白紙の原稿用紙
その夏は、妙に蒸し暑かった。
日中は青空が広がり、強い日差しが肌を焼いたが、夕方から夜にかけて、スコールのような土砂降りが続き、からっとした暑さとは言い難かった。
どっちつかずのそういう天気も、氷川由里那の気持ちを憂欝にさせていたのかもしれない。
由里那は、机の上の原稿用紙を見つめたまま、何も書き出せずにいた。
もうすぐ中2の夏休みが終わる。読書感想文の提出期限は始業式の日。400字詰め原稿用紙5枚以内。
本は読んだ。
おそらくは、皆同じ本を読んで提出される課題図書より、自由図書の方が賞をとれる可能性が高い。
そう、由里那にとって読書感想文は単なる夏休みの宿題ではなかった。何としても全国コンクールで最優秀賞をとる必要があった。
今まで、読書感想文で賞をとったことなんかない。でも、由里那には自信があった。
この本なら、優秀賞を狙える。
本を読んでいる最中から、由里那はそう確信していた。
だが、いざ、原稿用紙に向かってみると、最初の一文字目が浮かばない。
自信は焦りに変わり、焦りは由里那の頭の中を空っぽにした。
由里那の通う中学は、女子バスケットの強豪校だった。
小学校4年からクラブ活動で始めたバスケットは、由里那の生活の一部となった。
由里那は、小学校の時から一目置かれた存在だった。
バスケットの技術もそうだったが、その可愛さでも地域では名が知られていた。小学校の修学旅行で、自由行動の時にスカウトマンに声を掛けられたのは有名な話。
それに、勉強も良くできた。中学1年の時から、テスト順位は常に1番。中学2年の最初の中間テストまでは、トップの座を譲り渡すことはなかった。
委員会でのハキハキした発言力で、男子達から頼られることも多く、よく男子が由里那のところの相談しに来ていた。
男子バスケットの次期キャプテンと言われてる高木友盾もその一人。
「女バスの次期キャプテン、どうせお前なんだろ?今年の女バスは姫宮と氷川のダブルHで、県大会余裕で優勝だな」
「何そのダブルHって?」
「『ヒめみや』と『ヒかわ』だろ?苗字の始まりが両方ともアルファベット、Hじゃん」
「ダブルHなんて、なんか響きがいやらしいからやめてよね」
「お前、それ、考え過ぎだべ」
姫宮麻子。
地区の小学バスケットチームで、小学校1年の時からバスケ一色だった強者。
技術力も高く、1年の時から試合に出ていた。3年生からの信頼も厚く、技術的な指導は麻子に任されていた。次期キャプテンは麻子に、という声も上がっていた。
由里那の中にそれまで意識していなかった負けん気が突然湧き上がってきた。
自分が、キャプテンになって全国大会出場を目指す。
今まで自分が目指してきたものはすべて実現させてきた。
由里那の自信は、そうしたことに裏付けされていた。
だが、全国大会の地区予選でそれは起こった。
相手チームの女子と衝突し、卒倒してしまったのだ。
気がついた時は、試合は終わっていた。
試合には勝っていたが、由里那の体にはとんでもないものが残っていた。
アキレス腱断絶。
半年間は足を使えない。
試合にも出られない。
当然、キャプテンなんて務められるわけない。
初めてだった。
自分が目指して実現できないものがなかった由里那の初めての挫折。
それまでピンと張ってきた糸が突然切れた。
ベッドから立ち上がろうとしても、立ち上がれなかった。
由里那は学校を休んだ。
最初は、バスケのチームメイトが見舞いに来てくれた。
だが、休みが重なるにつれて、チームメイトの足は遠のいた。
一人だけで過ごす日々。
1週間後に足首を支える装具が完成し、由里那は学校に復帰した。
階段の上り下りでも、トイレでも、今まで何の気遣いもなくしていた一つ一つが、いちいち面倒くさくなった。
由里那は、バスケの練習を見に行った。皆次の試合に向けての練習に精を出していて、由里那のことなど眼中にないようだった。
自分だけ取り残された。
「次期キャプテンは姫宮に決まった。だから、お前は何も心配するな。とにかく一刻も早く足を治すよう治療に専念するんだ」
顧問の一言は、荒れ果ててガサガサになった由里那の心を冷たい手で逆なでしていった。
もう、キャプテンとして全国大会に行く夢は断たれた。
半年間練習ができなければ、バスケの技術も後輩たちに追い抜かれてしまうだろう。そうなれば、半年後に復帰したって、試合に出ることも危うい。
辞めよう。
そう決めるまでそんなに時間はかからなかった。
バスケを失っても、自分にはまだ学年トップの優秀な成績がある。中学に入学した時から決めていた次の目標が由里那にはあった。
超難関と言われる袴田北女子高校、通称袴北の前期試験合格。まだ、由里那の中学からは、一人も前期試験で合格者が出たことがなかった。誰も成し遂げたことのない最初の一人になる。
次に目指すものは決まった。
まずそのために、学年トップの座を保ち続けること。
由里那は、そう自らに課した。
だが、それも一学期の中間試験まで。
期末試験で、由里那は初めてトップの座を開け渡した。
近藤一郎。
女子だらけの吹奏楽部に所属するぽっちゃり男子。
吹奏楽部なのに頭は五分刈り。
パッと見た目は、柔道男子っぽいけど、運動はまるで駄目。成績は優秀。でも、いつも二番手だった。
そんな奴にトップの座を開け渡した。
完璧な牙城ほど、一度崩れ出すとその崩壊までの道のりは短い。由里那はそれを必死で止めようとしていた。
前期試験に合格するためには、校内活動や試験以外での優秀さが求められる。校内活動で大きいのはクラブ活動だが、由里那は顧問に退部届を出してしまった。1年間かけてチームメイトたちと築き上げてきたものは帳消しになった。これからは、一人で、一人だけの力で、牙城をもう一度築き上げるんだ。
試験以外で優秀さを示すものとして、由里那は読書感想文を選んだ。今まで賞なんかとったことなんかなくても、目指したものを実現させてきた由里那は、絶対に賞をとれるという自信があった。
まず、何を読むか。
それは、夏休み前から始まっていた。
インターネットなどで情報を調べ、優秀賞をとった数から、課題図書でなく自由図書で行くと決めていた。だが、ごまんとある本の中から、いざ自分の力で捜し出そうとすると、何を基準に選んだらいいか分からない。お薦め図書はあるけど、推薦理由を見るとどれもいかにも、っていう感じで、薄っぺらな感想しか書けそうにない。
「読書感想文どうする?」
前の席の中西俊也が聞いてきた。
1年にして剣道の県大会優勝を果たした強者だ。だけど、意外と女子には軟弱。
「全然決まってない。でも課題図書はいやだな」
由里那は答えた。
「決まっていないなら、課題図書の方が面倒くさくなくていいじゃん」
「だって、いかにも読書感想文書いて下さい、みたいな本ばかりなんだもん。中西君の友達で、誰か読書感想文の最優秀賞とった人とか知らない?」
「氷川お前、読書感想文の最優秀賞狙ってるの?」
「まさか」
「でも、意外と俺、そういう奴知ってるかも」
「嘘。中西君の友達にそんなすごい人いるの?」
「そりゃ、どういう意味だよ」
「ホントなら、何の本読んで賞取ったか、その人から教えてもらってよ」
「ああ、聞いてきてやるよ」
そんなやり取りをした数日後、由里那は俊也から一冊の本を紹介された。
あまり聞いたことのない題名。
本屋に行っても置いてない。
店員さんに調べてもらったら絶版になっていた。
市立図書館、県立図書館、両方行っても見つからなかった。
この一冊にそんなにこだわってもしょうがないか。
そう思って諦めかけた時、インターネットの通信販売で、その本は見つかった。絶版になっているから、てっきり高くなっているかと思ったら、中古で20円で売っていた。送料の方が売値の10倍した。
ジャンルは何だろう?
サスペンス?
それともホラー?
その内容は、とても読書感想文用の本には思えなかった。
主人公は、女子高生。
いつも遊び歩いている友達は、高校に行っていない。
そのグループのトレードマークはバット。
そのバットで、野良猫、野良犬狩りと称して、小動物を叩き殺す。
自分たちは、小さい命の炎を吹き消す烈風だ。
刺激を求めて、冷たい川に裸で飛び込み、広い国道を飛ばしてくる車の前を全力で横断し、睡眠薬を大量に摂取してまた眼を覚ませるか賭け合う。
生きている感覚を味わうために、少女たちは命がけのゲームに熱中する。
後始末は、いつもお父さんとお母さんだ。
やさしくて、よくできた姉は、心を痛めていた。
ある日、お父さんとお母さんは離婚した。
姉は母に、主人公はお父さんに引き取られた。
そのお父さんが、事故に遭った。
一命は取り留めたものの、左手、左足は動かず、顔は左半分が潰れ、片言の言葉しか話せなくなった。
食事はもちろん、トイレに行くことも、ままならない。
障害施設に入れようとしたが、お父さんは厳としてこれを拒絶。ヘルパーも拒絶し、家の中には、お父さんと主人公2人だけになった。
主人公は、保護観察が付いていて、家から勝手に出ることができない。日中は、お父さんの面倒を看ることとされた。
保護観察の人や、障害者の支援事業所の職員が、毎日日変わりで主人公宅を訪れるため、主人公は、お父さんの食事やトイレの面倒を見ざるを得ない。少しでも、お父さんの身に何かあれば、主人公は矯正施設に入所させられることになっていた。
その矯正施設に入ると発狂する。
少女たちの間では有名な施設だった。それだけは嫌だ。
命に無頓着そうな少女は、自由にできる環境を失った途端、自分大事になった。
生活のすべてが苦痛になった。
片目しか開いていないお父さんの目は怒りで燃えていた。
自分に向けられる憎悪と常に向き合う日々。
お父さんを薬で殺し、遺体をバラバラにしてやりたいが、毎日誰かが主人公の様子を見に来る。誰も来ない時間でそれを遂行するのは不可能。
何もかも八方塞の主人公。
そんな姿になっても、生きたいの?
自分の姿を見てよ!
あんたなんかもうとっくに人間じゃなくっているのに!
主人公は、絶叫する。
命を奪うのは簡単。
命をもてあそぶことは楽しい。
ゲーム感覚でいる間はこんなに刺激的なものはなかった。
だが、命を奪うことを許されず、不完全なものを生かすために命をつなげようとするなら、そこに刺激的なものなど皆無。
完全な人間などいない。
勉強ができなかったり、家庭や仕事がうまくいかなかったり、病気がちだったり、体の一部がなかったり、欠けているものの大小はあれど、人間はみな不完全な存在。
人間の営みは前者ではなく、後者なのだ。
後者を受け入れられなければ、それは人間という存在ではない、何か別の生き物だ。
主人公は、後者を受け入れることができなかった。
人間であることをやめようとしていた。
そして、最も刺激的な最期のゲームをしようとしていた。
自分の命を絶つというゲームを。
主人公は、自分の部屋にガソリンをまいた。
お父さんを殺そうとしたんじゃない。
自分で自分の命を絶つんだ。だから、お父さんの部屋ではなく、自分の部屋。
ガソリンは揮発性。
火元があれば一気に爆発する。主人公の体も木端微塵。だが、マッチを擦ろうとしたその瞬間、突然部屋の扉が開き、力強い手で部屋の外に引き倒された。
そこには片足立ちのお父さんがいた。
使える方の腕で、主人公を部屋から引っぱり出したのだ。
その次の瞬間、ドアに絡まっていたコードが引っ張られ、棚の上にあったテレビが床に落ちた。
液晶画面が割れて火花が飛び散る。
部屋は大爆発を起こした。
その瞬間、お父さんは主人公に覆いかぶさった。
お父さんは、ガソリンの炎で背中をチリチリと焼かれながら、不自由な言葉で娘に囁いた。
俺は、人間でなくなっても、生きたい。
お前が、命をもてあそぶことを諦めるまで。
読み終わった時は、喉がからからだった。
2人だけで部屋で過ごすシーンの恐ろしさは、背筋が寒くなるほど。何度も不快な気持になって読むのを止めようとした。でも、読み進めて行くうちに、様々な想いが由里那の体中を駆け廻った。
こんな本読んだことなかった。
この本で感想文が書ければ、絶対優秀賞を狙える。
読んでいる間から、手ごたえはあった。
たしかに、そこに何かは存在していた。
だが、本を置いて原稿用紙に向かった途端、その何かは雲散霧消した。
あれだけ体中を満たしていた感情の全てが消え失せていた。