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憂い事  作者: 山神伸二
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来訪

 煙草の匂いがしやしまいかと菊一郎は一度自分の匂いを嗅ぎ、斉藤の家へお邪魔をした。

「ごめんください」

 奥の方から小さい足音が響き、静香が玄関へと出てきた。

「お待ちしておりました。いらっしゃい」

 静香がそう言い、後ろを向くと菊一郎はその後ろ姿を見続けながら中を上がった。

「旦那様は....」

「大阪の方へ行っているわ」

 静香は言葉の矛先をどこに向けていいのかわからないように見えた。

「先月は長野の方に行ってらしてましたね」

「ええ、毎月どこかに行っているんですわ。それが仕事なのか、はたまた別の女性と遊びに行かれているのかは私にはわかりませんわ」

 外の風が窓に当たるようでその音が不穏に響いていた。

「東京ですら泊まって過ごしているのだから、仕事ではないですわね」

 呆れを通り越して、静香はそれが風のように通り過ぎるのを待っているかのようだった。

「こんな美しい人をほったらかしにするなんて」

「まあ、ご冗談を」

 静香は本当に驚いたようで笑いもせずに真に受ける表情浮かべていた。

 静香は意外にも素直な所が見受けられた。人よりも頭ひとつ抜けて賢い人物であるが、妙な所が子供のようでもあり、それが静香の魅力的な面であると菊一郎は思っていた。

「今、お茶を淹れますわ」

「いえ、お構いなく、僕が本当はこうしてここにいるのはいけないことなんですから、茶なんて入れていたのを旦那様に知られると」

「向こうもお互い様でしょう」

 静香は冷たく静かにそう言い放ち、台所へ向かった。

 庭は暗く輝き、葉の影が夜のようであった。

 昼間であるが、暗いので、電気はつけないのかと思ったが、静香にその事は言わないでいた。もうすぐこの部屋は後にするからであろう。

 静香が戻り、菊一郎はその茶を口にした。その湯呑みは静香の湯呑みとよく似ており、夫婦湯呑みなのではないかと感じた。旦那が使用しているものなのかと思った。そうであるならば静香は中々な無神経とでも言うものだ。しかし、もしそうでないにしてもまるで夫婦湯呑みのようにも思える湯呑みを菊一郎に出したことは無神経のように思えてならなかった。

 静香の女性的な所は一部、男性的になっている部分がある。あのような面が好きな男もいるのだろう。現に彼女の旦那は恐らく静香のそのような所に惹かれていったのだろう。

 静香の旦那は静香よりも三十歳程、歳をとっており、妻を亡くした後、静香を嫁にした。静香とは前の妻が亡くなる前に出会っており、静香も前妻とは顔を合わせた事もあり、葬儀にも出席をしていた。

 まだその時は二人は愛し合う事はしていなかった。その後、二人の間で何かがあり、二人は短い交際を経て結婚をした。旦那にとっては短い独身期間であった。

 金だろうかとも菊一郎は思ったが、不倫をしている旦那に怒っている様子を見るに本当に愛しているのかもしれない。だが、そんな静香も不倫をしている。

 旦那への復讐であるのか、それとも愛されない悲しみがそうするのか。

 静香の旦那への愛は本物である。それ故に菊一郎という男を引っ掛けてまで旦那への愛を深め、菊一郎はそのことを知っていながら旦那に同情する気持ちを持ちつつも静香にも同情する気持ちを持っていた。

 静香の鋭い目が菊一郎に刺さった。菊一郎は一瞬、動きを止めたが、静香の言葉を待つことにし、じっと声を出さずに静香の目を見た。

「あら、そろそろにする?私はいつでもいいですわよ」

 静香が立つよりも先に菊一郎は立ち上がり、静香がゆっくりと立ち上がると

「僕ももういいですよ」

「若い人には待ちくたびれたかしら?」

「いえ、前戯よりも前にする何気ないお話しは好きなので」

 菊一郎は寝室に先に静香を通すと、そっと扉を閉めた。

           ・

 終わりはいつもより早く、服に着替えた静香は少しだけ不満そうに

「この後、何か用があるの?」

「ええ、姪がしばらくうちに泊まっていくんです」

「姪っ子さんがいらっしゃったのね」と静香は髪を結びながら言った。

「15です。全然若いんですよ」

「かわいい年頃ですわ」

 菊一郎は静香の言うかわいいと言う言葉にどんな意味が含まれているかはわからなかった。

 そして菊一郎は静香が薄い長袖を着ている間に家を後にした。

 近くの長谷駅には行かず、鎌倉駅の方を目指して歩いた。

 雨は今にも降りそうである。今か今かと心の内で待っていても雨は一向に降らなかった。

 雨が降るのは好きではないが、ここまで雨雲を張り巡らしておいて、雨が姿を見せないのは卑怯ではないか。

 初めは冗談のつもりの考え事であったが、そのうちに段々と怒りが積もって来るようであった。

 服からは静香の匂いが少しだけ残っていた。その匂いが女の匂いであり、慣れると安心感を得てしまうのであった。

 駅に着くとそのまま東京駅へと向かった。東京は雨が過ぎた後のようで、水溜りがどこも大きくできていた。

 時間は五時を過ぎ、駅から離れた家に着くと、そこに人影が見え、菊一郎はそれが姪の愛佳だとわかった。

「久し振り」

 菊一郎はそう言い、愛佳のそばに行った。

「お久しぶりです」

「どれくらい待ったの?」

「ものの数分です」

 愛佳の足は僅かに震えていた。その震えは寒さを隠すようにして小刻みに震えていた。時々、不規則にピタッと止まり、すぐ、また小さく震えている。

「今、開けるから」

 扉を開けると菊一郎は愛佳を真っ先に家の中に通した。

「愛佳ちゃんは珈琲飲む?」

「はい」

 菊一郎はリビングへは行かずに台所へ行き、二人分の珈琲を作った。

 愛佳と最後に会ったのはいつだっただろうか。菊一郎の記憶の愛佳はまだ子供らしく、菊一郎に対して、人見知りをしていたようだった。十五歳だと大人になっているとは思っていたが、彼女の精神的な部分が大人と遜色ないのか、その変わりようは別人にも思えた。

 愛佳も一人の女性となったのか。玄関で菊一郎の帰りを待っていた愛佳は菊一郎が見たことない景色だった。

 愛佳はリビングで電気もつけずに座っていた。菊一郎は珈琲を机に置くと電気をつけた。

「まだ夕方も明るいとはいえ電気つけないと何も見えないでしょ。今日は暗いから特に」

 愛佳は小さく返事をした。吐息のような声は小鳥のようでもあった。

 菊一郎は愛佳が何故、自分の家に来たのかは兄から聞かされていなかった。それは聞いても良いものかと思った。兄から何も言われていないのは兄すらも言いにくいものなのではないか。ただ、理由も言わずに愛佳を少しの間泊まらせるのもおかしな話である。愛佳は大人しく座って珈琲を飲んでいるが、それは昔から変わらない元々の性格なのか、それとも菊一郎の家に来てまだ緊張をしているのか。

 珈琲を飲む愛佳の唇はほのかに赤く光っていた。小さく動くたびに光が口の端から真ん中へ移動し、そして再び元いた位置に戻った。

 その光に菊一郎は儚いものを感じた。愛佳そのもののように消えてしまいそうな悲しみがそこにあった。

「久し振りに会うと驚くね。愛佳ちゃんすっかり大人になっているから」

「まあ、そんなこと」と愛佳は言いかけた。その後に続く言葉は思いつかないのか、それとも菊一郎の言葉を受け入れたのか、何も言わずにいた。

 菊一郎は珈琲を口にして、火傷をした。珈琲を冷ましている間、愛佳がピアノに目を向けているのに気がついた。

「愛佳ちゃん、ピアノを弾くの?」

「いえ、家に置いてないので、弾かないのですが、友人がピアノを弾いていて、家に行くと、友人とよく弾くんです」

 愛佳はそう言ったが、菊一郎は綺麗な背筋で座っている愛佳を見ると中々に絵になるのではないかと思った。

「学校の友達?」

「はい、小さい頃からの友達ですわ。かわいらしい子です」

 菊一郎の記憶の中にいた愛佳の頃と知り合ったのだろうか。小さい愛佳の隣に菊一郎が想像した友人の姿が思い浮かばれた。

「女の子だよね?」

「ええ、そうです。かわいらしい子なので」

 愛佳はかわいらしい子と再び言った。愛佳にとって友人はかわいらしい子という思いがとても強いのだろう。友人の事を思ったり、目にするたびにそう思うのかもしれない。

「恋人とかはいるの?」

「はい、去年の年末からお付き合いしている人がおります」

 特別驚きはしなかったが、菊一郎は記憶の中の愛佳を思うと少し変に思われた。だが、今目の前にいる愛佳を見るとそれは当然のようにと思えた。

 そのことを兄は知っているのか。

「同い年?」

「大学に通っている人です。初めてお会いしたのが二十歳でしたので、今は二十一ですね」

「随分と離れているんだね」

「ええ、でも私の友人もそのような方がいっぱいいらっしゃいます。まるで親子のようにも見える友人もいるんです。二十歳も離れていたり」

「それは清い恋愛とは言い難いね」

「ええ、本当に私もそう思いますわ」

 その言葉に菊一郎は引っかかりがあった。恐らく、愛佳は純潔な心を持ち合わせているのだろう。美しさとともに無垢な心を汚さずに守っているのだ。

 しばらくすると菊一郎は愛佳を二階の空いてる部屋に通し、そこを愛佳の自由にしていいと話した。

 そこは菊一郎の友人や親戚などが来た際に泊まる予定の部屋であるが、愛佳以外では一度か二度しか使用した事はなかった。普段は物置のようになっていた。

 愛佳は荷物をそこに置き、荷物の中から必要なものを取り出して整理をした。菊一郎はその場を離れて、一人元いたリビングへ戻った。

 菊一郎と愛佳が珈琲を飲んだカップを手に取り、台所で洗った。

 愛佳の使用したカップは心なしか紅色が写っているようにも思えた。気のせいだと思いながら、自分の使用したコップを見ても紅色らしき色は全くなかった。

 荷物の整理が終わった愛佳は階段から降りる所で菊一郎と会った。

 階段を降りる音に菊一郎は自分とは違う生き生きとした足音のように聞こえた。

「終わったの?」

「はい」

 何が終わったかは言わなかった。愛佳はどことなく目に悲しみを帯びていた。

 愛佳は十代の女の子なので、入浴にかなりの時間を掛けていた。その事を事前に愛佳から聞いていた菊一郎はその時を狙って、愛佳が風呂に入っている間に兄に電話をした。

 電話には女中が出たが、兄に代わってもらうよう言うと、しばらくして兄が電話に出た。

「愛佳はどうしてる?」

「風呂に入ってますよ。若い子は風呂の時間が長いんですね」

「その事で、口喧嘩をすることもあるけどね」

 電話の先で苦笑いをしている兄の姿が想像できた。

「なんで愛佳ちゃんはうちにきたんですか?」

「あの子はお前のことを好きでいるんだよ」と兄の言った言葉に菊一郎は

「まさか、だって恋人がいるって言ってましたよ」

「まあ、憧れみたいなものさ。子供の頃にお前と会った時の愛佳の顔を俺はよく覚えている。顔を赤らめて、恥ずかしそうにしていた。あれはあの子の初恋だな。けど、愛佳の恋人は愛佳が本当の意味での愛する事を知った相手さ。二人を見ていると幸せそうだよ」

 電話を終えると菊一郎は兄に愛佳がうちにきた理由をはぐらかされた事に気づいた。それと同時に兄が言った本当の意味での愛する事という言葉をどういうものか思い描いた。

 その後、先程洗ったカップを見に行ったが、どちらが、愛佳が使用したカップだかわからず、どちらも紅色がカップの表面に浮いたり沈んだりしているようだった。

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