第一話 磯撫で
昔々。
肥前国の松浦郡(佐賀県・長崎県)の海に“磯撫で”という怪魚が出没すると噂だった。
“磯撫で”は、その尾鰭に無数の鉤を持ち、波間を撫でるように近付いては、その尾鰭で船乗りを引っ掛け、海に落として食らうとされていた。
そのため、船乗りたちはこの怪魚を非常に恐れていたのだった。
そんな人々の力になるため、怪魚をなんとかしてやろうと立ち上がった男がいた。
名は十乃 巡。
何の力も持たない純朴な人間だったが、妖怪に詳しく、多少は機転も働いた。
巡は船に乗ると“磯撫で”が現れるという海域にやって来た。
「さて…勇んでやって来たはいいけど、どうしたものかなぁ」
割と行き当たりばったりな巡だった。
「“磯撫で”は海面を撫でるように泳いで、音も無く近付いて来るっていうから、気を付けないと…ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!?」
船上で思案していた巡の体が、突然見えない巨大な手でさらわれたように宙を舞う。
なすすべなく空を舞った巡は、やがて一艘の船の甲板に叩きつけられるように落下した。
「ふぎゃっ!」
顔面からモロに着地した巡が、顔を押さえて呻いていると、一人の男が怪訝な顔で近付いて来る。
「おい、大丈夫か、あんた?」
見れば、凛々しい若者だった。
顔立ちは整っており、イケメン俳優と遜色のないレベル。
浅黒い肌に、誠実そうな眼差し。
そして、目を引いたのがその長い黒髪だ。
一本に束ねられた髪先は、甲板に届きそうなほど長い。
若者は、甲板に這いつくばったままの巡に、手を差し伸べた。
「立てるか?見たところ、大きなケガはなさそうだが…」
「あいたた…すみません、ありがとうございます」
礼を言うと、巡は立ち上がってから、若者に頭を下げた。
若者は「海桐 凪」と名乗った。
何でも、地元の漁師の一人だという。
巡は凪に事情を説明した。
「…というわけで、僕は“磯撫で”という怪魚を何とかしようとやって来たんです」
「…そ、そうだったのか…」
何故か、全身から汗をダラダラ流しつつ、キョドり始める凪。
が、巡はそれに気付かず続けた。
「地元の漁師さんなら“磯撫で”のことはご存じでしょう?」
「ま、まぁな…この上なく詳しいというか、何というか…」
凪は、何故か明後日の方角に視線を向けた。
気のせいか、その声が固い。
相変わらずその不審な様子に気付かず、巡は凪の言葉に食いついた。
「そうなんですね!“磯撫で”は音も無く船に近付き、人を引っ掛けてさらうと言われています。この近くで、そういった話とか、怪しいものを見ませんでしたか?」
説明しながら、奇妙な既視感を感じる巡。
何かつい最近、自らそんな経験をしたばかりのような気もする。
凪はギクリと身を震わせると、視線をさらに背けた。
「さ、さぁ…心当たりがないな」
「お願いします!どんな小さな情報でもいいんです!皆さん、すごく困っているんです!」
「そ、そうか…そりゃあ、俺も困ったな…」
「でしょう!?だから、一刻も早く“磯撫で”の脅威から皆さんを守らなくては…!」
詰め寄る巡に、視線を逸らしていた凪が、不意にあらぬ方向を指差した。
「あっ!あんな所で“磯撫で”がノリノリでフラダンスしてる!」
「ええっ!?」
つられて巡がそちらに目を向けた瞬間、
ブオン!
「…ぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!?」
再び宙に舞い上がった巡の体は、見えない何かに振り回されるように旋回し、遥か彼方へと消えていった。
悲鳴の残響を聞きつつ、凪はそっと瞑目し、呟いた。
「…すまん。乗っていた船に戻したつもりだから、それで勘弁してくれ」
その後。
不思議と“磯撫で”の被害者はぷっつりと途絶えた。
地元の漁師たちは巡に深く感謝し、大層もてなした。
特に何もしておらず、謙遜しまくっていた巡は、最後まで「???」だったという。
同時期。
「あれ?今日は【潜波討艪】の練習に行かないのか、凪?」
仲間の女漁師である篝にそう尋ねられた凪は頷いた。
「ああ。しばらく控えようと思う」
「へ?『最近不調で、うまく目標が狙えないから、じっくり鍛錬するんだ』って、やる気満々だったじゃん」
不思議そうな顔で聞いてくる篝に、凪はアンニュイな顔で海原を見詰めた。
「まあ、な…けど、ちょっと迷惑かなって」
「は?」
「…20人も誤爆で釣ったのはやり過ぎだよな、さすがに」
ミャーミャーと鳴くカモメの声を耳に感じつつ、“磯撫で”はそう呟いたのだった。
行き過ぎた生真面目さも、あなおそろしきことなり。