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白い妖精

 奉仕活動が終わると、もう夏休みも終盤に差し掛かる。

 他の宿題はとっくの昔に終わっている。

 休み明けテストに向けての復習も万全だ。

 だけど、机の上の原稿用紙は白紙のまま。

 心を凍らせるような、もう二度と開きたくない物語。

 これから他の本を読む気にはなれない。

 絶対に優秀賞が取れるという自信が次第に揺らいでいく。

 この本で、どうやって最優秀賞をとったんだろう。

 最初に読んだ時の衝動より、そんなことに想いを馳せてしまう。

 時々、胸を締め付けるような感覚がチラチラと見え隠れする。

 やることは決まってる。

 この原稿用紙を埋め尽くしてしまえば終わりだ。

 最初の一文が書ければ、その先を書き進めるのは簡単だ。焦ることなんてない。

 そう分かっていても、心を覆う影はぬぐいきれない。

 その時、涼やかな風が、由里那の髪を揺らした。

 窓の方を見ると、網戸が開いていた。

 由里那が、網戸を閉めようとした時、白い何かが部屋の中に飛び込んできた。

 それは、由里那が開くことをためらっている本の表紙の上にとまった。

 美しい純白の羽に逆さにLの字が浮かぶ。黄色い小さな櫛の様な触角が2本三角に閉じた羽の頂点から伸びている。エルモンドクガは、その名に関わらず毒を持たない、美しく優雅な姿の蛾だ。その様子は、純白のドレスを羽織った小さな妖精のよう。

 世の罪悪がすべて詰まったような本を、その白い姿で浄化しようとでもしているのか。

 白い羽に触れれば、心を覆う影を払拭できるかも。

 祈りのような気持ちで、由里那は手をエルモンドクガに向かって伸ばした。

 その瞬間、由里那の目の前で白い妖精は何者かの手でたたき潰された。

 小さな命の炎が吹き消された。由里那は、命の炎を吹き消した張本人を見た。

 机の横に、高校生くらいの少女が立っていた。

「だめじゃない。キモい虫はすぐ潰さなくちゃ」

 少女はそう言って、蛾を潰した手のひらをぺロリと舐めた。

「ああ、残念。この蛾に毒入ってないわ。舌がしびれないもん」

 由里那は、立ち上がって少女から遠ざかった。

「あなた、誰?」

「誰だと思う?あなたが思い悩んでいるその元凶よ」

 由里那は、本の方を見た。

 まさか、本の中の主人公が目の前にいるっていうの?

「そんなはずない?そのとおりよ。あたしはその本の主人公なんかじゃない。あたしは鏡。あなたの心を映し出す鏡」

「あたしの鏡?あなたがわたし自身だっていうの?」

「そうよ。分かるでしょ?」

「あたしは、あなたみたいに、簡単に命を奪ったりしないわ」

「そうかしら?あたしにはそう思えない」

「鏡は覗く者を左右正反対に映し出すものよ。もし、あなたがあたしの鏡なら、あなたはあたしとついになるもののはず」

「目に見えているのは反対でも、映っているのはあなた自身であることに変わりない。あたしは、ただ、命をもてあそぶのが好きなだけ。刺激的なものが好きなだけ。ほら、あなたと同じじゃない」

「あたしは、命をもてあそんでなんかいない。刺激的なものなんて求めていないわ」

 少女は、けたけたといやらしい笑い声をあげた。

「嘘ばっかり!あなた、気付いてないの?自分のわがままのために、どれだけ周りの人たちをもてあそんできたと思っているの?いつも一番、何ごともトップでいるなんて素敵!こんなに刺激的なことないわ!あなたはそれを求めてなかったっていうの?あなた、周りの人間のことなんか何も考えてなかったじゃない。それなのに、あたしと違うって?あたしは、スパッと命を奪うけど、あなたは生殺し。その苦しみや悲しみは生きている限りずっと続くのよ?どっちがより残酷なことか、よく考えることね」

 言いながら、少女は由里那の方に近づいてくる。

 少女の瞳に映る自分が見える。

 怯えたような自分の表情。

 それはそのまま少女の表情に重なった。

 少女は、支えてくれる人を求めている。

 支えてくれる人がいないことに対する不安、怯えが、少女を、猥雑で無秩序な混沌の世界へと導いていったのだ。

「あなたも気付いていないようね」

 由里那は言った。

 少女が、とぼけたように首をかしげる。

「何を?」

「命をもてあそぶのはあなたの本心じゃないということ。それを気付かせてくれる人は、あなたが最も嫌い、憎んでいる人だっていうことを」

 少女の燃えるような瞳が最後の抵抗の炎をあげたような気がした。

「そこまでだ」

 いつかの男が、少女の肩を掴んで由里那から引き離した。

 男は、黒いコートを片側だけ広げ、そこに隠そうとでもすように少女を招き入れた。黒いコートに少女の姿が覆われる。すると、少女はコートに吸い込まれたように、姿を消した。男のコートは元通りに戻った。

「俺に出来るのはここまでだ。お前は強い。だが、その強さを一人だけで維持することなんてできない。それが人間という生き物だからだ。そのことに気づかないまま一生を終える人もいる。だけど、お前にはそんな人間になって欲しくないんだ。その豊かな草原は、お前一人で独占しちゃだめだ。全身を覆っている鎧を捨てろ。風の涼しさを感じるんだ。太陽の暖かさを感じるんだ。人肌のぬくもりを感じるんだ。そうすれば、ずっと忘れていたものを思い出すことができるだろう」

 男は、由里那の方を向きながらゆっくりと後ろに下がりながら消えて行った。

 そこで、由里那はハッと目を覚ました。

 夢・・・。

 その時、涼やかな風と共に、白い何かが入ってきた。

 由里那が手を伸ばすと、その指先に白い何かが止まった。

 エルモンドクガだった。

「もうこんなところに入って来ちゃだめよ」

 由里那はゆっくりと窓際まで行き、窓の外に手を出すと指先を振った。

 エルモンドクガは、その白い羽を羽ばたかせながら、夕闇の中に消えて行った。

 由里那は網戸を閉め、白紙の原稿用紙に向かうとペンを執った。


 新学期が始まった。

 由里那は、夏休みの宿題と一緒に完成した読書感想文を提出した。

 そして、職員室に向かった。

 バスケ部の顧問の先生はそこにいた。

「先生、お願いがあるんですけど」

「もしかして、これのことか?」

 先生は、引き出しから、由里那の退部届を出した。

「それ・・・」

「お前、アキレス腱切って学校に復帰した初日にバスケ部の練習見に来てたよな。あの時、みんな練習に必死で、誰もお前の方を見てなかっただろ」

 先生は、由里那の反応を見た。

 由里那はその時のことを思い出して、口をぎゅっと結んだ。

「あれな、お前に対するみんなの猛アピールだったんだぜ。お前がアキレス腱切って試合に出られなくなったあと、みんなで誓ったんだ。お前が復帰するまで勝ち続ける。氷川の抜けた穴を埋めるために、今まで以上に練習するってな」

 由里那は先生の顔を見た。

「お前が、退部届を持ってきた時、俺はどっちだか分からなかった。本当にバスケが嫌になったのか、それともあのときにみんなから必要にされなくなったって勘違いしたのか。だから、俺は他のみんなに、退部届のことは言わなかったんだ」

「えっ?」

 由里那は、チームメイトが全員退部のことを知っているとばかり思っていた。

「今となっては、そのことが逆に悪かったと俺は反省しているんだ。退部のことを知らされないまま、お前は練習を見に来なくなった。みんなは、最後にお前が練習見に来た日、氷川に、自分たちが無視したと勘違いされたと思ったんだ。でも、そんなことで、バスケを諦めるはずない。また必ずお前は練習を見に来てくれる。みんなそう信じた。でも、お前は来なかった。お互いの誤解を解消できないまま、姫宮は今のチームをまとめるのに必死になった。もし、氷川がバスケを諦めて、自分たちから離れて行ったのなら、それを引き戻す権限は自分たちにはない。氷川の抜けたチームでこれから戦って行かなくちゃならないなら、氷川抜きで結束する必要がある。部活以外でも、姫宮は随分みんなをまとめようと頑張ってたみたいだぞ。俺はよく知らないけどな」

 奉仕活動の時、麻子が言っていた意味がようやく分かった。

 花火大会のことも分かった。

 あたし何してたんだろう。

 勘違いの原因は自分だ。

 自分に自信があったから、ちょっとしたことでも許せなかったんだ。自分に甘えていたんだ。何もかも人のせいにして。

「先生、あたし・・・」

「じゃ、これは、いいな」

 顧問の先生はそう言うと、退部届をびりびりと破いた。

 荒れ果ててガサガサになった由里那の心を冷たい手で逆なでした顧問の先生は、由里那のことをずっと思ってくれていた。

「まだ、間に合うぞ。今日の練習は3時までだ」

 由里那は、まだ走れない足で、できる限り早く体育館に向かった。

 体育館に由里那が入ると、ドリブルをしていた何人かが由里那に気付いた。皆の動きが止まる。

 今度は勘違いさせるわけにはいかない。

 誰からとなく、由里那の周りにチームメイトが集まった。

 由里那は、口を開いた。

「・・・みんな、なかなか練習見に来られなくてごめんね。まだ一緒に練習することはできないけど、これからは、毎日練習見に来る。みんなを応援する。だから・・・またあたしを仲間に入れてくれる?」

「当たり前じゃないですか!先輩はいつだってあたしたちの仲間です!」

 1年の一番元気な子が大声で言う。

「やっと帰ってきてくれた。遅いぞ、由里那」

 そう言ったのは、他ならぬ麻子だった。

 麻子の表情は明るかった。

「遅くなってごめん、麻子・・・・いや、キャプテン」

「うう、急に由里那にキャプテンなんて言われると気持ち悪。まだ、試合は残っているから、それは先の話。それより、早くその足治して選手で復帰してよ」

 麻子は、にっこり笑った。他のチームメイトも笑顔になった。

「ありがとう、麻子。それにみんな、本当にありがとう」

 そう言った途端に、由里那の目から涙がこぼれ落ちた。

 何年分もたまっていたかのように、涙はとめどなく流れたが、由里那はそれを隠そうとはしなかった。


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