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一週間後、ルルイユ王国第二王子と婚約者である令嬢の婚約破棄の儀執り行う。
そんな通達が届いてから、エクレイアはどうやってラヴィエルをエルヴィアーナへ帰そうかと、それはもうその知恵の全てを振り絞って考えた。画策した。そして実行した。
その結果、
「どうしてそんなにも拘るんですの…!」
惨敗した。
なだめてもすかしてもダメ、正面からお帰り願ってもダメ、ならばと絡め手を使ってみたがダメ、それとなくルルイユの宰相に手を回して、王子の婚約破棄というスキャンダラスな場面に他国の皇家に連なる貴族を立ち合わせるのは如何なものか、と直訴したのだが…ダメ。なんとこの貴族は、事情を話してお帰り願おうとした宰相に対し、その場で見聞きしたことをみだりに吹聴しないと、神に宣誓するとまで言ったそうだ。
「兄上の命だからな」
「みだりに吹聴しないという宣誓はなんだったんですの!?」
「あくまで、みだりに、だ。必要となればその限りではない」
なんて口の減らない。
ルーベルハイム邸が誇る書斎に設えられたソファで、深々とため息をついて肩を落としたエクレイアの手元には、しっかりと栞が握られていた。細い絹のリボンが結わえられた、薄い金属の栞。小さな、猫の彫刻が施されている。膝の上には、エルヴィアーナ独自のアニス文字が並ぶ、豪華な装丁の書物。
エルヴィアーナで現在流行中のミステリ小説だという。『ブロンド探偵と雪色の城』。
高貴な貴族の身の上である、美しい金髪をした探偵が登場するらしい。まだページは目次で止まっている。
これは、ラヴィエルとの不毛な戦いに疲労困憊したエクレイアが、オアシスを求めて書斎に訪れ、そこに積み上がった山のような“エルヴィアーナの新書”を見て呆然としていた時に、その当のラヴィエルに、「これを読め」と手渡されたものだ。
というか、この男、持って来たのは“何冊か”ではなかったのか。これのどこが“何冊か”なのか。
「ラビの“何冊か”は、桁が違うことを忘れてたわ…」
外れそうになった顎を押しとどめて思わず呟いてしまえば、弾かれたようにエクレイアを見たラヴィエルが数秒ののちに肩を震わせて大笑いしたことを、エクレイアは当分忘れられないだろう。
(まさか、朧だったはずの幼少の記憶が、前世の記憶と一緒に鮮明化してたとは思わなかったわ…、迂闊だった)
とはいえ、前世の記憶があるないに関わらず、エクレイアはエクレイアである、というのが、この数日を過ごしたエクレイアの結論だった。だって、その異質な記憶はすっかりエクレイアに融合し、彼女の一部になっている。そして、エクレイアの性格が何か変わったかといえば…完全に否、とは言えないが、それがどの程度であるかといえば、ほんの僅かに過ぎないだろう。この異質な記憶が他にどんな影響を及ぼすかはわからないが、今は静観でも十分事足りるだろう。
そう、今はそんな些事よりも。
「ラヴィエル様」
「ラビで良いが?」
「からかわないでくださいませ! …本当に、お戻りになる気はありませんの?」
「ああ、無いな」
自身はルルイユの歴史を記した書物のページを繰りつつ、ラヴィエルはにべもなく言い切った。しかしその口元には、愉快そうな笑みが浮かんでいる。これは確実に、先ほどのエクレイアの失言を面白がっている。
「何年振りだったか、その名で呼ばれたのは」
「ですからお忘れ下さいと…!」
「今は兄上も、俺をラヴィエルと呼ぶからな」
心底愉快だと言わんばかりの笑みを含んだ声音に、エクレイアの頬に朱が散った。
「あの頃は…、わたくしもまだ子供でしたのよ、身分も立場も理解していなかった」
「…一人称」
「……。“私”、は! ……もう、無邪気な少女ではいられないということですわ。私はいずれ、このルーベルハイムを背負い、ルルイユを助く存在にならねばならないのですから」
耳聡くエクレイアが築く壁を察知して悉く打ち砕くラヴィエルは、今度は笑みを完全に消して、エクレイアを見据えた。からかうような色はすっかり鳴りを潜め、アイスブルーに見たこともない深淵が写り込む。
…ああ。
(ラビも、変わったのね)
幼い頃、共に庭を駆け回り、本の海を泳いだ少年はもういないのだろう。
そんな感慨がエクレイアの胸を刺した…のは、ほんの一瞬。
同時にせり上がったのは、これまで封じ込めていた感情。
「という真面目な話は飽き飽きなので! 私は本を読みます。よろしくて?」
本を読みたい。
手の内に新たな出会いがあるのに、どうしてこれを邪険にできようか! ひと時の文学との逢瀬を、どうしてつれなくできようか!
そう、エクレイアは自他共に認める本の虫だった。それを、王族の婚約者という重責で押し込め、ずっと我慢して来た。本来のエクレイアは、目前にある本を読破したならば次の書物へ手を伸ばす、読書というのは生命活動と同義、という、空恐ろしい読書家なのだ。
何よりも今の彼女は、前世の記憶により、その読書好きがさらにパワーアップしている。
何故本を読むのかと問われたならば、今のエクレイアならばそれに全くふさわしい言葉を返すだろう。
(そこに本があるからですわ! …前世の記憶も使いようですわね。そして実に良い言葉だわ)
うんうん、と、力強く頷いて、目次のページをめくった。めくるめく世界が広がる予感に胸を弾ませて、エクレイアは目をきらきらさせて文字を追う。…。
その様子を、やや意外そうに、けれどもどこか眩しそうに、そして、なんだか…嬉しそうに見つめていたラヴィエルは、そっと、自身の持つ栞に指を滑らせた。
絹のリボンが結わえられた、犬の彫刻が施された栞。
「エクレイア。お前は今の方がずっといい」
このお話の中では、厳密に言えば、あくまで「前世の記憶が蘇った」だけであり、「転生した」わけではありません。
ただ、記憶を持って生まれたとすれば、広義の「転生」にあたるのかとも考え、転生タグを使わせて頂いております。