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まずもっての目標は婚約破棄。
それを掲げたエクレイアの行動は速かった。それはもう迅速だった。
まず、父たるルーベルハイム公に掛け合った。もう限界ですお父様、わたくし、もう付き合いきれませんわ! と。
八割は、前世の記憶を表出したエクレイアが、どれだけ自分が愛する読書の時間を奪われて来たかを自覚した故の、積もり積もった怒りによる叫びだったが、愛する妻との一粒種にして、優秀過ぎる美貌の娘の渾身の訴えに、ルーベルハイム公リージオは胸を痛めた。
リージオも、最近とみに目に余るジルベールの振る舞いにはどうしたものかと頭を抱えていたのだ。そこにきて、幼き頃から彼とともに、誇り高き貴族であろうと自らに課して強く美しく成長してきた愛娘のこの一言。
効かないわけがなかった。
なんなら、彼の妻たるパルティアも、全身全霊をかけて愛娘の擁護をした。パルティアも誇り高き貴族の姫、つまりは、自らの婚約者でありながら他所の女に、それも全くもって明らかに自らより格下である女にうつつを抜かすなどという裏切りに会う娘の現状に、長らく胸を痛め続けていたのだ。
ルルイユ王国きっての大貴族であるルーベルハイム家の当主と当主夫人は、王家への揺るがぬ忠誠をそのひと時のみかなぐり捨てた。
娘を守る番いとなったリージオとパルティアは、エクレイアの訴えがあったその日のうちに国王への謁見許可をもぎ取り、足音高く王城へ向かった…のが、つい数分前の出来事。
「……いくらなんでもアグレッシブ過ぎやしませんの、お父様もお母様も」
呆然と彼等の乗る馬車を見送って、エクレイアは呟いた。
そもそも、今日会いたいと願って会えるような方だったのか、国王陛下は。
色々と思うところはあったが、お前は紅茶でも飲んで待っていなさい、と、力強く告げられた父リージオの言葉に大人しく従うことにして、エクレイアは庭園のガゼボに向かった。このルーベルハイム邸は、王の住まう城を除けば、このルルイユにおいて最も広大で美しい屋敷だと言われる。だがそれ故に、屋敷にいれば嫌でも思い出すのだ。これまで散々投げつけられてきた、あの男どもの言葉を…!
「…っと、いけないいけない」
思い出したら腹わたが煮えくり返りそうだったので、エクレイアは首を振って思考を打ち消した。
ガゼボの椅子に座って、テーブルに頬杖をついて、遠くの花を見遣る。唇からは物憂げな溜息。
その様は正しく、見るものを魅了する、思い悩む深窓の美姫のそれで、遠くからそれを見守る使用人たちが、ああ、おいたわしや姫さま…! と身悶えているのを当のエクレイアは知らない。
前世の記憶を表出してから、エクレイアはこれまで以上に冷静になり、それと引き換えのように、微笑むことが少なくなった。勿論、それは単に前世における彼女の性格のせいであるのだが、それを知らない使用人たちは、噂に尾ひれ背びれ胸びれをつけて好き勝手に泳がせ、気付けば「エクレイア姫の花の微笑みを奪ったにっくき男・ジルベール」の出来上がりである。この国におけるVIPの上位者は、この屋敷限定でブラックリストの一番上である。
自らを悪役令嬢認定してしまったエクレイアであるが、実のところは、口では色々言いつつも、使用人に絵画やレース編みの手ほどきをしたり、普通の貴族の家ではありえない、使用人を慰労するためのお茶会を開催したりとなかなか面倒見が良く、使用人からの人気はべらぼうに高い。なんなら、貴族の姫君たちからは、影では『お姉様』と呼ばれて、ちょっと引くくらいには慕われている。その面倒見の良さ故に、ジルベールをさっさと切り捨てられなかったのだが…それに当人は気づかない。ので、
「エクレイアお嬢様、お茶をお持ちしました」
「…ええ、ありがとう。そこに置いておいて……。まだ、飲む気にはなれないの」
と、ふうっと息を吐いた暁には、紅茶を運んできたメイドが目を潤ませ、おいたわしや姫さま…! と、心の中で絶叫していることにも当然、気づかない。
やがて紅茶がすっかり温くなってしまってから、はたと気づいたエクレイアは、ティーカップに手を伸ばした。
温くなっているとはいえ、最高級の茶葉で淹れた紅茶である。芳醇な香りとすっきりした味わいが口いっぱいに広がり、幸せな気持ちになる。前世でも、ジュースやお酒よりも紅茶、日本茶などを好んでいたエクレイアにとって、これは至福であった。少し固くなってしまったケーキを口に運べば、優しい甘さが広がる。口の中に残る紅茶の香りと溶け合って、絶妙だ。
「流石はアルメイダ、当家のパティシエね」
エクレイアがそう呟けば、厨房にいるはずの、女であるが故にどこにも雇ってもらえず、ようやっとルーベルハイムで働き始めて以来めきめきと頭角を現した天才パティシエールが、両の拳を突然天へ突き上げた。のちに本人は語る。「エクレイアお嬢様があたしを褒めて下さった気がしたの!」。
「ねえ、フィアナ、貴女も食べない? 私、あまり食欲がないの。でもアルメイダのお菓子は美味しくて、残すのがもったいないわ」
厨房にてパティシエールが二度目の拳を天へ掲げたことなどいざ知らず、エクレイアは紅茶を運んできたメイドを呼び寄せ、共にお茶を飲もうと誘った。フィアナはエクレイアが幼い頃からエクレイアに仕えてきたメイドであり、エクレイアもフィアナには特別な信頼を寄せていた。
「勿体なきお言葉…」
「そんなのは良いからほら、こっちへいらして」
最近、エクレイアお嬢様の一人称が変わられた。とは、この屋敷中で専ら噂だった。勿論こっちも魚の形を成して好き勝手泳ぎ回っているのだが、それを咎めたり指摘したりする者はいない。どうやら、お嬢様はお心を大層痛めておいでで、それ故に御自らを指す言葉を変えることで、お心を癒そうとされている…という、なんとも見当違いな着地をしたようなのだ。
「それでは、お言葉に甘えさせていただきます…」
「ええ、そうして」
エクレイアが示した、彼女の前の椅子に腰掛けて、フィアナは二つ目のカップを用意した。いつもこのティーセットには、三つのカップが用意してある。いつでもどこでも、途中参加の当主と当主夫人が、不定期開催の愛娘のお茶会に参加できるようにである。
紅茶の香りが一層強くなり、さわさわと遠くの木々を揺らす風が心地よい。
全ての事態はそうやって、まるで静かな風のように、エクレイアが紅茶を飲んでいた頃に巻き起こり、そしてエクレイアの望む結果をもたらしたのだ。
その報せはすぐに届くことになる。
ルルイユ王国第二王子・ジルベールと、その婚約者であるエクレイアの婚約を破棄する、ひいてはそのための儀を執り行う、と。
…婚約破棄、早くない?