黒いコートの男
夏休み中、地元の花火大会があった。
毎年、バスケのチームメイトで花火を見に行くのが、由里那の大切な夏のイベントだった。
クラブ活動だけではない親友達。
由里那はそう信じていた。
だが、今年は誰からも誘われなかった。
ラインをしても、反応は鈍かった。
仕方なく由里那は一人で、花火を見に行った。
いつもチームメイトがとっていてくれた場所。
惹かれるように由里那がその場所の方に歩いて行くと、そこには麻子を中心に、いつものチームメイトや後輩たちがいた。
どうして?
ラインでは花火大会の集まりのことなんて何も言っていなかったのに。
考えられることは一つ。別のグループのラインを作ったのだ。由里那だけを入れないようにするために。
親友だと信じていたチームメイトたちは、バスケから由里那が離れるとわかった途端、由里那を排除したのだ。
頭上で花火の大輪が開いたが、その美しさは由里那の目には映っていなかった。
本を読み終わって、3日が経った。
その日も、原稿用紙とにらめっこをしていた。
なんで、何も浮かんでこないの?
この本なら、絶対に最優秀賞を狙える。
それは分かっているのに、最初の一文字目がどうしても浮かばない。
自信にあふれていた少女の姿はそこにはなかった。
もう二度と開かない。
そう誓った本は、原稿用紙のすぐ隣にあった。
もう一度読めば、あの感情は戻ってくるんだろうか。
由里那はその賭けに出ようとした。
あの不快な思いは二度としたくなかったが、それしか現状を打開する方法はなかった。
由里那が表紙に指をかけたその時、
「何度読んだって、初めての感情の高ぶりは二度と戻ってこないぜ」
突然、由里那の背後から声がした。
由里那は驚いて振り向いた。
そこには、黒いコートを羽織った二十歳くらいの若い男が立っていた。
「あなた誰?どこから入ってきたの?」
由里那は椅子から飛び上がり、壁に背を付けた。
「どこから?俺は初めからここにいたよ」
由里那は、男から視線を外さないようにして、机の上に置いたままのスマホをパッと手に取った。
「嘘!警察呼ぶわよ」
「まあ、そういきり立つなよ。俺を怖がったって損するだけだぜ」
男は、白紙の原稿用紙を見た。
「今のお前の心の中だな」
男が原稿用紙を見ながら言う。
「何、知ったようなこと言ってるの?馬鹿じゃないの?」
男が目をつぶる。
「見えるぞ。豊かな草原が」
「草原?」
この男は、きっと精神病だ。
ちょっとしたきっかけで大暴れするかもしれない。
思考はそう警鐘を鳴らすが、目の前に佇む男の姿を見ても不思議と恐怖感が湧いてこない。
むしろ、安堵感さえ覚える。
「こんなに広い草原見たことないぞ。素晴らしい」
男は目を開けた。
「ありがとう。久しぶりにいい気分にさせてもらった。俺は今まで随分と荒んだ風景を見させられたが、まさかこんなに心豊かな子がこの本を手に取るとは思いもよらなかったよ」
「・・・誰のこと言ってるの?」
「お前は俺の手なんか借りなくてもそれに気付く。もし気付けない時は、俺が少しだけ手を貸してやるよ」
男は、そう言うと、部屋を出て行った。
由里那は男の言葉の意味を考えて壁を背にしたままぼうっと立っていたが、ハッと気付いたように男のあとを追った。
部屋のドアを開けたが、そこに男の姿はない。
階段を2階から見下ろす。
いない。
由里那が階段を駆け降りると、そこに母親がいた。
「ママ、2階から誰か降りてこなかった?」
「今あなたが降りてきた」
「違う違う、あたしの前に!」
「それじゃ、誰も降りてなんてきてないわ。どうかしたの?」
母親に聞き返されて、由里那は口ごもった。
何て説明すればいいの?
「・・・ううん、なんでもない。気にしないで」
結局、由里那は母親にそう返した。
雨になればいいと思った。
夏休み中に一度だけある奉仕活動。
グランドの草取りだ。
そんなの、グランド使うクラブだけでやればいいじゃない。
そう思ったが、全校生徒参加で2カ月に一度行う行事は、夏休みだろうと関係なく8月中旬に実施された。
装具さえ使えば、歩行にはほとんど支障ない状態にまで由里那の足は回復していた。奉仕活動は生徒一人一人の出欠をとる。休めば行事不参加扱い。内申書でマイナスされる。前期試験合格のためには、こうした小さなことをおろそかにするわけにはいかなかった。
由里那の願い叶わず、奉仕活動の朝は快晴。
由里那は、3週間ぶりに学校に登校した。
去年はバスケの練習で、夏休みなんて関係なく毎日登校していたのに、今年は、退部届を提出してから、一度もバスケの練習を見に行っていない。だから、久しぶりの学校だった。
いつも、奉仕活動の朝は、バスケ部のチームメイトたちと合流した。チームメイトたちは、いつもの集合場所で楽しそうに話をしていた。自然とそちらの方に足が向きかけた。
花火大会のことが頭をよぎった。
あの子たちには、もうあたしはいらない存在なんだ。
じっとチームメイトたちの方を見ていると、後輩の一人が由里那の方を見た。慌ててチームメイトたちから目をそらす。
由里那は、自分が急に恥ずかしくなり、チームメイトたちと反対の方に歩き出した。
由里那は、足首を装具で固定されているのでかがむことができない。用務小屋にいくつか置いてある草削りを借りた。取っ手の長い草削りなら、立ったまま雑草を刈ることができる。これで、みんなと同じように作業ができる。チームメイト以外の輪に入れてもらえばいい。
だが、いざ始めてみると、皆友達同士かがんで話をしながら楽しそうに作業をしていた。立ったまま作業をしている由里那は、かがんで話している輪に入ることができない。
疎外感が由里那を取り巻いた。
「足、大変でしょ。変わろうか?」
そう声をかけられ、由里那は振り返った。
円来佳澄。
幼いころからの幼馴染だ。
バスケットを始めた小学4年までは、いつも一緒にいた。
何でもできる由里那に対して、佳澄は何でも中の下。
駆けっこでも、テストでも、由里那とは比べ物にならなかった。でも、由里那が一番をとると誰よりも喜んでくれた。いつも、由里那を応援していた。由里那は、一番をとると、すぐに佳澄のところに駆けて行った。すると佳澄は、いつも由里那をぎゅっと抱きしめてくれた。それが、由里那にとっては一番の御褒美だった。
由里那がバスケを始めた時、もともとスポーツが苦手だった佳澄は吹奏楽部に入った。佳澄の応援はなくなった。でも、由里那にはチームメイトがいた。チームで勝つ事の喜びを覚えた由里那には、個人的な応援団はもういらなかった。佳澄の存在が由里那の中から薄れるにつれ、勝利への渇望が強くなっていった。
中学に上がった時、佳澄はバスケ部に2カ月だけ入部した。由里那は、なぜ佳澄が突然バスケ部に入ったのか理解できなかった。もともと女子バスケの強豪校だったので、クラブに入る子は小学校からの経験者ばかり。そんな中で、佳澄が活躍できるはずもなく、見る見るうちに練習から置き去りにされていった。由里那も入部したばかりで、他の一年生より目立つことに必死で、佳澄のことを見ている暇はなかった。
そして、佳澄は2カ月でバスケをやめ、結局吹奏楽部に入った。
それから佳澄と話した記憶はほとんどない。
その佳澄から急に話しかけられ、由里那は動揺した。
「大丈夫だよ」
強がりだった。
「バスケやめるって本当?」
なんでそんなことを無遠慮に聞くんだろう。
由里那は急に腹が立った。
次期キャプテンの座を奪われ、成績もトップから引きずり降ろされ、親友達からも排除された自分を憐れんでいる。
いつも、佳澄よりずっと先を走り続けてきた自分が追いつかれた気がした。
「なんでそんなこと聞くの?」
「だって、ずっと続けてきたのにやめるなんてもったいないんだもん。その足のけがが原因なんでしょ?足のけがなんていつか治るよ。また、コートの中を走り回れるようになるよ」
その一言が、由里那の琴線に触れた。
「人ごとだと思って勝手なこと言うのはやめて!」
由里那は、そう言いすてて、その場から去った。
佳澄は、そのあとを追おうとはしなかった。
苦痛しかない奉仕活動が終わり、由里那が帰ろうとすると、正門のところにバスケチームがたむろしていた。
それを見た由里那は、正門ではなく裏口に向かった。
なぜ、あんなところでたむろしているの?早く帰ればいいのに。
何か他のことを考えようとしても、憎まれ口しか出てこなかった。
正門と反対側に家のある生徒達が裏門から出て行く。
その生徒たちに混じって、裏門から出た由里那はそこで立ち止まった。
そこに、姫宮麻子が立っていた。
「なんで、練習に来ないの?」
怒ってはいない。
しかし、麻子の言葉には、何かを必死で抑えようとしている響きがあった。
「あたしはもう・・・」
「これ以上みんなが落ち込んでいる姿を見たくないの!」
まるでその先を言わせまいとでもしているように、麻子は叫んだ。
みんなが落ち込んでいる姿?
何の話?
「由里那がいなくなってから、まるで火が消えたみたい。練習はしてる。技術だって落ちていない。試合にだって勝っている。でも前と違うの。あたしが、どんなに言ってもダメ。あの子たちはあたしじゃだめなの。由里那に話しかけられることが、由里那に褒められることが、あの子たちの原動力だったの」
「・・・何の話をしているの?」
麻子の表情が変わった。
「由里那はあの子たちと話をしていて何も感じなかった?あんなに近くにいたのに何も感じないなんて、あなた全身に見えない鎧でも纏っているんじゃないの!」
麻子はそう言い捨てて、由里那に背を向けて去って行った。