閑話 竜心姫の憂鬱
たいへん長らくお待たせ致しました。
「はあぁ……」
冬がどたどたと大きな足音を立てて近づいてくるような秋の日、ヴェルモン辺境伯ご令嬢ニーナ・マグダレナ・フォン・オーフェン様が窓から外を眺めながら大きな溜息をついた。
使徒様方が突如飛び入りされ、大盛り上がりをみせた宴から十日あまり。ニーナ姫様は、時折遠い目をして物憂げに沈み込むことが多くなった。
あたしはノーマ、ご領主さまのお嬢さま、ニーナ様の身の回りのお世話のお仕事をいただいている。
出身はヴェルモン辺境伯領の東のはじっこ、東の森『シュバルツバルト』のふちにあった、まだ、名前さえ決まっていなかった第187号開拓村だ。
生まれた所は違う土地だけれど、187号開拓村で過ごした時間の方が多いし、187号に入植した両親と一緒に村に来たときより前のことは、小さかったからあんまり覚えていない。
辺境のそのまた辺境の小さな開拓村の村娘が、分不相応にもご領主様のお嬢さまのお世話係をさせていただいている。
お屋敷のメイド頭様に聞いたら、普通はご領主様のご配下のお嬢様方か、街のお大尽様のお嬢さま方の中から選ばれるんだそうだけど、あたしともうひとりのお世話係、同じ村出身で幼馴染のマリアは、ニーナ姫様のそれはそれは強いご希望で決まったんだそうだ。
そうじゃなければ、あたしとマリアは、いまごろ運がよくてどこかの娼館に売られているか、運が悪ければ鉱山奴隷になるかしていたはずだ。
娼館でも、鉱山でもゴブリンの巣穴で弄ばれ、苗床になって死ぬよりは五万倍マシだ。
「はぁ……」
「ニーナ様?」
再び大きく溜息をついた姫様にさまに、あたしは思わず呼びかけていた。
だって、姫様のお姿が、手の平でとけて消えてしまう初雪みたいに儚げだったから。
「ん? どうかしたかノーマ」
ニーナ様は、口の端をかすかに上げてあたしを振り向かえる。
その微笑みは、おととし長患いの胸の病で死んだ隣のお姉さんみたいだ。
ニーナ様のお歳はあたしより三つも下なのに。
みぞおちのあたりがキュウって縮こまってしまうような感じがして、痛くなる。
「あ……いえ、その……ぅ」
さすがに、消えてしまいそうだったから、お呼びしたなんて言えない。
「あ……お、お腹すきませんか? もうすぐお茶のお時間ですよね……。た、たしか、今日は、干し杏のクケートをお出しするって司厨長が言ってましたよ」
「な、なんと! 干し杏のクケートとな!」
ちょっと強引にごまかす。ニーナ様は食べ物のおはなしが恋バナの五万倍くらい大好きみたいだから食い付きがいい。
その証拠に、ほんのさっきまで気鬱に沈んでいたお顔が、春に咲く薄桃色の花みたいに明るくなった。
お年ごろのお姫様としてはどうかと思うけど、あたしも、マリアもそんなニーナ様が大好きだ。
「それは楽しみである! 当家司厨長の干し杏のクケートは市で売ってもすぐに売り切れるであろうほどに美味であるからのぅ。で、あるが……」
眉を少しだけ寄せたニーナ様が、また、窓の外を見上げる。
ニーナ様のお顔が暗く沈んでいるのはきっと、あの人のせいだ。
あの人はちっとも悪くない。むしろ、ニーナ様やあたしたちを始め、何十人もの女の子を助けてくれた命の恩人だ。だけれど……。
「ニーナ様、干し杏お好きですよね。あのときだって……」
ちょっとむりやりだけど、ニーナ様の注意を干し杏に向けようとがんばってみる。
「そう…で、あるの…。ゴブリンの巣穴で、空腹に苛まれていたとき、あそこから出られたら一番にブーツにいっぱいの干し杏を食してやると誓っておったが……」
ニーナ様が頬をほんのりと赤くして微笑む。
「うふふ、言っておられましたね。ここから出られたら飼い葉桶いっぱいの干し杏喰ろうてやるって」
「ブーツで、あるッ! 妾はそんなに食いしん坊ではない!」
「いいえ、私は聞いていたわ! ニーナはたしかに飼い葉桶いっぱいって言ってたわ!」
「ジゼル! マリアも……」「ジゼル様、マリア!」
「何回かノックしたけどお返事ないから勝手に入っちゃったわよ。抗議は受け付けないわ」
「お茶をお持ちいたしました。お茶請けは干し杏のクケートでございます」
あたしたちと一緒に、ゴブリンの巣穴に捕まっていた東の森のエルフの族長のお嬢様ジゼル様が、同じく捕まっていたマリアを連れていらっしゃった。
マリアはお茶とお茶請けの軽いお食事が乗ったワゴンを押している。
「ご、ごめんなさい、ジゼル様、あたしったら、ぜんぜん気がつきませんでした」
「う・そ・よ。ノックなんてしてないわ。ごめんね、ノーマ」
片目を閉じて笑うジゼル様のお顔は、まるで真夏のヒマワリのようだ。
この方のこの華やかな笑顔にあたしたちはどれだけ支えられたことだろう。
あたしとマリアは『穴底の太陽』なんていう二つ名をこっそりと捧げている。
「どーしちゃったの? 気鬱? 『竜心姫』の二つ名は返上したのかしら」
『竜心姫』というのは、ニーナ様以外の『東の森の乙女』37人が全員一致でニーナ様に捧げた二つ名だ。
あの薄暗くて臭くて絶望しかなかったあの穴の中、生き残った女の子たちの中で一番お小さかったのに、みんなを励まし続けていたニーナ様のお姿は、神話に語られる竜のように強い心を持った戦姫のようだった。
だから、あたしたちはニーナ様に竜の心を持ったお姫様という二つ名を捧げたのだった。
あの臭くて暗い穴の中で絶望を握り締めていたあたしたちが正気でいられたのは、ニーナ様の励ましと、ジゼル様の笑顔があったからだ。
「ふんっ! 返上も何も、妾ごときが竜心姫などと、恐れ多いにも程がある。辞退であると言っておるであろうジゼル」
ニーナ様は、あたしたちが捧げた二つ名を名乗るのは恐れ多いと固辞しているから、実は非公認の二つ名だ。
でも、渾名や二つ名って、みんながそう呼び続けているうちにいつのまにか定着しているものだから、きっと『竜心姫』も近々に定着するに違いないとあたしたちは確信している。
「ん? おお、よい香りで、ある。ノーマ、マリアお前たちも座れ一緒に喫食せよ。この場では妾たちは主従ではない戦場で槍を並べた朋輩である」
あたしたとマリアは目で合図し合い、テーブルにお茶の用意を整えて席に着く。
他の人の目がないところでは、あたしたちは共に死線をくぐり抜けた戦友に戻るのがあたしたち『東の森の乙女』の掟だ。
あたしからしたら、ニーナ様とテーブルを囲む方がよっぽど恐れ多いけれど、それはないしょ。
「ふう…、妾は時折思うのだ。こうして皆と茶を楽しんでいるのは、いまわの際の夢ではないのかと……な」
「あー、それわかる。私も朝、起きたときにシーツを握りしてめて、寝ていたのがベッドなんだってこと確かめるもの。私たちを助け出してくれたハジメ殿のところでお世話になっているウッラとファンニも同じことを言ってたわ。毎日が夢みたいだって、ね」
「あははぁ、それ、あたしもです。最近はそうでもなくなってきたけれど、ここに着たばかりの頃は、寝るのが怖くって……。今のこの暮らしが、あの穴でうたた寝してるときの夢じゃないかって……」
「あたしも……、まだ、寝るのが怖くって……」
正直、まだ、眠るのが怖い。今、こうして、領主さまのお城で召使をさせていただいているなんて、まるで夢みたいだから。
夢の中で眠ったら目覚めるって聞いたことがあるし……。
ずいぶんたつのに、ふとした拍子にあの穴の中のことを思い出し、全身が震えだして鳥肌が立つ。
あたしたちは、あのとき死ぬはずだった。
「生きているのが、本当に夢みたいです。……でも、このクケートにお茶、とってもおいしいですニーナ様」
「で、あるの……夢ならばこうまで美味なわけがない」
ゴブリンに弄ばれて死ぬはずだったあたしたちを助けてくれたのが、あのひと……冒険者のハジメさんと、その仲間たちだった。
ハジメさんは、この、グリューヴルム王国の東方辺境最大の街ヴェルモンの冒険者だ。
ニーナ様のお傍で御奉公させていただくようになって、先輩使用人のかたがたから聞いた話では、ハジメさんという方はずいぶんと胡散臭い方みたいだ。
元は、ヴェルモンでも指折りの交易商ゼーゼマン商会の荷役奴隷だったっていう。
南方航路の発見の影響で交易品が大暴落してゼーゼマン商会が倒産したときに、開放されて自由民になったんだそうだ。
転売されずに解放されたってことは、それだけゼーゼマンさんのお役に立っていたってことなんだろうけれど、そもそも奴隷落ちするってだけで、胡散臭さ五万倍だ。
それに、奴隷身分から解放されてからやったことっていったら、ゼーゼマンさんがこしらえた借金の返済のために奴隷落ちしたゼーゼマン商会のお嬢様方を、何万枚も金貨を積んで買い戻したとか、ヴェルモンでも一二を争う料理屋さんのお料理を道に撒いて犬のエサにしたとか、非常識なことをするという評判の人だ。
その非常識の最たるところは、冒険者登録した翌日に、ゴブリンの大きな巣を壊滅させたこと。
しかも、囚われていた女の子を助け出すなんていう離れ業をしてのけてだ。
そして、その翌日には、もっと大きなゴブリンの巣穴から女の子を全員助け出して、めっちゃ強いゴブリンを倒すなんてことをやってのけてる。
メイド頭様がおっしゃるには、今回みたいな大きなゴブリン討伐は、何千人もの王国の軍隊で攻めて、攫われた女の子の大半を死なせてしまうようなことなのだそうだ。
それを、たった10人くらいの人数で、生きていた女の子たちを全員無事に助け出し、とても強いゴブリンたちを全滅させたハジメさんたちは、非常識以上に非常識なんだそうだ。
「あの穴から助け出されたときに、ハジメ殿に供され食べた肉をパンに挟んだもの……『ろおすとびいふさんど』だったか……。あれは、まこと、美味であったのう」
ニーナ様が、カップの中のお茶に写ったご自分を見つめながらしみじみとつぶやいた。
とたんに、あたしの口の中に、あの『ろおすとびいふさんど』の味がよみがえる。
「はわぁ……」
「はふうぅ……」
「あうう」
「じゅる……」
この場にいるみんなが、この世のどこかではないところをうっとりと見つめ、あの味を思い出している。
口の中に涎がふきだしてほっぺたが痛くなる。口の端から溢れ出してしまったのをこっそりとエプロンで拭う。
『ろおすとびいふさんど』……たしか、ハジメさんはあのお料理をそう言っていた。あたしとマリアが住んでいた開拓村なんかじゃ、あんなお料理、年に一度の収穫祭の時だって絶対に食べられない。
ニーナさまでさえ何ヶ月にか一回しか食べないような真っ白でふわふわの四角いパンに葉物野菜と半生に焼いて甘辛いタレをつけ、辛味根を細かく刻んだのをちょっとのせた牛の肉をはさんだお料理……。
ああ、涎がとまらない。
今すぐ食べたい。
「そ、そうだ、明日のお茶には『ろおすとびいふさんど』を作っていただきませんか? 先日司厨長がハジメ様から作り方を御教授いただいたそうですから。ニーナ様がお命じになれば食べられますよ」
「ふむ、と、なると今日の夕餉は『ろおすとびいふ』と、なるが必然であるの……」
ニーナ様の目尻が下がる。
「い、いや、それは公私混同というものである。食事の献立に自侭を通すなど、オーフェン家のものがそんなことをしてしまったら、領民に示しが……。で、あるが、『ろおすとびいふ』か……妾は、刻んだ辛味根をたっぷりとのっけるのが好みである」
「私は肉汁とワインで作ったとろみがあるタレをかけたいわ。辛味根はちょっとが好み」
ジゼル様もうっとりと宙に視線を泳がせている。
あたしたちも、『ろおすとびいふ』と、『ろおすとびいふさんど』に想いをはせうっとりとする。
「ふうむ……『ろおすとびいふ』もよいのだがのう……」
ふと、ニーナ様が溜息まじりにつぶやく。
ん? 『ろおすとびいふ』以外に食べたいものがある? あたし、ニーナ様の食べたいものを見誤った?
「実は、妾は『らあめん』とやらを食してみたいのである」
「らあめんって、あの宴のときにマンフリート様が、ハジメ殿におねだりして作ってもらってたあの麺料理? あの麺料理、ウッラとファンニがハジメ殿に作ってもらって食べたことがあるって言ってたわ」
「先日の宴でお爺様が食しておられるのを見てからこちら、『ろおすとびいふさんど』よりも、『らあめん』の方に想いを致しておる事のほうが多くなってきたのである。いや、むろん、『ろおすとびいふ』をないがしろにするつもりはないのであるが、あの、らあめんにも逆らいがたい魅力を感じておるのも事実なのだ」
「あたしも、ハジメ様のところでお世話になっている獣人の子から『らあめん』や『はんばぁぐ』『てんぷら』に『かるぼなあら』とかのお話聞いてますよ。どれもこれも地揺れが起きるくらいおいしいんだそうです」
「あと、宴のときにも食べた『あいすくりん』の他にも、『プリン』とかいう冷やし菓子とか『クレープ』という紙のように薄いパンにフワフワした白くて甘い乳の香りがするものを包んだものがおいしいということです」
こないだジゼル様のところに定期連絡に来たウッラちゃんとファンニちゃんのお供でついて来てた狼人のダリルちゃんにハジメさんが作るお料理のことを聞いて、ニーナ様にお教えしないといけないと思っていたことを思い出した。
「なんと、『らあめん』や『ろおすとびいふ』の他のもさまざまな美味なる料理があるというのか!」
「『プリン』? 『クレープ』? なにそれ、名前だけですでにおいしそうだわね。 ふうん、なるほどそういうことぉ……。毎日のようにおいしいものをお腹いっぱいいに食べてたらああなるわね。変だと思ってたのよ。あの子たちったら、里にいるときよりもふくよかになってるんだもの」
『らあめん』というのは、ハジメさんが育った遠い遠い故郷のお料理だそうだ。
他のお料理もきっとそうなんだろう。
あたしたちみたいにゴブリンの巣穴に捕まっていた女の子たちのうち、助け出されても行き場がない子たちが身を寄せている冒険者ハジメさんのところのお屋敷では『らあめん』を始めとする見たこともない御馳走が毎日食べられるんだそうだ。
狼人のダリルちゃんがずいぶんグラマーになってたわけがわかった。
太れるってことは、おいしいものをお腹いっぱいに食べているってことだ。
ご領主様のお屋敷でお勤めしているあたしたちよりも、太っているなんて、ちょっとうらやましい。
「たしか、『らあめん』も司厨長が作り方を教授いただいていたはずですよ」
「うむ、お爺様のお話では試作を重ねているものの、ハジメ殿が作られたものには遠く及ばず、未だ、テーブルに並べる出来ではないのだそうである」
「そうなってくると、一日も早いハジメ殿の帰還が望まれるわねぇ」
ニーナ様とジゼル様が腕を組んで顔をしかめる。
あたしたちもつられて眉を寄せてしまう。
「おぉ、そういえば、ジゼル、件のウッラとファンニであるが、ハジメ殿らと一緒に王都に行ってしまったようだが? よいのか? なんでも、ハジメ殿のところに身を寄せている他の娘らと王都の中級神職学校に編入するとか」
「そうなの、まあ、本人たちが嫌がってないようだからいいと思うわ。ついでに、王都の部族駐在員に手紙をことづけることもできたし」
「で、あるか」
突然思い出したようにニーナ様がジゼル様のお友達の行方を聞いた。それにジゼル様があきれたように笑って答えた。
「まあ、エルフはヒトよりずいぶん長生きだから、いろいろ経験することが推奨されてるんだけどね。それでも、ヒトの都に行って神官修行するなんて、ここ二百年ではなかったことね」
「で、あるか、はよう里に連絡がついて迎えが来るとよいのジゼル」
「ふむ……む。いやあ、私的には何年かかってもいいと思ってるんだけどねぇ」
「ほう、で、あるか。して、その仔細は?」
「食べものよぅ! た・べ・も・の! だんぜんこっちの方がおいしいもの。こっちの食べ物に比べたら、エルフの里の食べ物なんて料理になってないわ。煮たり焼いたりして、塩だけで味付けしたみたいなほんっと味気ないのばっかり。それに」
「「「それに?」」」
「ハジメ殿のお料理を一度知ってしまったら、もう、二度と知る前の初心な子には戻れないわ。ハジメ殿のお料理がなくては生存の危機すら覚えるくらいね」
「たしかにである。ハジメ殿の料理を知る前と知った後では、目に映る光景が違って見えるくらいである」
「ああ、そうですねえ」
そうだ、そのとおりだ。あたしも、ハジメさんのお料理を食べる前のなんでも文句を言わずに食べていた自分はもう帰れない。
食べ物においしいものとおいしくないものがあるってあたしたちは知ってしまった。
おいしくないものが分かってしまうって、ものすごく不幸なことだ。
「「「「早く帰ってこないかなぁ」」」」
この日、グリューヴルム王国辺境最大の街、オーフェン辺境伯領領都ヴェルモンに初雪が舞った。
この雪はすぐにとけてしまうだろうけれど、この次の雪は春までとけないかもしれない。
この地が完全に雪に閉ざされる前に、ハジメさんたちには帰ってきてほしい。
そして、冷えた体を温めるお料理をニーナ様に作ってあげてほしい。できたらあたしたちも御相伴にあずからせていただけるとめっちゃうれしい。
「はあ……」
ニーナ様がまた溜息をついた。
ハジメさんのお料理を食べるまで、『竜心姫』ニーナ・マグダレナ・フォン・オーフェン様の憂鬱は晴れないに違いない。
17/09/24 閑話 竜心姫の憂鬱 の公開を開始しました。
たいへん長らくお待たせいたしました。ごアクセス誠にありがとうございます。
これまでのおさらいをかねまして、閑話をはさませていただきました。
次回更新から、食いしん坊たちの新たなる冒険を書かせていただこうと思っております。
さて、主人公ハジメ君は次は何王を目指すのでしょうか?
乞うご期待でございます。




