ある休日の一幕。
「夜センパイ」
「はーい?」
営業後、着替え場所が別に用意されている夜は着替え後にキャローヌとの合流をして。
暗くなってからの帰りは注意すること。
最初の頃、何度も言われたものだ。
夜が心配いらない、それどころか他の娘を守るに足ると証明してしまって以降、毎回申し訳なさそうにされながらも送っていく側をお願いされている。
とはいえキャローヌはもう四層住みになって、リスクは大分減っているのだが。
「イルミティナさん、夜センパイが来る前はうちのトップだったんですよね? 人気的に」
他のスタッフも、下層住みの女性は誰かしらと一緒に帰路についている。
途中で分かれる際には手を振りつつ、話を続ける。
「うち別に人気をはっきりさせてどうこうとかはしてないから、明言はできないけど……そだね。私は働いてたイルミティナさんも見てたから分かるけど、凄かったよ」
「……今だけ見てると、信じられないんですけど」
夜にデレデレ、セクハラまがいの行為は日常茶飯事、発言は完全にアウト。あれが元々看板娘だった、と聞いてキャローヌは、店が好きな分不満なのであった。
「あはは……うん、それは、うん。ただ、そうだな。もしイルミティナさんが私と一緒に店にいたとしても、イルミティナさんの人気って大きく変わってなかったと思うよ」
「どういうことですか?」
「見てもらった方が早いかも。今度の定休日、空いてる?」
「空いてますけど、何ででしょう?」
「デートしよっか。ガストロノミー・ヴァン・フォールトンで」
茶目っ気たっぷりに、にこやかに。
「ぜひぜひ……って、ヴァン・フォールトンなんて高級料理店じゃないですか……私、そこまでお金は、ちょっと」
「おごるおごる。私が稼いでるの、知ってるでしょ。先輩の奢り、受けときなさい?」
そうでなくても、もしもの時はいくらでも何とかできてしまうのだ、金銭面は。本来一層にすら住めてしまうのにそうしていないのは、一層住みなど身分が高いと主張するようなものだったからで、それには自分の力だけでは足りなかったからで。
「ちょっと考えさせてください、全部は嫌です……。――というか、急にどうしてそんな話に?」
「んー? それはねー?」
階段をかつんかつん降りながら。三段下の踊り場にぴょんと飛んで、くるりと回ってふふっと笑って。
「イルミティナさん、今そこで働いてるんだもの」
予想通りの反応を受けて、悪戯な笑みを返した。
そして休日、お昼時。
同じ一層にあっても、高級料理店たるガストロノミー・ヴァン・フォールトンの外観は夜達の働くレストランとは大きく異なる。
暖色系を基本に明るい外観をして入りやすいようにしているアンジェリカの店とは対照的に、暗いアンティーク調のそれは気圧されるものがある。
なんだかんだ場数を踏んでいる夜はそう気にせずに、金の長い取っ手を持って、扉を開け中へ入った。
「いらっしゃいませ。――ご予約はされていらっしゃいますか?」
入ってすぐ、受付の人に声をかけられる。
受付用のカウンターが別にあり、その前にはサロンスペース。一層の端という立地を利用して、一面の窓からは綺麗に海が見える。
「はい。七瀬夜、で予約しました」
外観と同じく基調はシックに、木材が意匠として使われているよう。
どこからか流れている音楽はクラシックに聴こえる。
「七瀬夜様。お待ちしておりました、ご案内致します」
にっこりと笑って、エスコートされるのにそのまま着いていき。
窓の前、海を一望できる席へと案内された。
座る際も椅子が自然に引かれて、押して貰って。その際、キャローヌの方の椅子を引いた女性に「あ」と声をあげた。
そのままテーブル越しに正面に立ち、綺麗な笑みで二人を迎えた。
「いらっしゃいませ、ようこそヴァン・フォールトンへ。コースを決める前に……お食事前のお飲み物はいかがいたしましょう? こちらメニューとなっております」
二人にそれぞれ渡されたメニューを開く。
アルコールからノンアルコールまで、半分くらい名前の分からないそれらを見て。
こういう場所での作法が全くわからない、という顔をして見つめるキャローヌに、わりと怪しい夜は「まかせなさい」という顔で返す。
「二人とも未成年なので、お酒は飲めないんですが……おすすめってあります?」
「そうですね……時期に合わせたフルーツカクテル、今ですとカラマンドをベースにした柑橘類のものなどを。――失礼ながらお尋ねいたしますが、お客様、出身国での飲酒可能年齢は過ぎてはいませんか?」
「ええっと……えっと……」
口ごもる。
言っていいのか、という。
それだけで特定はされないだろうが、法の関わることなら証明書類まで必要だろうし、その場合に出せるもの、は持ってはいるがいよいよ分かってしまう。本名まで。
「頂いた情報は当店でのみ、お客様にサービスを提供する際にのみ使用しますし、個人利用も決していたしません。――これは独り言になりますが」
イルミティナは真っ直ぐに、夜の瞳を見つめる。
「お酒を提供できる方が私にできることは広がりますし、より満足頂ける。その確信がございます」
こういう言葉の使い方をして、変な意図を絡ませるような存在ではない、と。
それくらいの理解は、しているつもりだから。
財布に仕舞ってある学生証を取り出して、差し出す。
「こちらで。お願いします」
ヴァーレスト国立の士官学校学生証なだけあって、高度な複製不可の施された、魔法による認証紋が刻印されている。
「それでは失礼致しまして、確認させて頂きますね」
イルミティナは夜の学生証を一瞥すると別のスタッフに目配せをして近くへ呼び寄せ渡し、そのスタッフが二言三言唱え現れたホログラムのような灰色の光の文字郡を確認、すっと消すと夜へと返された。
「確かに。それでは引き続き、ご案内を続けさせて頂きます、が」
周りに聞こえないように小声で、表情はそのままにそっと告げられる。
「これくらいの店ならともかく。あんまり下手に身分明かしちゃ駄目だからね、本当は。頼んでおいてあれだけど」
「……はーい」
窘める、くらいで叱るつもりはそうないのだろう。イルミティナは頷くと、元の会話の流れに戻る。
「当店にはコースに対応したマリアージュがございまして、飲みたい銘柄のはっきり決まっていないのなら、そちらをおすすめしています。お酒を飲めない方のためにも――」
キャローヌに視線を移し。普段からは想像もつかない真面目な様子のイルミティナに驚いていたキャローヌだが、元々仕事に対して熱心な子だ。話を聞くその瞳は真剣で、落ち着いて聞いている。
「ジュースのペアリングメニューを。ここ最近の流行りでもありますが、料理に合うよう一つ一つ選んだものを提供させて頂きます。いかがでしょう?」
こくこく、と夜もキャローヌも頷いて。
「かしこまりました。それでは改めまして、食前のお飲み物と、コースを決めて頂きましょうか」
それから、選択権こそ与えられているもののほぼほぼイルミティナに任せきりにコースから飲み物まで決定して、それでもその選択に満足をして、イルミティナが一旦離れたところで一息つく。
「…………よくわかりました」
「あははは。うん、まあ、そういうこと。うちで働いてたときとは少し雰囲気変えてるけど、ペースは自分で持ちつつお客様を主体からは外さないのとか、会話からしてもそう」
「勉強目的なら、少し教えてあげよっかな?」
後ろから現れたイルミティナはテーブルにお皿をつけながら、小声でそう言った。
「ありがたいですけど……いいんですか?」
「二人が私の知り合い、ってことは話してあるからね。多少会話が弾むくらいは平気。ということで、つき出しのお料理前に少しだけ」
再び二人の前、テーブルを挟んで向かいに立つ位置。あくまで接客風に。
「当店のアペリティフメニュー、オリジナルを除けば非常に有名なものを並べています。ノンアルコールも含めまして。ですから、聞き覚えのないオリジナルメニューへの質問でしたり、具体的記載のない『旬のフルーツカクテル』への質問でしたりから始まるなら、およそ知っている可能性が高い、と。対して、お二人様のように漠然とおすすめを訊かれるなら、知らない可能性が高い、と」
まったくもってその通り、とうんうん頷く。
「自分で決めたがるお客様も勿論多くいらっしゃいますが、慣れていない場合に選択をいくつも求めるのは、負担になることも有り得ますから。お客様の気質を察しつつ――今回はややズルをしていますが。より合うだろう決め方を提案させて頂きました。……お料理の出来上がったようですね」
それから、元々なんだかんだで尊敬していた夜はまたちょっと見直して、不審者を見る目をしていたキャローヌは見かけると自分から嬉々として近づいていくくらいに、素敵なランチを経験させて貰ったのだった。
「ごちそうさまでした。……随分安くありません?」
そして食べ終わって、別れは他の客と同じように扱われ入口までのエスコートをされて。
提示されたお会計金額が明らかに安く、夜は首を傾げた。
「彼女の……ヴィロードさんの知り合いだろう? 従業員割引と同じ金額でいいから」
受付の男性店員がそう言うのに、申し訳なさからお礼とともに苦笑を返して。
「彼女、あれだけ仕事ができるのに謙虚で、慎みがあって、初心で。彼女の趣味って何だろう? あれだけお酒に詳しいのに、弱いみたいで誘っても断られてしまって」
「……夜センパイ」
物言いたげなキャローヌを僅かな身振りで制し。
こういう店だから、と余所行きにそれなりのお洒落と十分魅力的な程度には抑えたナチュラルチャームを纏っている夜を前に熱の入った言葉が紡げるのだから、本物だろう。
たとえその宛先が虚像だったとしても。
「趣味は……演技とか好きなんじゃないでしょうか」
演じる方で。
「ああ、演劇か。いいね、今度誘ってみよう。ありがとう」
あまり深く考えないことにして、満足感と満腹感で忘れたことにした。