第三話 影鰐
昔々。
島根県邇摩郡温泉津町(現・大田市)の沖には“影鰐”という妖魚が現れたという。
“影鰐”は海面に映った船乗りの影を飲み込み、影を奪われた者は必ず死んでしまうと言われていた。
そのため、漁師たちはほとほと困り果てていた。
そんな人々の力になるため、凶獣をなんとかしてやろうと立ち上がった男がいた。
名は十乃 巡。
何の力も持たない(以下略)。
「今日は海が凪いで(※波が収まった状態)いる…“影鰐”はこんな日に出るはずだ」
独り「船上の人」となった巡は、鏡のように静まった海面を見渡した。
「さて…勇んでやって来たはいいけど、どうしたものかなぁ」
とことん行き当たりばったりな巡だった。
「…これはこれは。珍しいお客さんですね」
不意にどこか耽美な男の声がした。
見れば、船の舳先に一人の男が立っていた。
黒い長髪に黒いタートルネック。
漆黒の瞳と対をなすような白磁の肌、
妖しげな色気すら放つその男は、巡に向かって慇懃無礼に一礼した。
「ようこそ、私の海域へ。歓迎しますよ、勇敢な若者さん」
「貴方は…!?」
「影流 鏡冶。ああ、人は私を“影鰐”と呼ぶのでしたね」
「何ですって!?」
巡は仰天した。
「そんな…こんなことが…」
驚く巡に、鏡冶が薄く笑う。
「驚いたようですね。私の正体に」
「いいえ。こんなににまともな登場をすることに驚きました!」
風も吹かぬ海域に、呆気にとられたような「ヒュゥゥゥ」という風鳴り音が響く。
「…はい?」
何かを確認するように“影鰐”こと鏡冶が聞き返す。
それに巡が訴えるように言った。
「聞いてくださいよ、鏡冶さん!第三話にくるまで僕がどんな目に遭って、どんなハチャメチャな妖怪と出くわしてきたかを…!」
そう言うと、巡は滔々とこれまでに妖怪と出くわしてきた話をした。
涙すら交えるその独白に、鏡冶はただ唖然と聞き役に回っていた。
「…で、僕は危うく鼻血で失血死するところだったんです」
「は、はぁ…それは災難でしたね(汗)」
「まったくです!今度、鏡冶さんからも篝に言ってやってくださいよ!女の子として、もっと恥じらいというものを持つようにって!」
「ええ、そうしましょう。どうもあの娘は身体ばかり大人になって、頭の中身はまったく成長していませんから」
「凪も生真面目で努力家なのはいいんですけど、その分、周囲が目に入らなくなるっていうか…」
「申し訳ありません。アレは一度思いつめると、とことん突っ走るところがありますので」
そう言いつつ、思わず嘆息する鏡冶。
身内がしでかした無茶や無恥に肩身が狭くなったようだ。
そこで巡は微笑した。
「でも、良かった。鏡冶さんだけはまともで」
「まぁ、これでもあの二人のお目付け役みたいなものですし、小さい頃から色々と面倒を見てきたものですから」
「そうなんですね。そう言えば、あの二人は小さい頃はどんな感じだったんですか?」
…のちに巡はこう語る。
「あの時はちょっとした興味で話題を切り出しただけだったんです…でも、それがあんな結末を呼び起こす切っ掛けになるなんて…」
それは電光石火の出来事だった。
鏡冶は抜く手も見せずに自らの影に手を突っ込むと、一瞬で一対の座布団を取り出した。
それをそそくさと船の上に並べると、静かに正座する。
「さ、巡君もどうぞ」
「…へ?」
座布団を勧めてくる鏡冶に、巡が間の抜けた返事をする。
その間に、鏡冶は再び自分の影へ手を突っ込むと、急須に茶碗、お茶菓子の入った菓子盆、そして分厚いアルバムを数冊取り出した。
「今日は天気もいいし、いい機会です。日もまだまだ高い。影が十分に濃いですからね」
ニッコリと笑いながら、ポンポンと空の座布団を叩き、座るように催促する鏡冶。
「さ、遠慮なくおかけください。お茶もあるし、甘いお菓子もそろえておりますので」
「え…あ、あの…鏡冶、さん…?」
異様な気配を察し、慄く巡。
何か、触れてはいけないものに触れてしまったようなうすら寒い感覚が全身を走った。
「それほどに聞きたいなら語りましょう」
笑みを崩さずに鏡冶は全身から「保護者オーラ」を立ち上らせつつ、続けた。
「あの二人の思い出の話を…!」
その後。
巡は日が暮れて深夜になろうかという頃まで、鏡冶の思い出話に付き合わされた。
ようやく解放された頃には、巡の髪の毛は半分以上白髪になっていたという。
親馬鹿とは、あなおそろしきことなり。