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婚約破棄に伴う儀式。
なんとも面倒なことになった、と、エクレイアは深々とため息をついた。
「わたくしとしたことが、失念しておりましたわ…」
「災難だったな、エクレイア」
返った言葉にエクレイアはまたも深々とため息を返した。
温かい紅茶も美味しいスコーンも、気持ちを僅かに上向きにはさせても、完全に浮き上がらせてはくれなかった。
ティーカップをソーサーに戻し、ソファの肘掛に右腕を預け、エクレイアは目前で悠然と紅茶を飲んでいる青年をじとりと見た。
美しいアッシュグレイの髪が涼やかな目元にかかる。紅茶を味わうべく伏せられていた長い睫毛が静かに持ち上がり、氷のように澄んだ青い瞳が現れる。
「ええ、本当に。仮にもあちらは王族、何につけても大仰な程の格式がありますのに、すっかり失念しておりましたわ。当然婚約破棄などという重要なことには仰々しい儀式がついてくるに決まっておりますもの…」
それから、自分を落ち着かせるべく、エクレイアは自らのホワイトブロンドを無造作にかき上げて、同じ色の睫毛が縁取るペールグリーンの瞳をきゅっと細めた。
「で、どうして貴方がこちらにいらっしゃるの? エルヴィアーナの使節団の皆様は昨日、エルヴィアーナ本国へお戻りになられましたのよ?」
対する青年はといえば、何処吹く風である。
「そう言うな。我が国の皇子殿下は、エクレイア・テレージア・ルーベルハイム嬢の近況が知りたいと仰せだ」
「それで貴方がここに? 先日のお茶会で十分ではありませんの? ラヴィエル・ラフィアシウス様」
投げやりな口調でエクレイアがそう返せば、虚を突かれたように目をぱちりと瞬かせて、ふと笑った。
「やはり変わったな、エクレイア」
「何がですの!」
本当にこの男は。
くつくつと喉の奥で笑うこの男は、先日の、件のお茶会の貴賓の一人。
隣国エルヴィアーナ皇国の貴族にして、エルヴィアーナ皇太子の異母弟。ラヴィエル・ラフィアシウス公爵。母親が庶出の第二妃であったがために、公爵の位を賜って臣下に下った高貴なる貴族。
と、これだけを聞けば色々と邪推してしまいそうだが、兄弟仲は至って良好なのだ。これが。
何故なら、彼らの父たるエルヴィアーナ皇帝は、エルヴィアーナ第一皇子にして皇太子であるラファエル・ルヴィア・エルフレンネスの母である皇妃を生涯唯一の妻とすると公言して憚らなかった愛妻家。
その皇妃が、たった一人の皇子ラファエルを産み落としてから急逝し、悲嘆に暮れる皇帝を見ていられなかった宰相と、身体の弱いラファエルを見て、皇子が一人では皇位継承に障りが出るかもしれないと恐れた騎士団長の計らいで迎えられたのが目前のラヴィエルの母。皇妃の名を頂くのは一人だけだと頑なになる皇帝に、では第二妃で構わないと胸を張った気丈な女性だと聞いている。皇帝も、皇妃への愛こそ変わらぬものの、そんな気丈な第二妃を心から大切にしているそうだ。
そんな皇帝を恨むこともないし、共に育った兄たるラファエルを憎む道理もない。
とは、目前のこの男より直に聞き及んだことだ。何度思い返しても、そんなことを私に言ってよかったものなのかと疑問に思うエクレイアである。
というか、事実を聞けば邪推などしようもない美談だ。言葉足らずというのはきっと恐ろしいことである。
(エクレイアとして振る舞うにつけ、それを思い知るわ…)
若干ずれた方向に思考を逸らしていると、
「普段のお前なら、俺の機嫌を損ねぬように、それとはわからぬように遠慮がちだったのだがな」
「……」
「まあ、それも、第二王子の婚約者、という立場を鑑みての行動だったのだろうが」
エクレイアは静かに、自分を見つめるアイスブルーの瞳を見返した。
「俺がここに留まった理由は、あの第二王子の婚約者として、お前が本当に真価を発揮できるのか、見極めるためだ。あの王子は随分と、あの令嬢に熱を上げているようだったからな」
元から兄王子と比べれば幾分ぼんやりしていたが、あれではさらに腑抜けだ、と、続いた言葉にエクレイアはため息をつく。
「…貴方、いくら異国の王族の血統でいらしても、言って良いことと悪いことがございますわよ。私が告げ口でもしたらどうなさるおつもりですの」
「お前はそれをしない」
確信を持って放たれた言葉に、エクレイアは片眉を上げた。ラヴィエルはさらに強く確信を込めて、
「お前はそんな女ではない」
あまりに強い視線に、目を瞬かせるしかなかった。なんの確証もないでしょうに、と思ったが、その信頼はくすぐったくもあり、嬉しくもある。
「随分と信頼されていますわね、私」
「それだ」
「えっ?」
「一人称が変わっている。余程のことがあったのだろうとは思ったが、まさか婚約破棄とは。あれ程王子中心だったお前が」
内心、エクレイアはひやりとした。が、嘘はついていない。中身が若干変わっただけで、入れ替わったわけではないのだ。
(私、そんなに王子中心だったのね…)
薄々そんな気はしていたが、改めて言われるとショックだ。それも、例え昔馴染みとはいえ、他国の貴族に。
「わたくしは」
「戻さなくていい」
間髪入れずに耳朶を打った言葉に、少し肩をすくめて、
「私は、このルルイユを愛していますが、私の平穏をこれ以上投げ打ってまで、あの方にかまける必要はないと判断しただけのことです」
今度はラヴィエルが肩をすくめたが、それは明らかに、エクレイアを真似たようだ。
「そのお前の愛する平穏だがな、我が国の新刊図書を何冊か持ってきた。書斎に運ばせてある」
「本当!?」
エクレイアは反射的に勢い込んで聞き返し、それからはっとして咳払いした。
「……本当ですの?」
珍しいエクレイアの大声に、目を丸くしたラヴィエルはしかしやがて、大きく吹き出した。密やかだった笑い声は徐々に大きくなり、とうとう肩を震わせ始める。
(やってしまった…。でも、エルヴィアーナは芸術の国、音楽も絵画も、そして文壇も…この国より進んでいるのよね)
「お前はそっちの方がいい。元々気が強く行動的な姫君だっただろう。また剣の腕比でもするか?」
「体格差を考えてくだいませ!」
昔と変わらないやり取りに心が和む。
昔から、彼が持ってきてくれるエルヴィアーナの書物は、王宮で緊張し通しのエクレイアにとってオアシスだった。読書好きの気質がさらに強くなった今では尚一層。
「…お前は、その笑顔でいるのが一番いい」
「え? なんですって?」
「いや」
ぼそりと落とされた呟きを聞き逃し、問い返したが、ラヴィエルは面白そうに笑ってはぐらかす。それから、なにやらいいことを思いついた、と、不穏な笑みを浮かべる。
「よし。俺は兄上から直々の命により、お前の近況を報告する義務があるからな」
「…なにをなさるおつもりなの?」
嫌な予感がして、エクレイアが唇の端をひきつらせると、今日一番の、貴族然とした優美な笑顔が返ってきた。
「俺も見届けよう。婚約破棄の儀を」