黒霧の騎士様。
夜の計画通りに、概ね順調に事は進んでいた。
休憩は本来必要ないから、と最低限に済ませて癒し、蘇生し。自分の回復能力に限界があったことを、初日に突然気を失うように眠って初めて知った。
そのため睡眠だけはしっかり取って、大丈夫と思えるならひたすらに自分のするべきと信じることを続けて。
死臭は毎日慣れるまでが辛くて、嗅覚と共に感情を失って淡々と処理するようになってからは時間が過ぎるのもあっという間だった。
一日の終わりに戦況について簡単な報告を受け、ヴァーレストの被害が少ないまま膠着していると聞いて安心をする。
そんな生活をして六日経ち、夜の救った犠牲者と負傷者の数が、併せて数千に上ろうかという日の晩。
「キーロードの方で急用ができたから」と申し訳なさそうに離れることを告げたキャンディスを笑顔で見送ったのが、その日の早朝のこと。
そろそろ、カーマファウストの方はあらかた終わったはず。明日辺り交渉を切り出しても良いかもしれない、と客室で一人考えていた。
そこに、ノックの音。
時間からして報告かな、と返事をして扉を開ける。
「ミセス。本日分の戦況報告を」
夜の窓口になっているリントクロワの姿がそこにあって、予想通りと僅かに張った緊張の糸を解き招き入れる。
「ありがとうございます。どうぞ」
立場を明かしてから敬語を使われているのがくすぐったかったりするのだが、この騎士のことは嫌いではない。どうも嫌な印象の拭えない上の人達と違って、本質的に善い人だとはっきり感じ取れるから。
「ミセス。貴女は以前、時間停止を使えると仰いましたが。それは今、使えますか?」
淡々と必要事項を伝えて帰るのみだったこれまでとは違うリントクロワに少し驚いたが、夜は素直に返す。
こちらに来てから彼の態度が固いのも、自分の立場が分かった故だと思っていたから。
「ええっと……使えません。魔法使う許可、頂いてないんです」
ヴァーレストの城塞に入る時に行った登録。当然このカーマファウストの城でも魔法を行使するのなら必要で、回復が魔法によるものではないと最初に明かしてしまった夜は、名分がないため許可を得ていない。
「貴女の信条は素晴らしい。聖女と呼ぶに相応しいものです。しかし。聖女が必ず崇められるとは限らない」
音もなく、剣が抜かれた。
「……どういう、ことでしょうか」
夜は狼狽えない。距離を取らずにそのまま、真っ直ぐリントクロワを見据える。
「貴女の働きにより、カーマファウストの兵力はここ六日でほぼほぼ回復しています。一方、ヴァーレストは減り続けた。昨日までは貴女の騎士様が少なからず被害を抑えていたようですが……今日は不在だったらしく、大きな差がつきました」
「約束は殺さず、でしたよね。それも違えたと、思って良いんでしょうか」
無言を肯定と受け取って。
腰のレイピアに手を伸ばすが、ほとんど意味はないだろうと分かっている。元々出来の良いとは言えなかった夜の剣術は、今では時間停止前提の立ち回りに慣れてしまって騎士相手に通用するはずがない。
「今貴女を殺してしまえば、兵力差からしてカーマファウストの勝利は確定します」
「キャンディスが黙っているはずありません」
「いくら彼女の立場でも、貴女のことを信じさせるのは難しいでしょう。その回復能力といい、ここまで単身乗り込んできたことといい、その目的といい。戦死で片づけられます」
「……………………」
返す論理はない。キャンディスがいたならあったのかもしれないが、あいにく今朝にここを出ている。だからこそ、今なのだろう。
そして抗える力もない。あの日本人だろう謎の少女が現れたのは本当に幸運だったろうし、ましてやこの場所では、不可能だろう。
それでも諦めるという選択肢はなくて、冷たい瞳をしているリントクロワをじっと睨む。
と、その瞳が温かく揺らいだ。
「――ここまで、上の思惑と課せられた命令だったんだが。そのまま従うほど落ちぶれてはいないよ。この展開を読んでいた彼女からも釘を刺されていたしな」
きょとんとして、目をぱちくりさせて。
「……と、いうと?」
「君を助けるということだ、ミセス。このままここで生き延びるのは難しいだろうから……カーマファウスト本国、首都まで出向いて王様にでも直接掛け合って貰おうか?」
「意外と、無茶するんですね?」
「君には及ばないだろう?」
夜はくすりと笑う。
やっぱり自分は一人ではやれることに限界があって、こうやって人に頼って生きていて。それでも自分にできることを、精一杯やっていこう、と。そう思って。
弛緩した空気を裂くように、バタン、と乱暴に扉が開かれた。
「一応言っておきたいんだが、ここの上層部がおかしいだけであって、カーマファウストの権力者全員が腐っているわけじゃないことは理解して貰いたい」
「ご安心ください。リントクロワさん見ていれば分かりますから」
ぞろぞろと入ってきた闖入者。手には当然のように武器を持ち。
夜にあてられた客室はそれなりに広いため十数名入ってきてもそう狭くはないが、それがかえってリントクロワ一人での護衛を不利にする。
「盗聴までされていたのは、本当に趣味が良いな。それで当人達はいないときた」
夜を後ろに下がらせるが、数の差は明白に。そして、この敵対者達の顔を半分以上リントクロワは知っている。腕の立つ者として。
「申し訳ないが……護る保証は、できないな」
「それは私が負いましょう。ご心配なく」
誰もいないはずだった夜の横から、そう少女めいた声がした。
その声の主は長い金髪に紅い瞳を覗かせ、黒刀を持ち黒い霧を全身に纏い。
多少の特徴の差異など関係無しに、隣にいるだけで夜に最大の安心を与えてくれる。それで誰なのか確信できる。
「味方だと信じて問います。この方達は夜の敵、で宜しいですか?」
「……ああ。君は?」
「それは後程。そうですね、一分下さい。それで全員処理します」
氷の笑みを投げかけて、挑発するように前に出る。
それを合図とするように、戦闘が始まった。
護ると言いながら、黒衣の少女は超攻撃的に数を減らしにかかる。
目視不可能な速度での一閃で一人の両足を断ち、振り終わりを隙と見て斬りかかる相手の腕を剣が届く前に切り払う。
そうして三人目、と動いたところで飛来した炎弾を黒刀で防ぎ、夜へ近づいた相手を蹴り飛ば――そうとして、さして飛ばなかったことに溜め息を吐く。
「近接では敵わないと見て、補助と攻撃の魔法支援隊と白兵戦闘隊に即席で分けたと。悪くない判断です。私は魔法が使えませんから、突破は難しいですし。――本来は」
そう冷静に評価して、冷たい雰囲気の中に僅かの昂りを見せる。
「“血の祝福”――黒の原罪」
纏っていた霧が濃度を増し、漆黒に。少女が手を横凪ぎに振ると、呼応するように集団へ襲いかかった。
自在に流動する霧から逃げられるはずもなく捉え、身動きできないそのままに全身を包み込む。
「このままバラバラにも潰したりもできますが、それは貴女の本意ではないでしょう? 気を失うに済ませましょうか」
きゅっと右手を握ると、黒霧も収縮する。そうして手を開くと霧は晴れ、ばたばたと倒れる人のみが残った。
「一分。さて、私の紹介より前に、まずは上の方々とお話したく。こちらへ連れてきて頂けますか? まさか、今更向こうから来いとは言わないでしょうから」
凍りつく綺麗な笑みをリントクロワに向けて、拒否権は認めていないと暗に伝える。
「……一つだけ。感謝を」
「こちらこそ。それも後程」
部屋を出るリントクロワを見送って、遠くに響く足音が消えるとふっと静かになる。
「えっと……」
何から話せばいいのか考えあぐねている夜に、背を向けていた黒衣の少女は振り返ると距離を詰め、頬に手を当て、そして。
その動きの時点で自分の唇に当たる感触は覚悟していたから、さほど驚きはなかった。のだが。
「――!」
貪られるような、だと抵抗感があるようで語弊があるので、求められるような、が正しい。きっと正しい。多分正しい。
そもそもこういう仕方があるのだとすら知らなかった夜はされるがまま、とても長く思えた十秒ほどの時間を過ごして。
腰が抜けて、ぺたんと座り込んだ。
「色々言いたかった文句は、これで代わりとします」
自分がこれだけ蕩けているのに、変わらずの無表情なのが納得いかないと言うか、負けた気がすると言うか。
そう思って、そのまま口に出す。
「私今心臓ばくばくで頭ふわふわしてるんだけど……なんで大丈夫、なの?」
名前を出すのは控えておいた。この格好の意味もそうなのだろうし、盗聴、というワードも耳にしていたのだし。
「普段ならできませんよ、とても。先程使った力、代償として昔以上に痛みがあるので」
紅い瞳も、呟いた言葉も示すのはある特徴。今訊くのは憚られるが、それよりも、まずは。
「えー……治すよ?」
「いけません。今この痛みが消えてしまっては、理性が狂ってしまいますから」
夜はふふっと笑って、反撃と言うように。
「それじゃ、また治した後でさっきの、してね?」
つい素に戻って瞳と同じく真っ赤になった顔に、夜は満足してはにかんだ。