04:人を頼る盲者
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今回はちょっと長い。
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人は、誰かを頼らなければ生きていけない。それは生きていく上で仕方の無い事である。人は、一人では生きていけない。
上に述べた文章は、よく使われる言い回しだ。これは直接的、具体的なこと以外にも、精神的な部分や大きな社会的見解からでも述べることができる。
しかし希に、物理的な部分では完全に誰にも頼らずに生きている、スタンドアローンな人というのも存在する。
ところが現代日本において身体障害者の場合は、完全に何にも頼らず生きていくことは、恐らく難しい。生活の大部分を自らこなせたとしても、何かが自分一人では無理、という事が出来てくる。
例えば自分のような視覚障害者の場合、銀行などでお金を下ろす際にタッチパネルの操作が出来ず、別の方法を取らねばならない。信頼できる誰かに手伝って貰うか、通帳と印鑑を持って窓口に行くなりせざるを得ないのだ。また窓口でも書類に記載が出来ないので、行員に代筆して貰う形となる。郵便貯金のATMならば画面の周囲にキーも存在するが、初めていきなり使えと言われて何の問題もなく使える盲はいないだろう。
他にも、郵便物などの紙のものを確認する際にはパソコンやスキャナを用いて書いてある事を取り込みテキスト化させて読み上げさせる、という方式(一連の動作を半自動でやってくれるソフトが存在する)を取るのだが、余りにもフォントや文字の大きさがバラバラだったり、絵と文字が入り組んでいたり、そもそも手書きだったりすると上手くテキストに変換できない。その場合も誰か他人の手を借りることになる。
少し考えただけでこのように幾つも例が出てくる。一事が万事そうだ。身体障害者は誰かに頼らなくては生活自体が成り立たないのだ。
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さてここで自分が重要だと思うのが、他人に何かをして貰う際の心構えとしての、『頼りにする』と『アテにする』の違いである。
これは自分が勝手に区分している言い回しなのだが、まず『頼る』というのはそのまま普通の意味である。誰かにお願いして何かをしてもらったら、ありがとうとお礼を言い感謝する。これは普通の流れだ。
一方『アテにする』というのは、最初から、それこそ何かをしてもらう前からしてもらうのを当然と決めつけ、お願いではなく指図し、自分からは何の配慮も譲歩もせず、やってもらうのが当然とお礼も言わない感謝もしない、そういう行動を意味する。もし何か事情があってやってくれる予定だった人が引き受けてくれなかった場合、それはすまなかったと恐縮するどころか、アテが外れた困ったどうするのだと怒り罵倒し、逆恨みさえする精神構造のことだ。
お願いされる側からしたらどちらが良いか? 言うまでもないだろう。
それが家族や友人などなら当然だ。無償でやってもらうのならば、相手の都合を考慮したりお礼を言うのは当たり前だろう。
しかしこれが有償なり仕事なりでやってもらう場合だとどうなるか。ヘルパーや介護士や看護師、店員や銀行員や駅員など、対価を払ったり仕事としてやって貰うときに、人はどうしようもなく尊大になることがある。やってもらって当然、とばかりにああしろこうしろと上から目線の態度になる。『アテにする』心根になりがちだ。
そんな時、やる側はやらざるを得ないからやっているだけで、義務感のみでこなしている。そこに信頼関係は生まれず、お互い心地の良くない、そんな風になりがちだ。
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これはよろしくない。よろしくないのだが、なにも身体障害者に限った話ではない。普通の人でもそういう態度になりがちな場合がある。それが、『客』という立場になった時だ。
「お客様は神様です」という言葉があるが、これは店側の心得であり、客自身が「俺は客だ! 神様だ! 金を払うんだから言う事を聞け!」と尊大な態度を取って良い、という意味では決してない。これでは最近流行りのカスタマーハラスメントだ。
そこまでいかなくても、店員に偉そうな態度を取る人は少なくない。どころか、店員に何かしてもらった際に「ありがとう」と礼を述べる事をおかしいとすら思う人がいる。
確かに店員は仕事でやっている事だ。しかしながら、店員も人である。ぶっきらぼうにぞんざいに接する客よりは、ありがとうと感謝を表す客の方が応対していて気分が良いに決まっている。そしてその方が、より気持ちよいサービスを提供しようという態度になり、ひいては店員も客もお互いが心地良い関係を築けるだろう。
似たようなものに「子供のすることだから」という言葉がある。子供はなかなか自制が利かない、だから何か粗相をしても大目に見ろ、という意味だ。しかしこれも、迷惑を掛けられた側が相手を許す際に使う言葉であって、迷惑を掛けた側が言っていい台詞ではない。
同様に、席を譲れと強要する老人(しかもそんな言い方をする人ほど大抵ピンピン元気そうな年寄りが多い)や、躾の出来ていないやりたい放題の子供を公共の場で放し飼いして何があっても知らんぷりしている親(自分たちはお喋りに夢中だ)、些細な事で教師に言い掛かりを付けるモンスターペアレントなどなど……、自分が享受すべきサービスは受けて当然であり、他人に気を遣う必要は無いという態度を取る人の例は、枚挙にいとまが無い。
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と、まあ結局何が言いたいかというと、ここまで読んでくれた方は解っておられると思うのだが。
つまるところは、『当然』と思わないことだ。
○○してもらうのは当然、という思考は、人の心を怠けさせ甘えさせどんどん増長させ、ついにはモンスターへと変貌させてしまう。
当然などと思わなければ、感謝の心も生まれ気分も良くなる筈だ。尊大にもならず相手を慮れ、良い関係は連鎖して広まってゆく。
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これは理想論かも知れない。しかしそれでも、少しずつでもお互いが気分良く過ごせるならば、感謝を口や態度に出すぐらい安いものではなかろうか。
そんな風に自分は思う。いや、以前はそうでも無かった。思っていても生来の面倒臭がりや人見知りが先に立ち、あまり上手く実行が出来なかった。
それでも盲になり、意外と道行く人は親切で、人のありがたみが身に沁みた。だから少しばかりの勇気を出して、ありがとうといつも口に出すことにしたのだ。
現金なものだ、と自分でも思う。自身の身をもって体感しなければ、人は変われないのか、と。
それでも、遅くはない。今からでも、今晩からでも遅くはない。誰かに何かしてもらったら、一言ありがとうと言ってみるといい。少し照れくさいかも知れない、慣れなくて恥ずかしいかも知れない。でもちょっとくすぐったくて、自分もちょっとだけ心地良い筈だ。
別に強要する気もないし、なかなかに恥ずかしい事言っている自覚はあるし、何を当然のことを偉そうに、とも我ながら思う。
それでもまあ、ひねくれていて斜に構える癖のある自分だけれども、たまにはこんな素直な気持ちもいいんじゃなかろうか、と。そんな感じで、読んでくれてありがとう、と感謝の言葉など述べてみる。
……ああやっぱり、ガラじゃないなあ。
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次はどれにしようか。
読むこと、外出、料理、夢のことなど。
幾つか候補があるけれど、どれにしようか悩み中です。
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