兆し※挿絵有
面白く感じてくれる方がいたら幸いです。
神はいつの世も不公平だ。
生きとし生けるものに平等は無い。
この世界は残酷だ。
弱き者は淘汰され、強き者が支配する。
俺の世界は何もない。
元から何も、持ってなどいないのだから――
部屋の片隅で、気休めにもならない小さな炎がその情景を映そうと必死に燃えていた。凍てつくほどの隙間風に晒されながら、その小さな炎は床に横たわる一人の男と、それを見下ろす小さな少年を辛うじて照らしている。
夜の帳に覆われたこの場所で、男の呻き声だけが響き渡った。
「こ、の……悪魔……め……」
その言葉を、少年は何の感情も宿さない青い瞳を向けて受け止める。そのままの目で、少年は剣を引き抜き、男の喉元へと突き刺した。
ゴボッと男の口から汚い音が漏れ、一瞬の痙攣ののち、その体は動きを止めた。突き刺さったままの剣を炎が照らし、落とした影はまるで墓標の様に映る。
少年は向きを変え、部屋の端へと歩き出した。暗闇に片膝をつき、その闇に手を翳す。淡い光が灯りだし、闇の中から一人の少女が姿を現した。
少年を見詰める少女の瞳はしかし何も映さない。闇と同じ色をしたシミが胸元に広がり、首から流れる冷たい命が、その闇をさらに広げていた。
少年が灯した淡い光が、少女の首元を優しく包む。綺麗な白い肌は裂け目を無くし、命の流れが止まった。それでも少女の瞳に少年が映る事は無い。
少年は少女の目を一撫ですると、眠るように横たわるその少女に向かって呟いた。
「馬鹿な女……」
******
俺は最初から無いものだらけで生まれてきた。産声と共に母を無くし、目を開けた時から俺の自由は無くなった。俺の前以外で父と名乗る男にボロ小屋へと閉じ込められ、記憶は奴隷のように虐げられていたものしかない。人としての尊厳は無く、自由に空を飛ぶ鳥を格子窓から眺めている時だけが唯一自由を感じれる時だった。
男の金を稼ぐために毎日内職を命じられ、小汚いくせに神経質という面倒くさい性格から、このボロ小屋を常に整理整頓しておかなければならなかった。いつ帰って来るかも分からず、帰ってきた時に内職の材料が散らかっていると烈火のように怒り狂った。
そんな男がとても上機嫌で帰ってきた事がある。珍しくまともな食事を与えられ、それを食べる俺の前で上等な酒を飲みながら昔話を始めた。俺を拾った時の話である。
その時、男は小道を歩いていた。ゴロツキの様な生活をしていた男は、空き巣目的で街道から離れた家々を物色していたのだそうだ。泥棒をするには打って付けの木々に囲まれた家を見つけた時、その家の中から女の悲鳴が聞こえてきた。恐る恐る窓から中を覗くと、悲鳴の主と思しき女が血だらけでベッドに横たわっているのが見えた。そして男はその光景に戦慄する。
「まるで赤ん坊とは思えないお前が、全身血に塗れて母親の腹を突き破って生まれてたんだ。母親の命を奪って生まれた子供、正に悪魔だぜ、お前」
そう言って男はおかしそうに笑った。
そのすぐ後、ひょんな事から女が未亡人だと知った男は全てを手に入れるための行動に出た。女の遺体を木の下に埋め、子供の父親は自分だと吹聴し、まんまとその家と財産を手に入れたのだ。そして俺が三歳になる頃、金目の物を食い潰した男は最後の財産である家を金に換え、俺を連れて今のボロ小屋へと移り住んだのである。
酔いに任せて意気揚々と話す男に、なぜ俺を置いて行かなかったのかを聞いてみた。
「んなもん、金になるからに決まってんじゃねーか。お前は顔が良いからな、後々高く売れるだろうぜ」
そう言って下卑た笑い声を上げながら、男は美味そうに酒を流し込んだ。
この時、俺はまだ七歳だった。子供にはかなりショッキングな内容だが、俺は然程驚く事もなく聞けていた。この男と一緒にいる時点で生まれてすぐに売られたか、親が亡くなったのだろうとは思っていたのだ。それは自分が原因かもしれないとも思っていたため、真実を突き付けられたところでやっぱりなという感想しかない。生まれ方には多少動揺したが、それよりも男に捨て置かれなかった事への気落ちの方が強かった。
そして九歳になる頃、俺はかなり達観した子供となっていた。生まれた時から子供と呼べる程に大きかったらしい俺は、身体も知能も成長がとても速かった。
逃げる事よりもここでどうしていくかを考える方が楽だと思い至った。いつか売られるのだから急いでここを出る必要はない。そもそも常に鍵の掛けられたこの小屋からは子供が出る術など無いに等しく、下手な事をして男に見つかりでもした方が厄介だ。それに人里離れたこの場所に、誰かが来る事などまず有り得なかった。
たまに帰ってくるこの男の視界に入らないよう息をひそめ、何日かに一回投げられる干からびたパンと傷んだ野菜を計算しながら食べる日々。この頃には多少魔法が使えるようになっていたため、水に浸したパンを火の魔法で炙って食べたりしていた。干からびているお陰で水を多く吸収し、それを温めて食べればそれなりの量をそれなりに美味しく食べる事が出来たのである。
知能がついて魔法も使えるようになると、やらされていた内職の効率も飛躍的に上がった。自分に起こった変化を細心の注意で隠し通すと、男が帰ってくるまで何もしない時間すら取れるようになった。するとますます無理にここを出る必要性を感じなくなっていったのである。
今思えば、外の世界に出るのがただ怖かっただけかもしれない。火の魔法が使える時点で、小屋を燃やせば逃げる事は出来たのだ。しかし、俺は考えつきもしなかった。生まれた時から何を望む事もなく、感情を殺して生きてきたからかもしれない。どちらにせよ、俺の居場所はここしかなかった。
そんなある時、転機が訪れる。
白い息を吐きながら、俺はいつもの内職をかじかむ手を擦りながら行っていた。その時、格子の間から綺麗な小鳥が迷い込んできたのである。その小鳥は俺が作業する机の上で羽を休めると、俺を見上げて小首を傾げ、可愛らしい鳴き声を上げた。愛らしい姿に思わずそっと指を出すと、目を細めて頬ずりを返してくる。初めて触れる生き物のぬくもりは、俺の心に感動という感情をもたらした。
――あったかい……
そんな事を思った時、小屋の外から女の声が聞こえてきた。
「ピィちゃ~ん? どこ行ったのー、出ておいでー」
その声を聞くや否や、小鳥は来た時と同じ格子の間を抜けて外へ飛んでいってしまった。指先に残るぬくもりを名残惜しむように、格子の隙間から見える外の世界に目を移す。するとそこに鼻の頭を赤くした一人の少女がひょこっと顔を出した。
「えっ! 人がいるの!?」
まさかこんな人里離れたボロ小屋に人がいるとは思わなかったのか、目を見開いて驚く少女の顔がそこにあった。俺は突然の事に少女を見詰めたまま動けなくなる。
「あ、急にごめんね! ここからピィちゃんが出てくるのを見て思わず覗いちゃったの。悪気はなかったんだけど……本当に、ごめんなさい」
その少女は先程の小鳥を掌に乗せて、眉を下げながら微笑んで言った。俺は何の言葉も返さず、少女の掌に乗る小鳥をじっと見詰める。
「え~と……もしよかったら、私と少しお話ししない?」
「…………」
「んー……じゃあ、ピィちゃんと一緒に遊ぶ?」
「…………」
「人懐っこくて可愛いんだよ! 撫でてみない?」
そう誘われて、俺は無言のままゆっくりと立ち上がった。格子の側まで行くと、少女が撫でやすいように小鳥をそっと近付けてくれる。少女の掌で、その小鳥はまたも小首を傾げて俺を見上げていた。今度は指先で頭を優しく撫でてみる。やはり、あたたかい。
少女はその光景を優しい目で見詰めると、白い息を吐き出して遠慮がちに話し掛けてきた。
「私はサレア。貴方の名前は?」
――名前……
聞かれて初めて思った。俺に名前などあるのだろうかと。男に呼ばれた事がないので分からない。
俺が何も言えないでいると、サレアと名乗った少女は違う質問を投げ掛けてきた。
「君の手、真っ白……あんまりお外では遊ばないの?」
そう言われて自分の手とサレアの手を見比べる。確かに、不自然なほどに真っ白だ。痩せ細った手首に子供らしからぬ肉の無い手、血の通っているようには見えない白さに、さすがの俺もちょっと驚いた。同じ子供でも五、六才は年上であろうサレアの目には、俺のそんな様子が少々異様に映ったらしい。困惑気味に言葉を続ける。
「お家に籠ってるの、あんまり身体によくないよ?」
「…………」
「ねぇ、また来るから、そしたら私とお外で遊ぼうよ!」
屈託のない笑顔でそう言われ、俺は無表情のままで無言を返した。もっと幼い頃の俺だったなら、彼女に事情を話したかもしれない。助けてくれと懇願したかもしれない。だが、ここで生きる術を身に付けてしまった今の俺は他者の介入を全く望んでいなかった。
だんまりを決め込む俺をしばらく見詰め、サレアは急に何かを思い至ったかのように慌て始めた。
「ご、ごめん! えっと、また必ず来るから、その時はゆっくりお話ししようねっ」
そう言って、サレアは背を向けて走って行ってしまった。その後ろ姿を、俺は見えなくなるまで見続けていた。
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次の日、また来ると言った言葉通りサレアは現れた。ニコニコと笑顔を見せ、格子の隙間からメモ用紙とペンを差し出される。良く分からないままそれを受け取り、サレアの顔をじっと見詰めた。
「言葉がしゃべれないとは思わなくて……これなら、あなたとお話し出来るでしょう?」
どうやら俺が無言なのは声を出せないからだと思ったらしい。とんだ勘違いだが、俺は字を書けないためこれを使っての会話を望まれても不可能である。期待に満ちた表情を見せるサレアへ、俺は仕方なく声を掛けた。
「……つに、はな……る」
「え……?」
「……」
久し振りにしゃべろうとしたからだろう。声が思うように出ず、喉に引っかかってしまった。俺は一度小さく咳払いをし、改めてサレアへ言葉を発した。
「別に、話せる」
サレアは目を見開き、そしてすぐに嬉しそうな笑顔を見せる。
「良かったぁ。私、すごい失礼な事しちゃったなって反省してたの!」
それからは一方的にサレアが話し続け、あれはこれはと質問責めにあった。大半を無言で返していたのだが、しかしサレアは嫌な顔一つする事なく話し続けた。そして夕方が近付くと、また来るねと言い残して帰っていったのである。
この日からサレアが何日かおきに来るようになった。基本的には自分の話しと小鳥の話しをして時間になったら帰って行く。たまに俺の内職が終わっておらず無視する事もあったのだが、そういう時サレアは黙って俺の作業を見詰めていた。そしてまた来るねとだけ声を掛けて、時間になったら帰って行くのである。ここでもサレアが嫌な顔を見せる事は一度も無かった。
そんな事が続いて三週間程が経ったある日、サレアに可愛らしい小包みを差し出された。サレアは自分の掌でそれを広げると、中から結晶のようなカラフルな粒を一つ摘まんで見せる。
「これ、金平糖って言うんだって。すごく甘くて美味しいの! 一緒におやつで食べよう♪」
いつもより元気にサレアが言う。俺はそのカラフルな物体を一瞥すると、彼女に視線を戻して首を横に振った。
「な、何で? 本当に美味しいんだよ! ね、一つでいいから食べてみてっ」
今度はひどく焦ったようにその包みを差し出してくる。俺はもう一度首を振るが、泣きそうな表情を見せられて仕方なく一粒だけ口に運んだ。それを見たサレアが嬉しそうに、しかしどこか必死に言葉を発した。
「美味しいでしょう? 今度は、そうだな……甘いジュース、持ってくるよ! まだまだいっぱい美味しいものがあるんだよ!」
俺は訝しむような表情でサレアを見た。しかしサレアは必死ゆえか、俺の変化に気付かない。
「楽しい事もいっぱいあるよ! ピィちゃんね、すっごいお利口だから、追いかけっこやかくれんぼが出来るの! 君も、やってみたくない?」
「…………」
「それとね! えっと……」
そこまで聞いて、嫌な予感を感じた俺はサレアを睨みつけた。彼女はビクッと体を震わせ、言葉を飲み込む。
「……余計な事はしなくていい。自分の事は、自分で出来る」
その俺の言葉に、サレアは意を決したように声を荒げた。
「出来てないから、そこにいるんでしょう? この前、君が食事してるのを見た。子供が食べる、物じゃない! 気になって、家の周りを調べた。頑丈な鍵が掛けられて、出る場所なんてない!」
「だから何だ。同情なら迷惑だ」
「違う! 自分と君に、怒ってる。何で気付くまでこんな時間掛かっちゃったんだろうって……何で何も、言ってくれなかったんだろうって!」
「貧乏孤児院に暮らすただの子供に、何が出来る」
「……ちゃんと、聞いてくれてたんだ」
「…………」
サレアは小さく笑って、俺を諭すように言葉を続けた。
「力になりたいの。私、考えるから……ここから逃げよう?」
その言葉に、俺は初めて怒りという感情が沸き起こった。気付いた時には、その感情が口から出てしまっていた。
「そんな事頼んでないっ! 余計な事をするなら、二度と姿を現すな!!」
そしてサレアは目に涙を浮かべ、俺の前から走り去って行ったのである。
最終話で表紙の目隠しを取ります。(一番上の人の)
次話は九時過ぎを予定しています。