15.彼女
「なんだか思い悩んだ顔をしてますね」
唐突に誰かに話しかけられた僕は、はっとしてその声のほうへ振り向いた。そこには女性が立っていた。その顔に見覚えがあった。アパートの隣人の女性だ。
「ここ、座ってもいいですか?」
僕はどうぞ、と言う。彼女は向かい合った席に座る。ウェイターが注文を取りに来ると、彼女はコーヒーを頼んだ。
「別にコーヒーなんて好きじゃないんですけどね。このお店に来ると雰囲気で頼んでしまうんです」
彼女は少し笑いながら言う。
「このお店によく来られるんですか?」
僕は問う。
「ええ。あなたもよくここに?」
僕は肯く。彼女が言うように、少し思い悩んだときはここに一人で来ることが多い。いつもの仲間たちとくるファミレスとは違う、昔からある喫茶店だ。窓際に置かれたテーブルから、外の様子を見ることができる。今は日中だ。外は人類の時間だった。
「顔が疲れてますね」
彼女の言葉に、僕は少しだけ微笑んで返す。確かに少し疲れてはいた。ここ最近、色々とありすぎたからだ。ヒロの失踪、辿り着けない塔、あのエレボスとの会話。下層現実とかいうわけのわからない世界のこと。そして誰が行くかを、今日にでも決めなければならないこと。
ここ最近、到底理解ができないことが立て続けに起こり過ぎた。まるで僕の頭の中に、理解不能なものを無理矢理押し込まれているような感覚だった。何度も頭の中の整理を試みた。しかし未知数なことばかりでそれは不可能なことだった。
しばらくして彼女のコーヒーが運ばれてくる。彼女は陶器のカップを手に取って少し口をつけた。
沈黙が流れる。僕はこの沈黙が苦手だった。彼女と話す内容が何かないか頭の中を巡らせた。
「普段は何をされてるんですか?」
僕はようやく頭から絞り出した、つまらない慣用句のような質問を問いかける。すると、彼女はカップを置いて、少し微笑む。
「ふふ。本当に私の普段に興味があるんですか?」
僕はその返答に少し困ってしまう。実は興味なんてない。僕は正直に答えることにした。
「いえ。会話を繋げようとしただけです。沈黙があまり得意じゃなくて」
「そうだと思いました」
彼女はまた微笑んで言う。
「私は普段…」
彼女はそう言いかけると、なぜか突然言葉を噤んでしまった。カップに手をかけたまま、手元を見たまま黙り込んでしまう。
そして微笑みは徐々に消えていく。その顔は何かに少し動揺しているかのように見えた。
「ごめんなさい。無理に答えていただかなくても大丈夫です」
僕がそういうと、彼女は首を横に振った。
「いえ。違うんです。ちょっとあることが頭の中をよぎった気がして」
今度は彼女は微笑まずにこちらを見た。何かを確かめるように。そして意を決したように口を開く。
「前に私、どこかで会ったことはないかと言いましたよね」
「ええ。申し訳ないですが、僕には覚えがなくて」
彼女は心を落ち着かせるかのように、またコーヒーに口をつける。コーヒーからは湯気がでている。
「これから話すこと、一つの物語のようなものとして聞いていただけますか?」
一つの物語、僕はつぶやく。その意味はわからないが、僕はとりあえず肯く。
「私、小さいころからある夢を見るんです。夜に徘徊者が出ない、そんな世界の夢です」
彼女は続ける。
「そんな世界で、ある場所で、男性とこうして向かい合って話をしているんです」
僕は黙って聞いている。
「男性はこう言います。『普段は何をされてるんですか?』。私は笑いながらこう言います。『本当に私の普段に興味があるんですか?』。そして男性はこう答えます」
「『いえ、会話を繋げようとしただけです。沈黙があまり得意じゃなくて』」
僕は答えた。
彼女は一瞬驚いたように僕を見る。そして肯く。
「つまり、私達は今、意図せず私の夢と同じ会話をしたことになります」
「単なる偶然では?」
しかし彼女は首を横に振る。
「私はあなたを見たことがあると言いました。でも場所はここじゃない。あなたも私も年齢は違った。服装も髪型も違う。でも、夢で見たのは間違いなくあなただった」
彼女はまたカップを手に取りコーヒーに口をつけた。そして目のやりどころがなかったのか、窓の外を見た。
「という物語です。ごめんなさい。また変な話しちゃいました」
いえ、と僕はいい。同じく目のやりどころに困り、彼女と同じように外を見た。その話を聞いた僕は、当然何も言えることがない。当然僕には何も覚えはない。なんせ彼女の夢の話なのだ。
「残念ながら僕には何も心当たりはありません」
「ええ。わかっています。でも、一つだけ伝えておきたいんです」
「伝えておきたい?」
僕は言う。彼女は静かに肯く。
「その会話のずっと後で、あなたは恐ろしく危険な場所へ行ってしまった。もう戻れないかもしれない場所に」
彼女は続ける。
「さっきあなたは思い悩んだ顔をしていた。もしかして、あなたも危険な場所へ行くのでは?」
僕は黙っている。確かにその夢の男性と同じように、僕も危険な場所へ行く。彼女のその言葉に、僕は言葉が出ない。
すると彼女はある言葉を口にする。
「『全てが変わる。それでも僕は会いに来る』」
「その言葉は?」
「夢の中で、あなたが私に言った言葉。たぶん、これはあなたが知っていなければいけない言葉」
全てが変わる。それでも僕は会いに来る。僕は言葉に出してみる。だがその言葉に、やはり心当たりはなかった。そしてその意味も何もわからない。
「…私達、またこうしてお会いできますか?」
彼女は僕に問う。
その問いに僕は答える言葉が見つからなかった。僕らは黙ったまま、時間は過ぎていった。沈黙が続く。しかしそれを破る言葉を今度は絞り出すことができなかった。