おしろのよるに。
料理だけは運んでくれたので、それを一人で食べて、片付けてもらい。
ノアから習った魔法の復習をしようとしてかき消され、いよいよやることがなくベッドに横になっているうちにうつらうつらと、眠気の波に拐われそうな夜。
コンコン、と扉を叩く音がした。
「ん……はーい」
半覚醒の意識にぐいーと伸びをして、歩いていき扉を開ける。
自分の夫たる騎士の姿を想像していたものの、それとは少し違っていて。
「……なんで?」
いつか見た格好。黒一色の外套に垂れる金髪は、明かりの消えた城内において月明かりを反射して光る。
「……そのままだと何かと面倒だから。入れてくれる?」
声は作っていないいつものもの。この格好特有の冷えた空気は、発声と一緒に消えていた。
レオンハルトを招き入れて扉を閉め。
二人でベッドに腰掛ける。
「結構遅かったね。もう一通り終わった感じ?」
髪の長さを戻して、レオンハルト。
「うん。ついつい捕まり続けて、抜けられなくてごめんね」
「そんな気はしてたから平気。……反応どうだった? って、訊いていいのかな」
何に対する反応か、が曖昧な質問。それでもこの旦那様は教えてくれるだろう、と疑いなくぶつけてみる。
「おおむね良好、かな? 今回呼んでいる人がそういう人達なのもあるけどね。夜の言ったことも届いたのか、色ボケ騎士扱いはされませんでした」
「ん……そっか」
安心して、ふっと微笑む。
「……ありがとう、夜」
「んー? わっ、と」
抱き寄せられる。
悪い気はしない。別に悪い気はしないのだが、果たしてレオンハルトは大丈夫なのだろうか? と心配する癖がついてしまっている。
一旦抱擁は解かれて、そのまま両肩に手を置かれじっと見つめられる。
夜はいったい何だろう、とじーっと見つめ返す。
一秒、二秒、三秒。
交差する視線は、高まる鼓動を裏に鳴らして、次第に緊張感を帯びる。
が。
「無理……やっぱ無理……」
先に視線を解いたのはレオンハルト。
項垂れるようにベッドに倒れ込んで、そんなことを呟いている。
「どうしたのいきなり……」
よくわからなかった夜は、首を傾げて半目で訊く。
「何でもないです。何でも。――そろそろ行くね。また明日の朝、迎えに来るから」
流石の切り替えの早さで、すっと起き上がりまた金髪を伸ばした美少女然の姿をとる。
「ん、おやすみなさい。まだやることあるの?」
「……ちょっとね。夜は早めに寝てね。鍵をちゃんと閉めて」
レオンハルトの空気が冷たさを帯びていく。この感じは正直、苦手だ。何故か分からず、訊くことも憚られる。
扉を閉める前に「おやすみ」と言ったその声は、ひどく無機質な響きをしていた。
深夜。
誰もいないことを入念に確かめ、階段を上った先の床を踏む。
SSS級保護認定のためだろう。この階に彼女を除いて誰もいないことは知らされている。
ゆえに少しの音なら漏れる心配は薄く、そもそもあの部屋は防音が施されている、とも聞いていて。
暗い城内、足音を立てないように廊下を進む。
高揚はない。現実感を持てていない。熱にうかされているように思考は霞み、これから自分が何をするのかだけはぼんやりと理解している。
部屋の前で足を止める。魔法の対応した専用の鍵を取り出しながら、周囲に人気がないかを確認しようとして。
刺すような殺気を感じた。
「っ!?」
後ろからのそれに振り向く。人がいないかは警戒していたはずだが、と。
「失礼。そちらはシュヴァルツフォールの花嫁様のお部屋ですが……どのようなご用件で?」
そうして相対したのは、黒衣に長い金髪の少女。腰に差した剣は、まだ抜かれていない。
「じ、城内の見回りに……」
「成程。――わざわざ鍵を持って、ですか」
抜かれていなかった筈の剣は、今その切っ先を自分の首元につけていた。追いつかない理解に動きが止まり、息を呑む。
「その部屋の鍵は、一騎士が入手できるものでもないでしょう。誰からですか?」
切っ先が僅かに首に埋まり、血が一筋垂れる。少女の手つきは随分と、慣れているように見えた。
言わないという意思ではなく、言うという選択のできないことによる沈黙を保っていると、続けて。
「――王族には逆らえないと」
その言葉にぎょっとして、顔が強ばってしまう。少女にはそれで、十分だったようで。
「貴方は隠し事に向いていませんね。ただ、残念ながら既に知っていたことです。貴方が言おうと言うまいと、それはどちらでも良かったこと。それにもう、彼女の下には私より怖い方が向かっていますから」
そう言い少女は剣を戻す。
されど安心できないのは、自分に向けられる殺気が全く消えていないからだ。
「彼女の近くで殺すのには抵抗があります。それに私は、貴方が悪い人でないことを知っていますから。唆されての悪性を、死で償えとは思いません」
乱雑に剣を振りかぶり、そして。
側頭部に強い衝撃があって、そのまま意識は昏倒した。
倒れた騎士を見下ろして、手元から転がった鍵を回収する。
「もし貴方が未遂でも手を出していたなら、どうだったかは分かりませんが。――きっと彼女は望まないでしょう。日常に戻るといい」
魔法を使おうとしてかき消され、小さく舌打ちをし、部屋の主は眠っているだろう扉を一瞥し、騎士を背負って少女の姿は宵闇に消えた。
指示した時間はそろそろだ。
果たしてアレ相手に、まともに襲うことのできるのかどうか疑問はあるが、どういう結果になるだろうか。
催淫魔法の一つでも仕込んでおいてやりたかったが、触れようとした時には阻まれた。
その後レオンハルトを従えることに使えるのなら、結果は理想でなくとも良い、そういう遊び。
女としての価値を評価されない以上、自分の有用性あるいは人間性で価値を認めさせる。
もし一夜を共にできればあの騎士の性格からして随分と楽になるだろうが、それはこれからの転がり方次第か。
そんな思索を巡らせながら、王族用の広い一室で豪奢な椅子に腰掛けていた。
コツ、と後ろから足音がした。
この城の鍵は全て魔法による特殊な防護、特にこの部屋は王族用、他の部屋よりもさらに強固なはず。
破れるはずもなく、鍵を開けて入ってくるような輩はノックも無しになど有り得ない。
音の主を確かめようと、警戒をしながら立ち上がりそちらを見やる。
「意地の悪いのは元々でしたが、質の悪くなってしまったのは残念です」
目を見開いて、呟く。
「どうして、貴女が……」
メイド自体はこの城内に、そう不思議な存在ではない。城内のメイドと服装が違うのも、今は大きな問題ではない。
月の光を纏う銀髪に、全てを見抜くような紫水晶の瞳。
立っているはずのない存在が、そこにいた。
「今はその話をしに来たのではありませんので。貴女の悪事は阻止させて頂きました。彼女に害を為される訳にはいきませんから」
その言葉にショックは受けない。当然だろう、とすら思っている。
何故この部屋に入れたか、どうやって阻止をしたか、そもそもどうして知っているのか、その全てを説明されずとも、納得できてしまう相手なのだから。
小賢しい暗躍をする程度の自分では、絶対に敵わない相手。格が違う。人と鳥とで、どちらが先に飛べるか競うようなもの。生まれた時点でそのようにできている存在に、挑むことそれ自体が間違っている。
「ああ。今回、私が全てを把握したわけではありません。殆どはレオ様ですので。貴女のミス、特に大きいのは一つだけです。夜様を相手に平然としていたこと」
「……どういうことでしょうか?」
こちらに抵抗する気がないのは既に読み取られている。しようとしてもまるで意味を為さない、とお互いに理解していることまで。
「ナチュラルチャーマー自体稀少なものなため、無理もないことですが。明確な敵意を持たれていると、魅了の効果は鈍ります。初対面で普通に会話できてしまった時点で、貴女は彼女に敵意がある、と教えていたようなものです」
「……まあ。それは知りませんでした。本来ならもっと、なのですね」
「ええ。私でも素面は厳しいお方です。――さて」
ただの楽しいお喋り、とはいかないだろう。いかなる手段も見透かされる今、自分にできることはただ話を聞くのみだ。
「私の主人に害を為そうとした罪は、それなりの罰で償って頂きます。よろしいですね?」
「……はい。拷問なり凌辱なり殺すなり、どうぞご自由に」
自分の指示を考えれば、仕返しはおよそ想像がつく。はっきり言って最悪だ、とそれを命ずる自分の性格の悪さを自覚して笑いすらする。
「そんなことをしたいのではありませんよ。私達は貴女とは違いますから」
「では……貴女様の目的は、いったい?」
「私が今ここにいる。それで分からないほど、貴女の頭の回転は鈍くはないでしょう?」
頷く。
そして、さらにその先を考え、言う。
「では――私も協力させては頂けませんか」
メイドの無表情が、僅かに動いた。
「裏切らない保証、及び貴女が提示できるメリットを」
「私の考える全ての抵抗が、貴女様には無駄なことを私は理解しています。裏切る気概を見たいのだろう、そしてそのうえでの協力者にしたいのだろうとまで」
「続けて下さい」
「私にできる協力は、貴女様の求めるだろう情報の提供。私にならこの国の裏を知ることができます。そして、私はどこの派閥にも属していません」
自分の言葉に、小さく笑った――気がした。
「よろしい。その申し出を受けましょう。ただし、お咎め無しというわけにはいきませんから……試験として罰を与えておきます。近日貴女に難題が訪れるでしょう。協力者足り得ると示すため、解決するように」
「……わかりました」
もう用はない、というように向けられた背に、「あの」と声をかける。
「六年前のことは、私の推測通りと捉えても宜しいのでしょうか」
「ええ。今の貴女なら、尚更わかるでしょう」
振り向かないままそう答え、その姿はふっと消えた。
過去の許可が残っていたのか、自力で突破してしまったのか。魔法のかき消されなかったことに驚きはない。
いつかの感覚。
自分の矮小さを思い知らされる、過去の記憶。
「……私が真に憧れたのは、貴女様だけ。その真実を知ってしまったから私は、こうなってしまったと言うのに」
誰にも聞かれることのない嘆きは、闇の中にそのまま消えた。