悪意を孕んで、毒を膿んで。
「さっきはありがとね、夜」
休み時間、夜の下へ来たスノウリリーの第一声。
「私がやりたかっただけだから、お礼言われることじゃないし。……で、説明お願いしていいのかな」
そもそもの一因でもあるので感謝を素直に受け取りづらく、すぐに話題転換。
「……あいつは、ジュリアス=ディールス=ヴァザーリ。貴族で、家の格は……私と同じくらいかな。うちの方が古いけど、あっちの方が商業関係で力があって顔が広い」
「さっきぶっちゃったけど……大丈夫かな」
自分はともかく、レオンハルトの立場として。貴族、と聞いてその心配がよぎる。
「大丈夫、シュヴァルツフォールは特別だし。……その様子だとレオは話していないのね。言いたがらないのはわかってるけど」
「それは、どういう?」
レオンハルトが学園内で時折、教師に畏まった態度で接されることと関係があるのだろうか。
「そっちはまた今度かな。――続けるね。で、あいつ自身は貴族の放蕩息子そのままよ。女癖が悪くて、レオが気に入らないみたい、ってのを付け加えれば紹介としては十分」
「レオが気に入らない、っていうのは何でなんだろ?」
能力や地位への妬み、という感情がありうるのは理解できるが、レオンハルトとある程度会話する機会があって、それを持つ人は夜の知っている限りいなかった。
「騎士っていう立場が気に入らないみたい。身分としては貴族に近い騎士をどうも、下に見ているような。……いつか恥かくだろうけど」
自分が貴族であることを誇りに持っていて、貴族でないのに似た身分である騎士が、クラス内にいるのは面白くない、という感じなのだろうか。濁った感情の動きはどうも、夜には読み取りづらい。
「勿論、あの歳で騎士っていうことへの嫉妬もあるでしょうし、レオの方が自分よりずっと人の集まることも腹が立つんでしょう。気をつけてね、本当。何されるかわかったものじゃないから」
当のジュリアスは今、女子生徒数人と話している。こちらへの視線は頻繁に感じていたが、努めて無視。
「早く来てくれるといいね、王子様」
「……うん」
いつもなら笑って訂正するからかいも、そのまま受け入れる。
心細いのだろう夜を案じて、スノウリリーは今日一日くらいはこのお姫様の騎士代理を務めよう、と胸に決めた。
「ローズシルト。教員室に来てくれるか」
「……わかりました」
午前中最後の授業後。学級委員の仕事だろう、スノウリリーは教師に呼ばれてしまった。
強く断ることもできず、不安げに自分を見るスノウリリーに「大丈夫」と手を振って見送る。
とはいえ、心細いのは確かだ。
下手に出歩くよりは、一定量人目のある教室にいる方が安全か。
そう考えて、図書館から借りてきた本を開く。常識取得用、世界史の本。
日々視線に晒され続けている夜だが、その結果見られることに慣れたかというと、より敏感になったと言う方が近い。
向けられる視線の性質が、察せられるよりになっていて。
そして今向けられているのは、征服欲に嗜虐欲に獣欲に、およそぶつけられたくないものを一通り。当然というか、一人の人間から。
気づかない振りをして本に目を落としたままにするも、無視を通すは敵わないことを正面に立った相手に思う。
「……何か」
誰かに嫌悪を露わにして接したのは、夜にとって初めての体験だ。隠すまでもなく、嫌悪を人に感じたまま接することなど今までなかったのだから。
「貴族の顔を叩いておいて何もない、というのもないだろう?」
「……はぁ」
つまらない人だな、と思う。
自分の力でもない権力を我が物顔で行使する、というのはレオンハルトも夜も対極にある行いだから。
「所詮は騎士程度、大した立場でもない。その妻の問題行動は十分処分に足りるものだ」
「脅迫ですか」
感情のままに強く睨みつける。美貌を伴う敵意はそれすら、嗜虐心を増幅させるのみになってしまったと夜に知る術はなかったが。
「物分りも良いようだ」
周囲をちらりと見る。
夜を気にかけてはいるものの、口を挟めない、という雰囲気。
この学園には貴族の子息子女も通っているとレオンハルトから聞いたことがあるが、その数は多いわけではないとも同時に聞いている。
少なくともクラス内ではスノウリリーのみで、そのために今この場に、やり取りに介入できる者はいないのだろう。それをわかっていたからこそ、スノウリリーも夜を守っていたわけであって。
「言うことに従うのなら、なかったことにしてあげないこともない」
「嫌です。貴方みたいな下らない人に、費やす時間はありませんので」
自分でも酷いと思う言葉の羅列を、言い放つ。
次の瞬間、夜の頭は机に叩きつけられた。
「ぁ、っ」
声にならない声の漏れて、遠巻きに眺めていた女子生徒が小さく悲鳴を上げたのが聞こえた。
側頭部を強く打ちつけ、そのまま押さえつけられる。
「調子に乗るなよ。娼婦の癖に」
「ゃ、ぁっ……」
髪を掴まれて、引っ張られ乱暴に椅子から倒される。痛みに慣れていたのは幸いか、それにのたうち回ることはなかった。
そのまま馬乗りになられて、ろくな身動きも取れなくなる。
本当はとても、怖い。
それでも怖がる様子を見せたくなくて、毅然と鋭い瞳を作った。
「――あいつに似て、腹が立つな」
制服のブラウスに手がかけられる。が、脱げることはない。ノアがかけてくれたセーフティ。
脱がせないのは理由があると気づいたのか、ジュリアスは懐から刃渡り10cm程のナイフを取り出す。
それを夜の制服を切り裂くように振るう。が、斬れない。
「随分と、可愛がられてるじゃないか。――脱げよ」
嫌だ、とはすぐに言えなかった。
首元に伝わる感触の冷たさは、自分の感じている怖さのせいなのだろう。金属が、氷のように冷えているのは。
「いや、だ」
それでも。
屈したくはない。そして、ここで屈してしまったらとても、レオンハルトに悪いことをするのだと感じてしまって。
「お前。来い」
自分から逸れた意識に一瞬緊張が緩む。
ジュリアスに呼ばれておそるおそると、女子生徒が一人歩いてきた。
「ひっ……!」
その襟首を掴んで、首筋に刃を立てた。切っ先の触れて、赤い雫がつう、と垂れる。
「お前みたいなのには、こういう方が訊くだろう? 脱げ」
「ふざけんな……くそ……」
人質のようなクラスメイトの夜を見る目が、「助けて」ではなく「ごめんなさい」と伝えているとはっきりわかってしまって。
悪いのは貴女じゃない、と言いたいのに、もう言えるような気持ちは持っていなくて。
溢れる涙が悔しくて、見られたくなくてせめて顔を逸らして、夜は自らボタンを外していった。
最後のボタンに手をかけた、その時。
風が吹いて上に乗るジュリアスを吹き飛ばし、夜は誰よりも安心する腕に抱かれていた。
「謝罪は後で、しっかりするから。今はこれだけ。もう安心して」
こくこくと頷いて、強く抱き着いて、強がりの糸が切れて思いっきり泣いて。
「おせーよ、ばーか……」
「ごめんね、ごめん」
夜にかける声はあくまで優しく、きっと微笑んでいるのだろう。
それが無理して作ったものだということは、夜にはわかってしまう。尚更深く感謝をして、感情のままに抱き着いたままにする。
「蹴りで壁に叩きつけるやつがあるかよ……騎士風情が」
「斬らなかっただけ有情と思え。お前をどういう処遇にするかは、夜の意向に沿うことにするよ」
只ならぬ空気を察したのだろう。
「何なのよ、これ……」
戻ってきたスノウリリーは教室内の光景を見て、呆然と呟く。
「はっ、騎士が偉そうに」
「その騎士に叩きのめされてるのは惨めじゃない?」
レオンハルトも絶対に嫌いだろう、とは思っていたが。こんな挑発をするレオンハルトを夜は知らなくて、少し不安になってしまって。
抱き着く腕に力を込める。
「レオンハルト=シュヴァルツフォール。お前に決闘を申し込む」
レオンハルトは鼻で笑った。
「馬鹿らしい。つき合う義理はないよ」
「はっ。騎士の家柄な癖に、笑わせるな。そんなだからヴァンパイアに殺されて、お前の両親は王族も守れずくたばったんだよ」
ぞくり、と。
ジュリアスの言葉を聞いて叫んだスノウリリーよりもずっと、静かに耐えていたレオンハルトを怖く感じて。
「……わかったよ。やってやる」
感じたことのないレオンハルトの空気に、夜はその名前を呼んだものの。
小さく一言「ごめん」とだけ返されて。くっついているはずなのに遥か遠くにいるように、距離を感じて寂しくなった。
昨日のPV数がすごいことになっていました、ありがとうございます。
ここ数日の毎日更新は途切れてまた平常ペースになりますので、ご容赦ください。