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大晦日の冷たくて暖かな掌の温もり

作者: 彼方

 僕は大晦日ということもあって、一年の締めくくりとしてどんなことをしようかと考え続けていたけれど、結局家で炬燵に入って読書をするということで落ち着いた。ふとコンビニで飲み物とおやつを買おうと家を出たけれど、肌を突き刺す寒気は冷たく、自然と横断歩道を渡る足取りも速くなった。

 夕方を過ぎている所為か、辺りは薄暗く、暗幕を掛けたような青い濃淡が空に散りばめられていて、僕は細い息を吐いてしみじみとその年の残りわずかの時間を噛み締めていた。

 コンビニに入ってコーラと肉まんを三つ買うと、そのまま店を出ようとしたけれど、そこでふと、誰かが正面に立った。お互いの顔を見て、一瞬言葉を失った。思わずまじまじとその顔を覗いて、そして僕は目を疑い、何か掠れた声を出した。

「博樹じゃねえか。久しぶりだな!」

 その五歳上の兄貴――光俊は、僕に近づいてきて、明るく肩を叩いてきた。その無骨な掌が懐かしくて、僕も思わず頬を緩めながら、「兄貴こそ、久しぶり」とその掌に拳を打ち付けた。

「なんか男らしくなったじゃねえか。前より少し、背も伸びたんじゃないのか?」

「ああ。今、百七十五かな」

「俺より高えな。なんだ、コンビニまで飲み物でも買いに来たのか?」

「そうだよ。もうそろそろ兄貴が家に来るんじゃないかって、父さんや母さんも言ってたけど……元気そうで何よりだよ」

「お、肉まんだな。待ってろ、俺も何か買ってやるよ」

「いいよ、この肉まんを二人で分けようぜ」

 そう言って僕らはコンビニを出て歩き出し、少し家への道を遠回りして、公園沿いの遊歩道を歩き出した。相変わらず吐息は白く、耳が寒さでチリチリと痛かったけれど、それでも兄貴と歩いていると懐かしさのあまりに寒さも気にならなくなってきた。ただこうして昔と変わらず元気でいてくれて、本当に嬉しかった。

「お前、本当に大人っぽくなったな。もうそろそろ受験なのに、余裕があるところも、また大物感があるな」

「いや、大晦日ぐらいはゆっくりと読書をして、自分の時間を作ってのんびりしたいな、と思ってさ」

「俺の時は、大晦日だけじゃなく、毎日のんびりしてたけどな」

「それでも志望大学に合格できるんだから、兄貴はすごいよ」

 そんなことを話しながら、僕らはすっかり枯葉が落ちて細くなってしまった木々の姿を視界に感じて冬の寂しげな風景を眺めた。兄貴はしばらく無言で公園の中を覗いてうなずいていたけれど、ふとこちらに振り向き、大きく息を絞り出した。

「俺もここに帰ってきて、ようやくほっと息を吐けたよ。やっぱりこの街は俺の原点だな」

「そんなに、向こうでつらいことがあったの?」

 僕がそう言うと、兄貴の顔がふっと翳った。それは太陽が流れる雲に掻き消されたような、そんな一瞬の表情の変化だった。しかしすぐに兄貴は苦々しく笑うと、肉まんを口に運んで「そりゃあ、生きてりゃつらいことも楽しいこともあるもんさ」と語った。

「なんか、兄貴も疲れた顔してるな。ちゃんと飯、食ってるのかよ」

「実は今日もこの肉まんが初めての食いもんなんだよ」

「おいおい……仕事が忙しくて、体調壊しても大変だな」

 兄貴は視線を足元のタイルの地面へと向けて、そして自嘲げにふっと笑った。

「俺、博樹には本当のことを言うけどよ……もう向こうでの生活が破綻しそうなんだ。本当に仕事もうまくいかないし、心も体もぐっちゃぐっちゃで、誰も頼れる人いないし、会社での居場所もないし、もうやめようかなって思ってるんだ。別の仕事を探そうかなって」

 情けねえか? と兄貴もその時ばかりは顔を伏せて、沈んだ掻き消えそうな声でつぶやいた。でも、僕は表情を変えようとしなかった。兄貴から視線を外し、まっすぐ道の先にある住宅街の景色を見つめながら、精一杯笑って言った。

「でもよ……兄貴はこの瞬間にまだちゃんと昔のままでいられているじゃねえか。とりあえず、この先仕事をやめるのかどうかは兄貴が決めればいいけれど、この年の終わりまで、兄貴は疲れても、心が擦り切れても、ちゃんと元の場所に戻ってきた。それは兄貴がやっていたことが、間違ったことじゃなかったってことじゃねえか?」

 僕が肉まんから立ち上る湯気の向こうで、くすんでいる兄貴の泣き笑いのような顔を見つめながら言うと、兄貴は少し言葉を失って僕をじっと見返した。しかしすぐに笑い、僕の背中を思い切り拳骨で殴った。

「痛って! 何するんだよ!」

「ませた口利けるようになったじゃねえか! そうだな……お前の言う通り、今年は本当につらくてよく泣いたが、それでも一年を乗り切ったことに感謝すべきだな。よし、俺も安心したよ。こんなに頼もしい弟になってくれて、俺も鼻が高い」

 そう言って兄貴は僕の頭にぽんと手を当て、くしゃくしゃと撫でた。それはいつか――ずいぶん昔のことだけれど、子供の時にしてもらったのと全く同じ掌の暖かさがあった。兄貴の手は無骨で硬いけれど、しかしそこに籠った熱は柔らかで――そして暖かかった。

「よし、岬のところに行くぞ。あいつも元気にしてるのか? 彼氏ができたのかよ?」

「いや、あいつにできる訳ないだろ。あんなに気の強くて、一年中動き回っているスカンクみたいな奴は――」

「誰が、スカンクですって!」

 雄叫びがして、ふと前方を見遣ると、岬が眉を吊り上げてズカズカとこちらに歩み寄って来るのが見えた。彼女は口の端を持ち上げて、歯を剥き出しにし、剣呑な視線を向けてくるけれど、何故か顔の半分は笑っていた。僕らも思わず表情を弛緩させて、妹にされるがまま一回ずつどつかれた。

「スカンクはないでしょう! 私がいつあんなおならをしたって言うのよ!」

「いや、岬のおならは臭いぞ。よくテレビの前で横になっている時、盛大なおならをするじゃないか」

「してないわよ! というより、なんで兄貴と博樹が一緒にいるのよ。こんなところで何してるの。風邪引くわよ」

「偶然コンビニで会ってさ、それで散歩してたんだよ」

 岬はやれやれとばかりに首を振ったけれど、すぐにコンビニ袋を揺らして僕らを促した。

「私、買いそびれていたものがあってコンビニに寄ったんだけど、あんた達の背中が見えてさ。とにかく家に行くわよ、というより、なんで私を呼ばないのよ――」

 僕がその口に肉まんを突っ込むと、妹は目を丸くして慌てたけれど、すぐにそれを頬張り、ようやく大人しくなった。僕らはそんな彼女の様子を見つめながら笑っていたけれど、三人並んで歩き出すと、兄貴がふと囁くようにつぶやいた。

「とりあえず、俺もここにいるんだ。それだけで、本当に有難いことだよな」

 そうだよ、兄貴と僕はつぶやく。僕らはいつだって色んなところを放浪して、でも最後にはいつもの場所に帰ってくるんだ。それは波が打ち寄せては返すように、当たり前の真実なのかもしれなかった。だから、とりあえず大晦日を祝おう。そうすればきっと、また新しい靴を履いて、新しい旅に出掛けられるから。


 了


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