最終話 風
「十乃です。今日はよろしくお願いします」
そう言うと、その男は握手を求めてきた。
僕はその手をおずおずと握った。
「うん。よろしく頼むよ」
そう応えると、十乃と名乗った若者が相好を崩して笑う。
歳は二十歳を超えているようだが、見た目はだいぶ若い。
もっとも、僕も他人のことは言えないくらいには童顔だ。
とにかく、これが僕と「十乃 巡」という男との出会いだった。
さて、僕達が住むこの降神町は、他の街と比べると少し…いや、相当変わっている点がある。
それは、この町が人間と特別住民が共存しているという点だ。
今から約二十年前、この町には「特別住民」…即ち、バケモノである妖怪が姿を見せた。
それだけでも大事だが、加えて大事だったのは彼らが皆、人間と変わらない姿をしていたということだろう。
まあ、おかげでこの町の人間たちは、彼ら特別住民をわりかしすんなりと受け入れた。
その順応力の高さには、逆に特別住民たちの方がびっくりしたと思う。
ともあれ、この二種族は共存できるように道を模索し始めた。
その試みの一つが、降神町役場が主催する「人間社会適合セミナー」だ。
このセミナーでは、人間たちの講師が特別住民を相手に人間社会の常識やマナーを教え、彼らが現代の社会に旅立てるようにサポートすることを目的としている。
僕はその内容に興味を持ち、見学させてもらうことにした。
…と、ここまで言えばもう分かるだろう。
そう、僕も特別住民の一人だったりする。
そして、十乃は見学者の案内役というわけだ。
「じゃあ、早速授業風景でも見学に行きましょう」
十乃の先導で、役場の中を歩く。
ほどなくして着いたのは、新しく建てられたという別棟だった。
何でも、国からの補助を得て、僕たち特別住民のために建てたという。
何とも手厚いことだ。
そうして無言でいると、先を進む十乃が少し笑った。
僕は怪訝そうに聞いた。
「何か?」
「いえ、すみません。さっきから一言も喋らないので、もしかして、少し緊張しているのかなって思って。特別住民の皆さんは大抵、ここをご案内する時に色々質問する方が多いんです」
「…すまない。よく『大人しい』とは言われる」
「いいんですよ」
十乃はニッコリと笑った。
「新人採用で初めてここに来た時は、僕もそうでした。特別住民の皆さんを相手に、ちゃんとできるのかなって、ガチガチに緊張してたんです」
それを聞いた僕は、ふと尋ねた。
「君は何故、この仕事を…?」
「そうですね…」
一呼吸置いてから、十乃は言った。
「好きだからです」
僕は呆気にとられた。
「…それだけで?」
「それだけです。でも、とても大切なことだと僕は思ってます」
僕は押し黙った。
人間の一生は、僕たち妖怪と比べればとても短い。
彼らはその短い一生を生き抜くために学び、職を得て、日々の糧を得ていく。
そうして仕事を得るに当たっては、好き勝手には職種も選べないはずだ。
もし希望する職に就けたとしても、色々と苦労は多いと思う。
時には、それを耐え忍ぶことも要求されるはずだ。
実際、町で見かけた人間たちの中には、疲れていたり、辛そうだったりする連中と何度もすれ違ったことがある。
けれども、この十乃という若者からはそうしたものが感じられなかった。
(人間の中には、こんな奴もいるのか)
人間というのは、本当に変わっている生き物だ。
いや、ひょっとしてこの男が変わり者なんだろうか?
いずれにしろ、彼らは僕たち特別住民の理解を超えている。
で、僕はその変わりに変わった「人間」の中に飛び込まなきゃいけないのだ。
「さあ、着きましたよ。ここがセミナーの受講室です。ええと、今日は確かパソコンの使い方を…」
十乃がそう言った瞬間、
がっしゃーん!
派手な破壊音が受講室の中から響いてきた。
続いて、たくさんのざわめきが耳に入る。
「もうっ!だから言ったじゃありませんの!乱暴に取り扱ったら、壊れてしまうのは当然です!」
「でもよ、俺は言われたとおりにキーを叩いていただけだぜ!?」
「飛叢兄ちゃん…いくら手っ取り早いからって【天捷布舞】のバンテージでキーを高速連打したら、壊れちゃうよ…(汗)」
「せんせー、余さんがまた勝手にアダルトサイトを覗いてまーす」
「い、いや、これは某のライフワークである『美の探究』を…」
「腹減ったー。飯まだー?」
僕は思わず十乃を見た。
彼は頭を抱えてその場にうずくまっていた。
「だ、大丈夫か?」
オロオロする僕の呼びかけに、十乃は口元を引きつらせながら笑った。
「…ええ…割と慣れっこなので…」
「…これが慣れっこ」
僕は呻くように呟いて、受講室へと目を向けた。
中は見えないが、聞こえてくる音や会話で容易に想像が出来る。
この中で、どんな混沌な展開が繰り広げられているのかが。
「と、とにかく、皆さんにご紹介しますね」
どうにか立ち直った(ように見える)十乃は、受講室のドアを開いた。
その瞬間。
今までに感じたことのない不思議な風が吹き抜けていくのを感じた。
それは、妙に胸を高鳴らせる風だった。
十乃が微笑む。
「さあ、どうぞ、風峰 太市さん。ようこそ、降神町役場へ!」
「ああ」
僕は一歩踏み出した。
何だか分からないが、妙に胸がドキドキする、この町の中心部へ…