③ 二つのショック
【二つのショック】
おねえちゃんとゴロンの秘密を、わたしがバラしてしまってから、ママがゴロンを監視する目はいっそうきびしくなった。食事をさせるとすぐ外に出し、二階に上がるのがわかるよう、首に鈴をつけた。それでも、わたしの夜の発作は、なかなかすんなりとは治まってくれなかった。
ある晩、水を飲みに二階から下りたわたしはリビングの前で耳をそばだてた。
声をひそめて話し合う、パパとママのこんな会話が聞こえてきたからだ。
「美優のぜんそく、ようやく落ちつきかけたのに、またぶり返しはじめたの。きっとゴロンがうろうろしてるからだと思うわ。これから春に向けて毛も抜けやすくなってくるし、やっぱりわが家でネコを飼うのは無理だったかしら?」
「今さらそんなこと言ったって、いったん飼うって決めた以上、途中で放り出すことはできんだろう。しかしゴロンもかわいそうだなあ。ふつうだったら、もっともっとかわいがってやれるはずなんだがなあ」
パパが小さくため息をつくのがわかる。
かわいそう?
ぐさりと、自分の胸に氷の破片をつきたてられたような気分がした。
(かわいそうなのはわたしでしょ? ぜんそくがひどくて、飼ってるネコも抱けないわたしのことじゃないの?)
その問いかけに、心の中のもう一人のわたしがこたえる。
(ちがうよ。美優がふつうの子だったら、ゴロンは今の何百倍、何千倍も幸せでいられるはず。リビングでのびのびと寝そべったり、家族みんなにかわいがってもらえる。一番かわいそうなのはゴロンよ。)
美優のせい。美優のせい。
心の中で、何度もくりかえされるひと言。
ふるえる気持ちを落ち着かせながら、わたしはパパたちに気づかれないよう、そっと部屋にもどった。
真夜中、自分のせきで目がさめた。むしょうに苦しかった。
ママが起きてきて、水を飲ませてくれたり、吸入をさせてくれたり、痰が出てしまうまで背中をさすってくれた。
ようやく治まってとろとろと眠りかけたとき、おねえちゃんの部屋から、かすかにこんな声が聞こえてきたのだった。
「…よね、…ぜったい……よね」
だれかに話しかけてるような、とぎれとぎれのおねえちゃんの声。
おねえちゃん、だれと話してるの? もしかして、ゴロン?
聞いてみようと思いながらも、わたしはいつのまにか眠りの世界へとひきずられていった。
それから二、三日ほどたって、わたしは学校で気分が悪くなり保健室で休むことになった。
「最近、ぜんそくの発作でよく眠れてないんでしょう。しばらくゆっくり眠ったらだいじょうぶよ」
保健室の若い杉田先生は、ベッドの回りをおおっているうすもも色のカーテンを閉じると職員室に行ってくるからと出ていった。
眠ろうにも眠られずに、天井を見てじっと横たわっていたけど、不意にグラウンドの方から聞こえてくる、ホイッスルの音や応援の声などが気になり、起き上がって窓のそばに行った。
今日、木曜日の三時間目はたしかおねえちゃんたち六年一組が体育の授業のはずだ。
この時期はどの学年も、体育の授業が新春子ども大会の練習にあてられるようになる。
毎年恒例のこの行事は、一月の最後の週に行われ、こま回し、はねつき、百人一首カルタとりの三種のうちから好きな競技を選んで練習するほかに、クラス全員参加のマラソン大会があった。
このマラソン大会は、男子と女子に別れて行い、学校を出て、決められたコースを走る。
六年生だったら、だいたいグラウンド七週分くらいの距離だ。ただし、本番まではグラウンドの中だけで練習するように決められていた。
わたしは百メートルのかけっこなら誰にも負けない自信があるけど、長距離のマラソンになると、いつも途中でリタイアしてしまう。走りたい気分とは正反対に、呼吸が苦しくなってついていけなくなってしまうのだ。それに無理をしたあとは、決まって発作がひどい。
おねえちゃんはふだんスローモーだけど、マラソンは得意みたい。自分のペースを乱さずにこつこつ走れる。
おねえちゃんはどこにいるんだろう。
わたしは額をガラス窓にくっつけるようにして、六年一組の女子の集団をていねいに目で追った。
担任の先生は男子マラソンの練習のタイムをはかったりしているらしく、女子は、みんなでマラソンの練習をしているようだ。
スタートして三周目、いたいた!
おねえちゃんは先頭の三人のグループの中にいた。
白い運動帽からのぞいたおさげ髪が走るたびにゆれている。
長い体操ズボンをはいている人が多い中で、短い体操ズボンからすらりとのびたおねえちゃんの、かもしかのような足は、とても目立ってかっこいい。
五周目に入った。おねえちゃんのペースは変わらない。先頭グループのあとの二人もおくれをとらず、 三人並んだ形でコーナーにさしかかった矢先の一瞬のできごとだった。
おねえちゃんの両端にいた二人が、わざとおねえちゃんの足に自分たちの足をかけたのだ。
「あぶない!」
わたしが叫んだのと、調子よく走っていたおねえちゃんが、いきおいよく前につんのめってころんだのとほとんど同時だった。
二人は全く知らんぷりして走り続け、次にやって来た七人グループの一人が、起き上がろうとしたおねえちゃんの手を、何くわぬ顔で踏みつけていった。
おねえちゃんの顔がくうとゆがみ、踏まれた右手を左手でぎゅっとにぎりしめた。
泥のついた体操服を手ではらい、ひざに血をにじませているおねえちゃんを見ながらも、一組の女子はだれ一人としておねえちゃんに声をかけようとしない。
わたしのひざはガクガクふるえだした。
これっていじめじゃない。
一人の子がクラス中の女子によってたかっていじめられてる。
しかもその一人の子とは、わたしのおねえちゃんなのだ。
なぜ? どうして?
持って行き場のない怒りで、わたしの心はあふれかえりそうになった。