安穏を裂くは。
「おはようございます、夜様」
「おはようございます……」
シュヴァンツメイデンから戻って数日。
昨夜は少し遠出をして、帰りの遅かったために寝た時間も遅くなった。
そのためいつも通り7時には目が覚めず、自然に起きた現在時刻は9時を過ぎている。
「レオはもう起きてます?」
ぐいーと伸びを一つして、温もりを手放しベッドから出る。
ノアに着替えさせて貰いながら、休み中は定例になっている確認をする。
「ええ。召集があって、もう出掛けられました」
「……召集?」
今日は髪型をポニーテールに、空色のワンピース。紐を腰にきゅっと巻いて、くびれの見えるよう。
特に出掛ける用事もない日だが、ノアの傾向的に人目に触れる日よりもそうでない日の方が、夜の服装は可愛らしくなっている気がする。
鏡面になった壁に映る自分に満足して、ノアににこりと微笑む。
「はい。喜ばしい話ではありませんから……先にお食事に致しますか?」
「ん……いえ、聞かせてください」
「では。カーマファウストとの戦争が始まりました」
「……………………はい」
不穏な関係の相手として、キャンディスが「いずれ見えている最も非効率な外交手段の帰結」として、暫し名前の上がっていた国。
驚きはない。ただ、諦念に似た暗い感情が胸を満たすのみ。
「原因は、言われていた通りですか?」
「ええ。国境付近の魔導水晶を巡って。物的資源のために人的資源を減らす。愚かしいことです」
「私達は一度も、外交の席に座らせて貰えませんでしたが。もしやれたら何か、できたんでしょうか」
「……以前、キャンディス様も仰ったとのことですが。夜様を関係険悪な相手に出すことは、下手な意図を疑われかねません。危険性を鑑みると、難しかったかと」
事実を告げる言葉は率直だが、夜の頭を撫でる手は優しい。
暗に自分の気にする余地を無くしてくれたノアに感謝して、夜は気持ちを入れ替える。
「そう、ですよね。ありがとうございます。準備、しないとですね」
「おそらくレオ様も夜様も、すぐに出向くことにはなりません。シュヴァルツフォールの現当主とはいえ、騎士団長ではありませんし。初期から単体突出戦力を投入することもないでしょうし、夜様をお一人で用いるのはレオ様がさせないでしょうから」
「……私はともかく、レオもですか?」
レオンハルトほどの強さなら、一人で戦局を変えうるのではないか。
夜がそう感じるのももっともな疑問に、ノアは説明を返す。
「大国同士の戦争は、歩兵部隊を魔術師が集団で強化してぶつけ合うのが基本です。国土の広すぎるために直接の襲撃は勝敗に直結しませんから、兵力の枯渇を終結の条件とするべく。
歩兵の強化において、強力な広範囲魔法に薙ぎ払われないように防御面を重視するのは定石です。故に突出戦力が大きく戦況を傾けることができるのは、魔術師の数が減った中盤以降、となります」
「なる……ほど?」
頭では理解したつもりだが、戦自体の実感を持たない夜には感覚での理解ができていない。
「ですから、ひとまず。朝食に致しましょう。準備もこれから、私のできる限りに仕上げさせて頂きます」
主人の曖昧な理解を、それで良い、願わくばそのままで良い、とそれ以上進めずに止めて。
落ち着かない夜にいつも通りの日常を遅らせるべく、朝食の席へと急かした。
「夜様。お客様です」
今は無理に気を張り詰めさせるべきではない、と窘められて、努めて普段通りに生活しようと、読書をしていた昼過ぎ。
この家の来訪者はヴィクトリアとミルフィティシアが夜の知る限り初めてだったはずで、極めて珍しい存在になる。
「お客様、ですか?」
「スノウリリー様ですね。お通し致しますか?」
「リリー? お願いします」
友人の名前に驚くと同時嬉しくなり、寝転びながらの読書を解除して立ち上がる。
「かしこまりました。私の姿に対する諸々は、後程承りますので」
一礼して消えたノアの言葉に首を傾げながら、玄関へとてとて向かう。
自動の階段を降りて、廊下を歩いて、玄関前に着くと既に扉は開いていた。
「……ダレ?」
一人は分かる。まごうことなきスノウリリーだ。
白いブラウスに赤いスカート、後ろで結った髪は白いリボンで留めて。腰に差している剣が気になるくらい。
しかし、もう一人。茶髪で眼鏡の、美少年執事然とした少年。
「ああ、夜様。私の簡潔な自己紹介だけ済ませていたところでした」
「……久しぶりね、夜。……本当にいたのね、ノアさん」
そういえば、以前言っていた気がする。
学校ではレオンハルトの世話をする“ノア”は、少年執事ということにしていると。
「ひさしぶり……」
ノアが素性を隠していることは、夜も察している。それにしても事前に一言欲しかったものだが、後程と言われてしまったし今はスノウリリーに応対することに。
「えっと、どうしてうちまで?」
久々の再会だというのに、あまり嬉しそうにはしていない。むしろ気の立っているようにすら見える。
「レオは召集かかってるよね、勿論。夜。夜は呼ばれたら、行くの?」
「ん……うん。行くよ。必要とされるなら」
何のことか、なんて訊く必要もない。今わざわざ来るのだから、話題は一つだろう。
「レオは正直、あんまり心配してないの。強いのは知ってるし。そもそも騎士ってそういうものだから。でも夜は違う。夜、貴女は普通の女の子でしょう。断ることだってできるはずだよ」
「普通の……かはちょっと、わからないけど。私が行って、それで誰かが救われるのなら私は、行くよ」
「夜はきっと治療に回る。それでも、交戦の危険がないわけじゃないんだよ?」
「それでも。……私だって少しは、戦えるようになってるし。大丈夫」
スノウリリーは痺れを切らしたように、大きく溜め息をつく。
夜だって意図が分かっていないわけではない。
それが心配から来ていることも、その心配が心からのことも、分かる。
「戦える、なんて。戦えるのと戦うのは違うわ、夜。そう言うなら――私と戦ってみて」
そう言ってスノウリリーは、剣を抜く。
「どうぞ」
ノアは止めず、普段使いのレイピアを夜へと差し出した。
「……できないよ、そんなの」
「なら連れ去ってでも行かせないだけ。戦場に行くってことがどういうことか理解してないのに、行かせられるわけないじゃない」
「一理あるかと。そもそも、何故夜様は行きたいと?」
姿が変わろうと、ノアの言葉が持つ響きは変わらない。
夜の心を突く問いかけに、夜はレイピアを受け取って、答える。
「もし行かなくても。それで無事に終わったとしても。私はきっと後悔するから。私にできることをしなかった自分を、後悔すると思うから」
「――覚悟があるなら、下してみせなさい」
スノウリリーはとん、と床を蹴って斬りかかってくる。
レイピアで受ける、が夜の戦い方は本来受けを想定していない。両手で握って、ようやく押されながら止めるに至った。
「使い方、そうじゃないでしょう。随分と余裕があるのね、夜」
それを見抜いてスノウリリーは、力を込めて振り下ろす。腕力の差も武器の差もある。そのままでは受け止められない一撃。
「っ――カンテチャント・クロトリム」
詠唱を聞いてスノウリリーは、刀身をぶつかる直前で止めた。
時間停止のかかって灰色の光が包んで消えたレイピアを、じっと見つめる。
「……時間停止。流石に驚いたし、納得もした、けど。戦えるのと戦うのは違う、って言ったの。変えるつもりはないわ」
一歩離れて、剣を横に構えて。
「ヴィスタリゼ」
唱えると同時、再度距離を詰める。
スノウリリーの詠唱は氷の魔法、夜の左側から打ち出される高速の氷柱。
氷柱の対処にレイピアを用いれば、当然。スノウリリー本体には無防備な身体を晒し、首元に当てられた刃は終了を意味していた。
「これくらいどうにかできないと、お話にならないわ。私くらいの相手なんて、いくらでもいるんだから」
「……もう一回」
剣を下ろしたスノウリリーの眉がぴくりと動く。
「実戦なら死んでるわ。もう一回なんて、ない」
「死んでないんだから、ある。もう一回やらせて」
「……少しだけ痛くするわよ」
了承と受け取って、夜は再び構える。
実戦なら死んでいる、その通りだ。そしてまだ死んでいない、というのも。
「フレイディア」
先程よりも分かりやすいのはスノウリリーの優しさか、諦めさせる為か。
今度はスノウリリーの振り下ろしの方が先で、横からの火球が後。
スノウリリーの剣撃をレイピアで受けて、火球の方には防御を張る。一度冷静に考えれば、できなくはない。
とはいえ同じやり取りを繰り返せば、いずれ誤るのは夜の方だろう。剣も魔法も練度が違う。
なら、そう。
死ななければいいのだから、と。
「えっ……」
スノウリリーの目が見開かれる。
それで良い。動揺が誘えなければ、こうして尚届かないだろう。
夜はスノウリリーの剣を左腕で受けて、そのまま懐へ滑り込むように、右腕を持ち上げつつ体をスライドさせる。
炎は横腹を抉ったが、スノウリリーに密着して眼前にレイピアを突きつけている形が出来上がった。
「これでいい、かな。……あんまり顔動かさないでね、切れちゃうから」
ぽたぽたと、左腕の切断部分から滴る血の音のみが響く。
スノウリリーは呆然とした後、剣を落とした。
「なんで……そんな戦い方……してるのよ……」
「……リリー?」
その瞳に涙が溜まって、夜はようやく自分の過ちに気づいた。
「やめてよ……そんな、自分を犠牲にするのが当たり前みたいな……。そんなことされたら本当に、怖くて行かせられないじゃない……」
突然の涙に、抱擁に、困惑する夜は。
ノアは推測はできていたが、顕在化しなかったために推測を超えず、夜自身気づいていなかった性質。
夜は自分自身の価値を高いものと思っていない、という。
今回初めて表に出たそれが原因なのだと、悪いことなのだと分かっていなかった。
「治して。すぐ。今すぐ」
「えっと……うん」
治療は造作もなく、腕も横腹も服を除いて元通りになる。
いまだに何故自分が泣いているのか分かっていない様子の夜に、スノウリリーはその目をじっと見て話す。
「いい、夜? 私、夜のこと好きよ。本当に好きなの。こんな馬鹿な止め方、しようとするくらいにはね。だから。だから、やめて。自分を蔑ろにするのは絶対にもう、やめて。いい?」
「……ん」
「私が嫌だから。レオだって絶対そうだからね。自分のこと、もっと大事に考えて。一部でも、全部でも。自分を犠牲に何か、なんて考えたら、絶対駄目だからね」
「ごめん、なさい」
スノウリリーの感じた懸念は顕在化した今回のみを見るなら心配のしすぎだったが、正しく。
もし自己犠牲が大きな意味を持つ時が来るなら、夜はしただろうから。
「私も、意地悪しすぎたのはごめん。……知ってたんだ、夜が自分の意思曲げないってくらいは。でも、私が言ったことはちゃんと、聞いてね。お願い」
「ん……ありがとう、リリー」
この後、落ち着くまで抱き合っていたスノウリリーはお茶を少しして帰っていったが。
その後に元に戻ったノアから夜に、全力の平手打ちが飛んだのだった。