芽吹いて、溢れて。
「十層だけは本当に駄目、ってノアさんにもアンさんにも、色んな人に言われてたから、注意してたんだけど」
雑多に積まれたゴミに埋もれ、由来を考えたくない悪臭の中、夜はむせるように溜め息を吐いた。
「……来ちゃった、よね。どうしよ」
おそらく十層のなかでも真ん中辺りだろう、どうやって出るのか想像もつかない。
しかもあの強力なナチュラルチャーム補整眼鏡はどこかにいってしまい、レースの髪飾りによる、接客時と同じ充分すぎるほどの美少女状態でここにいる。
抜きっぱなしのレイピアは、ちゃんと離さず持っていたのは幸いだった。
とはいえ。
「レオが助けに来てくれるレベルの危機、だなー……」
勿論あの騎士様は来ない。来るはずがない。
どうしてこんなことになっているのか、話は半刻ほど遡って。
お休みの日に夜が遠出をするのは月に一度程度で、たいていは階層都市内で過ごしている。
その日も同じく、休日ながら朝早く起きるのは習慣になっている夜はきっちり朝に起き、朝食も食べて。
生活品の買い出しは夜の住む五層でも事足りるが、書物は上層に行く必要がある。
一層にある本屋が一番大きいが、二層の古本屋もレパートリーが魅力的で、どちらかと言うと夜が好きなのは二層の方。
よくいる店員さんが女性なのもあるし、二層の店ともなると夜のことも知っているから、多少のお喋りもできる。
この国の著名な作家の本、を中心に勧めて貰って、三冊購入。
昼食も二層で済ませて、今日の用事は終わったから、あとは帰って買った本を読もう、と五層へ戻るべく階段を降りた。
そして五層の入口に辿り着いたとき、下の方から悲鳴がした。
「――っ、子供!?」
子供の悲鳴。そうわかって、夜の身体は反射で動く。
ここから下、六七くらいはともかく八以降に子供は普通、いないはずだ。
子供の生きられる、子供を育てるような人のいる環境ではないだろうから。
そう下ではなかったはず、と階段を急いで駆け下りて、下りて、七層入口。
泣いている男の子を見つけて、駆け寄る。
「きみ! どうしたの?」
目線を合わせて、なるべく怖い顔はしないようにして。
男の子は声をかけた夜に気づくと、泣きじゃくったまま話す。
「ぼくの、いもうと……こわいひとに、つれて、いかれちゃって……」
歳は十歳くらいだろう。服はぼろぼろ――というか、臭いからしてしばらくお風呂に入っていないのだろう。貧しい子なのは見てとれる。そんな子がいることを、こうして直面し思い知った夜はなんだか悔しくて。
「それは……この先、なのかな?」
先に広がる七層を示す。光も当たりづらく、建物も入り組んでいて、薄汚れた壁の並び以外ほとんど先は見えない。
「うん……場所はわかる、から。ついてきて、くれる? お姉ちゃん」
「もちろん! お姉ちゃん、これでも結構強いんだからね」
にこりと笑って、胸を張ってみせる。
「ありがとう、お姉ちゃん。……こっち」
そう言って先導する男の子を追って、七層へと踏み込んだ。
八層とあまり変わらない、大通りのない狭い砂利道。
足場の悪いなか男の子がすいすい進んでいくのは、慣れた様子からしてここに住んでいるのだろうか。
人が住めないとは言わないが、子供というのは妙だ。若い女性と同じく、狙われやすいのだから。
誰とも会わずにぐねぐねと道を進み、大分経った頃。
男の子が路地の入口で止まった。
「この先、なんだけど……怖いから、お姉ちゃん、先、いってくれる?」
不思議と。
泣き止んだその子の顔は、感情の消えて冷たく見えた。
「ん。この先だね。いいよ」
気のせいだと振り切って、小声で答えて、先へ。
そうして進むと、道が途絶えてぽっかり空いた穴があった。
その下は、暗くて見えないが深そうで。
「あれ……」
確認しようと振り返ろうとした、その前に。
背中にどん、という衝撃があって。
「ごめんね」
という子供の声を聞きながら、夜はその中に落っこちた。
そうして、今に至り。
落ちた場所が十層だと分かったのは、落下の長さもあるが、それ以上に。
異様。
空気が、致命的におかしい。
夜の頭を過ぎるのは、戦場の記憶。
死体の散見したあの空気から、交戦の喧騒を引いて陰湿な不気味さを足したような。
普通の人なら空気に当てられて生存を絶望してしまうような、そんな異質さがあった。
死なないが抵抗はできない程度に傷つけておきたかったのだろう、というような怪我を落下時にしたが、夜は当然綺麗さっぱり治した。
このゴミの山は、故意だろう。そのまま落ちれば死んでしまうし、それを治せるなんて普通はありえないのだし。
で、あるなら。
あれだけ大きな音もした。
すぐに、誰か来るのだろう。
「隠れて……いや、逃げて……でも、どっちに」
どちらに向かえば入口かも、落ちたときにわからなくなってしまった。
あの音があって誰もいなければ、逃げたと知れるのは明白。
「………………よっし」
夜は決意して。
身体の数カ所を血の出るように刺し、ゴミの山に寝転んだ。
怪我した状態の相手をどうこうするのなら、大人数では来ないだろうから。
そうして来る一人ないし数人をどうにかする方が、逃げ出して大勢に探される羽目になるよりは、安全だろうと。
そうしてすぐ、努めて消している足音がした。
レイピアは右手に握って、時間停止付与済み。ゴミに埋めて見えないようにしてある。
気を失っているフリをしている夜に、近づく気配は一人。
夜を舐るように見て、息を呑んだのが分かる。
そうして無造作に、夜の顔に手が触れて――振り抜いた。
「ウィレストーア。……ごめんなさい」
沈黙、の魔法。
声が出せなくする、無属性魔法。
切り落とされた自分の手に呆然としている間に、素早く行使した。
そのまま、男の太腿を突き刺して、抜く。
木や金属の積み重なったゴミの山に倒れて、大きな音がしてしまった。
「急がなきゃ」
夜はひとまず、見える道の先へと進んだ。
足は自然に治るだろうが、手はまずくっつかない。それを後ろめたく感じは、する。
そんなことを考えていたからか。建物の間を抜けたすぐ横、待ち伏せに気づかなかった。
後ろから、頭を殴打される。
「ぁ、っ」
痛みよりも、意識が。
昏倒する。
抗おうとしても、強烈な眠気のようにそれは夜の意識を奪って、地面が起き上がるようにして近づいてくる錯覚を、どこか他人事めいて感じながら、夜は意識を手放す――なんて。
それは駄目だ、と思ったから。
意識を失い倒れる直前、夜は右手を前へと、持つレイピアの切っ先が自分を貫くようにと差し出した。
そうして、倒れると同時にその刀身は夜の腹を裂いた。
「――あああああああああっ!」
痛みには慣れていると言っても。
こんな内臓ずたずたの裂き方、痛くないはすがない。
おかげで、意識は鮮明になったが。
本来ならもう死にかけだ。生命の心配をして、価値がなくなる方を懸念するのだろう。
追撃は来なかった。
身体を治す前に、取っておきをポケットから取り出す。本当に大変なときのためのこれは、あちこちに忍ばせてあるから。
ノアから貰った魔力の結晶。それを噛み砕いて、発声に支障が出るからと全身を治療して。
「ルーネイト・クロトリム」
元々静かなところで使うと、よく分かる。
それでも確かに存在していた音があったのだと。それすらも、今は消えているのだと。
立ち上がって、背後からの襲撃者を見やる。
案外身なりは綺麗だ。一層にいても怪しまれることはないだろう。
その獣めいた目つき顔つきは、人間のしていいものだと夜には思えなかったが。
欲で夜を見るのは、分かる。
が、これはそういう瞳ではない。
モノとして。売り買いする価値だけを見て。そういう、目をしている。
生かしておけばさらに被害が出るのだろう。実働しているのだから下っ端で、もっと上にいる人間をどうにかしないと意味がないのだろう。
「殺しちゃうのは。解決じゃ、ない」
先程と同じように、足を貫いて。
夜はその場を去った。
それからのことは、綺麗に言葉で説明できる記憶ではない。
会う人は全て敵で、そもそもヒトと定義したくはなくて、自分の有り得た、あるいはこれから有り得る被害者の姿も何度か見て。
手持ちにあったノアの魔力の結晶は全て使い切って、ようやく。
いつの間にか、十層の入口に辿り着いていた。
出てしまえば、追ってくることはない。
できないのかしないのかは定かではないが、それがルールのようだった。
怪我は治せても服や汚れはどうしようもないから、今の夜はひどい格好だ。
血だらけ泥だらけ、下着も破れたところから覗いている始末。
それでも誰も、夜は殺めはしなかった。
階段をゆっくり登っていると、子供の泣く声がした。
それに夜は、ふっと笑う。
「まだ探してるの?」
夜がそう声をかけると、ぎょっとした顔をする。
「私で最後にして欲しいな。いつか。きっと、すっごく後悔することになるから。ね、お姉ちゃんからの、お願い」
「どう、して……」
「会いたい人がいるから」
ふふっと、邪気なく笑いかけて。そのまま上へと進んだ。
言葉が届いたのかは知らない。今は、そこまで気にする余裕がない。
五層に辿り着いても、なお上へ。一人でそのまま帰るなんて、できそうになかったから。
一層、夜の姿に驚く人も、声をかけてくれる人もいる。
それに心底安心して、でもやんわりと流して、店へと入る。気にする余裕がなくて、正面から。
「いらっしゃいませー……夜センパイ!?」
客だと思っていつものように応対したキャローヌが、夜の姿を視界に収めて目を丸くし慌てて駆け寄ってくる。
異変に気づいて他のスタッフも次々と、アンジェリカも見たことがないような顔をして。
「何があったのか、はすぐ話してくれなくていいから。……今は平気、なの?」
床にぺたんと座り込んで、スタッフに囲まれている状態。
「はい。おかげさまで……こうして囲まれて、安心したって言うか。大丈夫です」
あはは、と笑う。
それを見て、ルカは顔を曇らせた。
「今は我慢する場面ではないよ。……身体が震えているの、気づいていないんだろうが」
そう言い抱き締められるのを。
反射的に、腕を出して拒否してしまった。
「あ……ごめん、なさい」
「いや……いいよ。無遠慮だった」
どうして身を預けなかったのかは、考えるまでもなく。
ぽろっと、想いが口から出た。
「会いたい、なぁ……」
それに呼応するように、涙が出て。
次第にわんわん泣き始めた夜を抱き締めることのできる人はこの場にいなかったけれど、ただ、いてくれるだけで有り難かった。
それでも、本当に触れたい相手のいないことがずっと悲しくて、涙の理由はいつからか、それが成り代わっていて。
ちょっと忙しくなっていまして、更新がますます不安定になっておりますが……。
エタることはないので、お待ち頂ける方は気長にお待ち頂けると幸いです……。