2.兄と"私"
それから私は、"モヤさん"が私の身体に入っていく様子を見守りました。
ゆっくりと"私"が、フィオリーナ・ヴァレンティが身体を起こします。
"モヤさん"は私の身体で周りを確認するように見回してから、何度か手を握ったり閉じたり、動きを確かめているようでした。
そして、ふと、ドレスの裾が気になったらしく、見えていた足首をそっと隠しました。
慎ましやかな性格なのでしょう。
私はホッとしました。
あまりに性格が違っては、私自身も、私の周りも戸惑ったはずですから。
《そういえば、どのくらい霊の状態でいたのですか?》
…………。
尋ねてみたのですが、返事がありません。
《ねえ、あなたのお名前は?》
この質問にも反応がなく。
(気づいてないのかしら)
《あの、聞こえてます?》
そう言いながら、"モヤさん"の顔の前に回り込んで、私はハッと気づきました。
"私の瞳"に、私の姿が映っていないことに。
(そうか! 今度は私が霊になったから、私のことは見えないし、声も聞こえないのだわ──)
私が死を選ぶまで、"モヤさん"の存在にまったく気づかなかったように。
生者と霊の間には厳然たる隔たりがあり、接点なく過ごす世界が違っている──。
(どうしましょう!)
"モヤさん"が私の身体に入る前に、もっとたくさん、互いに話をしておくべきでした。
私は"モヤさん"の事情を知りませんし、"モヤさん"も私のことを詳しくは知らないはずです。
冤罪だ、と言い切っていたので、多少は見ていたのかもしれませんが。
(困ったこと……。せめて家族の話だけでもしていたら良かった。このままではモヤさんは大変なのではないかしら)
一刻も早く、現世のしがらみから解き放たれたくて、私は逃げるように身体を押しつけてしまったのです。
己の迂闊さを後悔してももう遅く、私の呼びかけは"モヤさん"に届きません。
今更ながらに焦り出す私を救うかのように、地下牢に足音が響きました。
「フィオリーナ公爵令嬢。兄君のレナート・ヴァレンティ公爵令息がお迎えに来られました」
牢番が城の侍従と兄を案内してきたらしく、鉄格子を隔て、侍従からの声かけがありました。
(とても素晴らしいですわ、侍従の方! 私の名前とお兄様のことをモヤさんに伝えてくれて! どうもありがとう!)
私は感謝の気持ちでいっぱいになりました。
これで家名も"モヤさん"に伝わったはずです。
促された"モヤさん"が、牢から出て、兄について歩きます。
私はその後ろから、漂うままに進みました。
地下牢の通路を歩き、地上に出る間、兄は"私"を気遣い、柔らかな言葉をたくさんかけてくれました。
城の侍従たちと別れて馬車に向かう間は、カルロ殿下への憤りを吐露し。
「だが婚約が破棄されて逆に良かった。カルロ殿下にお前はもったいない」
とまで。
私もカルロ殿下の仕打ちは許せませんが、けれどもここはまだ王城内です。
(はわわわ。殿下の悪口はまずいです、お兄様……!)
普段は心得ている兄から、ここまで不敬な発言が飛び出すなんて。よほどに激高しているようでした。
「今度のことは父上もお怒りだった。もともと王家との縁組は、父上と陛下との学友時代の約束から成ったこと。男女の子どもが生まれたら娶せようという話だったが、向こうから破棄してきたんだ。もうこれ以上は、振り回されなくていいぞ」
"モヤさん"は黙したまま、兄の言葉を聞いています。
"私"の沈黙を兄はどう受け取ったのか、慰めるように言葉を添えました。
「だがダヴィド殿下のことは、残念だったな」
《!!》
兄は、私がダヴィド殿下を慕っていたことを、よく知っています。
ふいに涙がこみ上げそうになりました。
そんな私に代わって、モヤさんからは微かな声が漏れたようです。
「…………ません」
「ん?」
聞こえなかったようで、兄が問い返しましたが、"モヤさん"はそれ以上は喋らず。
兄と"私"は、待機していた馬車へと到着しました。
王家への暴言にヒヤヒヤしつつも、私の味方でいてくださる兄には、染み入るような嬉しさを覚えます。
同時に申し訳なさが胸をよぎりました。
(ごめんなさい、お兄様。リーナはもう、自分の身体を手放したのです……)
"モヤさん"が"私"を動かしてくれていて良かった。
そうでなければお兄様が牢にみえられた時、倒れた私にどれほど嘆かれたことか。
(それにしてもモヤさん、さっきは何と呟いたのかしら)
私の耳には、"過去にはさせません"。そう聞こえたような気がしたけれど……。
そんな時でした。
がくん! と急に。
馬車に乗ろうとしていた"モヤさん"の身体が、傾きました。
たぶん次話までが「起承転結」の「起」部分になると思います。予定では。