ノーライフ・プリンセス。
夜の前に立ったその女性は、素手で爪を受け止める。傷もつかないままに握って、片腕で軽々と吸血鬼の身体を投げ飛ばした。
「あなた……は」
一歩遅かったレオンハルトに屈託なく微笑んで、後ろの夜を示す。
「その子の横にいてあげて、紅霧の騎士さん。ここまでの協力には誠に感謝致します。後は、こちらで責任は取らせて頂くわ」
「……はい」
大人しく従ったレオンハルトは、夜の身体を抱き寄せる。怒ることはせず、小さく心からの安堵を込めた「よかった」とのみ呟いて。
「……ごめんなさい」
「無事でいてくれたなら、今はいいから。そういうとこ、好きだしさ」
「うん……ありがと。あの女の人、は?」
優雅にゆったりと歩いていき、残る吸血鬼達と対峙。丸腰だが、レオンハルトが全く心配していないことを不思議に思う。
「ヴィクトリア様。きっと、後でお話があるんじゃないかな。安心して見てて大丈夫」
レオンハルトの言葉だ、すんなり信じるしかない。
闖入者に様子を窺う吸血鬼達に、ヴィクトリアは凛とした声を張り上げて告げる。
「自分の意志でなくヴァンパイアになった者がいるのなら、大人しくなさい! 自分の意志だろうと無益な争いを避けたいのなら、同じように! 従う者の処遇は私が預かるわ!」
ヴィクトリアの言葉に吸血鬼達の動きが止まる。あっさり受け入れたというよりは、従うべきかどうか困惑している、という様子だ。
その中の一人が、ヴィクトリアへ襲いかかる。痩せぎすの青白い顔をした、十代半ばに見える男性吸血鬼。
ヴィクトリアはひらりと身を躱し、相手の顔を見て表情を硬くする。
「貴方ね、この子達の親は。許す気もなかったし、良いでしょう。“血の祝福”――七つの大罪、憤怒の斧」
ヴィクトリアの右手から、鮮血が溢れ出す。それは地面へ零れ落ちることなく、重力に逆らって一つの形を作り、凝縮。光沢のある、真紅の斧を成した。
男の二撃目を、ヴィクトリアは軽い所作で振るった斧で受け止める。
拳が斧に触れて、瞬間。男の身体は硝子細工のように砕け散った。
「――まだ抵抗する子は、他にいるかしら?」
淡々と伝えるも、返事は無い。
「よろしい。先に自己紹介をしておきましょうか。私はヴィクトリア=シュミナルディア=アルカード。ヴァンパイア族の最高権力者、と思って頂いて差し支えないわ」
ヴィクトリアの言葉に対する驚きを、夜も同じように示す。レオンハルトをちらりと見ると、静かに頷いた。
「あら……貴方、こちらへ来て下さらない?」
何かに気づいたらしいヴィクトリアが、一人の吸血鬼に声をかける。呼ばれた二十代半ばといったところの男性は、おそるおそると従う。
「処女を文字通り、食い散らかしたような臭いね」
言葉の正しさを示すように、男性の表情がひきつる。
それにヴィクトリアはにこりと笑う。
「血を吸われた処女はヴァンパイアになる、なんて迷信があったかしら。それを防ごうとしたのね。ふふ、実に闇の眷属らしい考え方ね?」
つられて薄く横に歪んだ男性の口は、表情の消えたヴィクトリアを前に曖昧な丸を描いた。
それを最後に、斧を振るわれた男性吸血鬼は砕け散り絶命した。
「ヴァンパイアは人の理を外れようと外道へ堕ちる者ではないわ。その血に誇りを持ち、誇りに信条を負う者よ」
振るった斧を霧散させて、怯えた様子の残った吸血鬼達に苦笑して。
「やっぱり、私では駄目かしら。――ミルフィティシア、おっとりと言っても遅すぎよ。この子達の相手、お願いするわ」
ミルフィティシア、という名前に、レオンハルトがぴくりと反応する。
ヴィクトリアが声を投げた先から、ゆっくりと歩く姿があった。服装はヴィクトリアと似ているが、こちらは漆黒。コントラストになるような白い肌、黒いヘッドドレスを乗せた銀髪、そして紅玉の瞳。
歳は夜より二つか三つ下だろう。気の抜けた顔つきは余計に幼く感じさせるものの、極めて整っている。
夜はその容貌に、誰かに似ている、と感じた。ぼーっとしているような表情でなければ分かっただろう、誰か。
「ミルフィティシア様……」
レオンハルトがそう呟いたのに、少女、ミルフィティシアはこちらを向いた。
「ひさしぶりだね、レオ。あのこはげんき?」
その声もやはり、あどけなさが残る。
「……はい。ご無事、だったのですね」
「死にかけのこの子に、私が血を入れたの。普通一年かけて行う真祖の血による即席の眷属化なんて、私以来の無茶だったのだけれど、ね」
「……ありがとう、ございます」
レオンハルトはヴィクトリアに、深々と頭を下げる。
ミルフィティシアはヴィクトリアの目配せを受けて、放置されたままの吸血鬼達へと話し始めた。
「いいえ、礼を言われることではありません。こちらの不手際の対処に、あの子しか救えなかったという話ですもの。許して、なんて言えることでもありませんし」
夜に分からない話が、分からないままにされていく。口を挟まずレオンハルトの横に佇んでいた夜に、ヴィクトリアはにこりと笑った。
「ごめんなさい、貴方の旦那様をそうお借りするつもりはないの。でも、お仕事のお話も一つだけさせて頂戴ね?」
「……夜のことまでご存知だったんですか?」
夜のことをレオンハルトの婚約者と認識している。王族の血を引いているとはいえ外交とは無縁な家、外に漏れるような話でもないはず、とレオンハルトは疑問に思う。
「ええ。あの子のこともあるし、貴方のことは何かと気にかけているのよ、私。奥様、可愛らしいという噂は聞いていたけれど……想像以上、そして綺麗な子ね」
ヴィクトリアの外見は二十そこらの若々しいものだというのに、口ぶりは年長者のものに近い。吸血鬼だから実際の年齢はずっと上なのだろうが、夜にとっては奇妙な感覚だ。
「……ええ。仕事の話、というのは?」
感情として複雑なのか、恥ずかしいのか。レオンハルトは話題を変える。
気を悪くした様子もなく、ヴィクトリアは頷いて。
「まず、今回の任務についてね。元々は無力化対象のヴァンパイア、一人という話だったでしょう? それが結果、こうなっていたわけだけれど……報告通り一人だった、ということにしておいて欲しいの」
「……理由をお訊きしても?」
「こちらの方で悪意が混入した結果だから、原因含めこちらで解決しておきたいのが一つ。ヴァンパイアと人間との関係を、極力悪化させたくないのが一つ。貴方が狙われているという事実を、大きなものにしないためというのが一つね」
「今回、こうなっているのは僕が狙われたからだと?」
「ええ。あ、と、了承して下さるのなら、うちで保有している海域を一つ、ヴァーレストに渡しましょう。国境近くのね」
「……了承しない場合は?」
「その場合はこちらの賠償問題まで最高発展するかもしれないわ。その際にこちらが渡すものは、了承時と同じでしょうね」
「断る理由もありませんね。受けましょう」
「ふふ、成立ね。後日、文書でお送りしておきましょう」
交渉というよりも確認を終えて、ヴィクトリアは「さて」と夜を見る。
「騎士様も聞いていてね。ミス・シュヴァルツフォール。貴女、自分が時間属性持ちであることを知らないのね?」
「時間属性……ですか?」
首を傾げた夜に、察した様子のレオンハルトは驚いた顔でヴィクトリアを見る。
「……教えてしまってよろしかったのですか?」
「ふふ、大問題よ? とっておきですもの。人の身では、時間を止めるまでは能わずでしょうけど……自分を守れるくらいにはなる筈よ」
理解できていない様子の夜に、「貴女の身近にいる魔法の天才に、教えて貰ってね」とヴィクトリアは笑いかける。
ノアを想起して、ノアなら間違いなく分かるだろうと首肯を返した。
「私がこれを話したのはね。私、いつか時間を遡って、もう一度逢いたい人がいるの」
夜を見てそう話すさまは、歳変わらぬ少女のような印象を受けて。
「もう一度……ですか?」
「そう、もう一度。彼は人間だから、とうの昔に亡くなっているもの。私にたくさんの、初めてをくれた人」
そう語る熱っぽさが恋する少女のそれであることに、恋知らぬ夜は気づけなかったが。とてもきらきらしたものであるのは、分かった。
「すてき、ですね」
「ええ。ゆっくり血を溜めているけれど、いつになるかしら」
ふふ、とヴィクトリアは笑って。
「断ってくれても、全く構わないのだけれど、と前置きをしつつね。少し、血を頂いてもいいかしら? 趣味のようなものなの」
夜としては断る理由もないので、レオンハルトを見るも止められることはなく。「いいですよ、どうぞ」と許可をした。
「ありがとう。では、失礼を。――少し、ちくりとするわよ」
夜の腕を取って、手首の辺りにそっと顔を近づける。
髪をかき上げて口をつける仕草が、妙に扇情的で夜はどきっとする。
かぷっ、と牙が立てられて、ちゅう、と。注射と似てるな、なんて呑気に思っていると。
ぢゅるちゅると、じゅーじゅーと、吸引速度が上がっていく。
ちょっとにしては多くないか? と不安になる量を越えても、そのまま。
「えっ、と……?」
ヴィクトリアの目を見る。
紅玉の瞳が、夜にはよく見覚えのあるあの目をしていて。
もしかして血もそうなのか、と甚だ我ながら呆れてしまう。
レオンハルトも止めていいのかどうかわからず、そのままじゅーじゅーと、そろそろ生命の危機を感じた頃。
たたたた、と駆け寄る足音。
「“血の祝福”――」
呟いたミルフィティシア。
そして、目が眩むような光が辺りを覆った。
反射的に瞑った目を開くと、白黒に映る世界の中ヴィクトリアは吸血をやめていた。
「ヴィクトリアさま、へいき?」
「……ありがとう、ミルフィティシア」
目を何度もぱちぱちさせて、ようやく視界が正常へと戻りゆく。
夜の前、ヴィクトリアは深く頭を下げていた。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい。まさか私が、呑まれてしまうなんて……恥ずかしくて死んでしまいそう」
「多分、私のせいなので……お気になさらず」
ヴィクトリアの顔は、吸血鬼とは思えない程に赤い。顔を手で覆って、早口で何か呟いている。
「あ……ミルフィティシア、新しい子達、大丈夫かしら……」
ミルフィティシアは「あっ」と呑気な声を出して、吸血鬼達の方を向く。
全員ぐったりと倒れて、死屍累々とした光景があった。
「どうしよう……?」
首をこてんと傾げて、ヴィクトリアをじっと見つめるミルフィティシア。
「手段がないわけではないけれど……」
「えっと、多分できるので治してきますね」
自分への回復はもう終えて、体調は万全。
そう宣言して駆け寄って、ぱぱっと回復を行使する。
「直接な損傷ではないし、吸血鬼の回復は少々面倒よ?……って、あら」
外傷はなさそうだったので、生命力そのものの回復な赤い光の回復をしてみて。あっさりと、全員目を覚ました。
「得意なんです、回復するの」
戻ってきて、あはは、とはにかんで。
「……何から何まで綺麗な在り方をしているのね、貴女は」
ヴィクトリアは優しく微笑んだ。
「……今の光は?」
レオンハルトの問いに、ヴィクトリアは苦笑する。
「ミルフィティシアの“血の祝福”よ。この子、どういうわけか光、それも日光と同じ効果を持つ光を操ることができるの。そのためか陽の下を平然と歩けるし、同族に強いしで次期当主としては優秀だけれど……」
ただ振るうだけでも仲間に致命的、というのは先程の状況がよく示していた。
「と……騎士様。今の謝罪も込めて、譲渡権益の上乗せをするわ。そうね……そろそろ関税を下げておきましょうか」
「そんなもの、一介の騎士程度との交渉で渡してしまってよろしいんですか?」
「いいのよ、いずれ時期を見て渡す予定だったもの。それが貴方を相手になら、最良。――外交に興味はあるかしら?」
妖しく笑って、誘うように尋ねる。
レオンハルトは今後を考えつつ、答えた。
「……あります」
「いいわ。なら、貴方との交渉による結果として強調しておきましょうか。もう一つ。その子を巻き込むつもりは、ある?」
その子、と示されたのは当然、夜だ。
「それは……」
夜を巻き込むのは乗り気ではない。レオンハルトはそうだろう。
自分の安全を懸念したそれに、有難く感じつつも抗ってみせる。
「私がいると有利に働く……んですよね?」
「それは勿論。交渉事において、貴女以上に強い存在は他にないでしょう。マイナスを帳消しに、どころかプラスにすらしてしまう、絶大な影響力を持つのは間違いない」
「レオ。私、やりたい」
レオンハルトを真っ直ぐに見つめて、伝える。
「でも……少なからず危険はある、よ」
「私が力になれるなら、なりたいから。傍にいさせて」
「……わかった。お願い、夜」
夜の有用性はレオンハルトも認めるところ、強く断れるものでもなかった。
二人のやり取りを見ていたヴィクトリアは「では、そのように」と。
「また会う機会もあるでしょう、今日はそろそろ失礼を。お話できて良かったわ、騎士様と若奥様」
「ばいばい。またね」
背を向けたヴィクトリアと、手を振りながら後を着いていくミルフィティシア。
その姿はやがて、吸血鬼達と共に闇夜へ朧気に消えていった。
「お帰りなさいませ」
「ただいま、ノアさん」
「ただいま」
屋敷へ戻ったのはそれからすぐ、移動魔法を使用して。
行きと違い、いくつか条件を満たして登録している場所へなら、魔力さえ足りるのなら魔法での移動は可能、と聞いて夜は安堵したのだった。
夜をすぐに部屋へと向かわせ、レオンハルトは真剣な面持ちでノアへと向き合った。
「ノア。記憶、見せたいから取って。ただし、一人で見てね」
「まあ、直接対面しての閲覧を嫌がるというのは……余程恥ずかしい、かつ伝えなければならないことがあったのですか?」
「見てくれたら、わかるから」
いつもの軽口へ反応すらしないレオンハルトに、ノアは茶化すのをやめ淡々と「かしこまりました」と返し、言葉に従いその場を離れた。
そして三十分ほどして。
ばたばたと、慌てた夜が駆けてきた。
「ノアさんが! ノアさんが! 泣いてたの!」
「……そっか」
レオンハルトは微笑む。
あの鉄仮面が崩れる様を、普段なら揶揄しただろうが。今日はまさか、そんな気分には到底なれなかった。
微笑をそういうものと勘違いしたのか、夜はぷんすか怒った。
「なーんーでーわーらーってるーのーさー!」
「嬉しいことがあって泣いてるからさ、ノアは。だから心配しないでいいし、僕だって笑うよ」
「そう……なの? えっと、ノアさん、私の部屋に来てハグされて泣いてて、レオに『今日はお暇を頂きます』って伝えて欲しい、って」
「ん……いいよ、受け取っておく」
ノアのことだ、どうせ屋敷内の魔法はかかりっぱなしで、大きな問題はないのだろう。
何があったのだろう、と思案する夜の頭に、ぴこーん! と鳴りそうな考えが浮かんだ。
「もしかして……今日の、ミルフィティシア様。ノアさんの……妹さん?」
レオンハルトは笑う。
「や、違うよ」
妹では、ない。嘘はついていない。
より詳しく訊かれたなら、話すか悩むつもりではあったが。
「むー……これだと思ったんだけどなー」
夜は追求して来ず、会話はそこで途切れた。
ノアの反応を知ってしまった今、再びノアと顔を合わせる時どんな顔をすればいいのか、レオンハルトはこっそり悩んでいて。
それは衝動的に夜に泣いたまま抱き着いたノアも、同じ悩みを抱えていた。
ヴァンパイアの独自言語がドイツ語なのは――かっこいいからです。
間違ってたらごめんなさい。
お読み頂きありがとうございます、をこっそり添えまして。