貞は全て父が悪いと菊一郎は思ってしまっていた。仮に兄嫁が父を誘ったとしても菊一郎は兄嫁はいないものと思うのであろう。その場合でも、誘われた父が悪いと思えた。
静香は蒸留酒を飲み終えるとウォッカへと移った。菊一郎はもう何も飲むことはなかった。ただ、静香の飲む姿を眺め、そこに菊一郎が父に持つ同じような憎しみを静香は旦那にも持っているのかと思っていた。
ふと、壁に目を向けた。暗い店内で壁は薄茶色であるようだが、天気が悪いとその色合いは感じられなかった。
・
店を出ると、静香とは別れ、菊一郎は家へと帰った。
別れる際に静香は
「十五歳はまだ幼くもあるから、一度、菊一郎さんがその気持ちに向き合ってはどうかしら。私の言うことが必ず正しいとは限らないけれど、でも、お兄さんも私も同じことを言うのであれば、そうかもしれませんわ。でも、二人とも落ちては駄目ですけれど」
「はあ、考えてみます。僕は姪をそのようには見ていないので、心配するようなことは起こらないと思いますが、一度、姪の気持ちを知っておくことも大切ではありそうですね」
菊一郎は父の憎しみとともに愛佳の姪としての愛を思った。
電車に乗ると、窓の景色がいつの間にか暗くなっていた事に少しの驚きを持った。