Ⅶ
「…お伽噺を信じるなんて、随分とロマンチストなのね、フロル」
フロルの言葉をジェロシアは鼻で笑って切り捨てる。
「レムレス・ファートスの伝説なぞ、後世の人間が脚色した作り話。…そんなこと、ルクス王国のものなら、皆、理解しているわ」
興国の祖、レムレス・ファートスの英雄譚。それは、ルクス王国に生をなしたものならば、必ず寝物語に母から聞かされるお伽噺のようなものだ。
複数の権力者達が争い、民が巻き添えになって喘ぎ苦しんでいた時代、突如天から降るかのように現れたらレムレス・ファートス。
レムレスはその強靭な力を持ってして、瞬く間に争う権力者達を鎮圧し、ルクス王国を興した。
その鋼のような屈強な体は、降り注ぐ槍さえ弾き。
澄んだエメラルドの瞳は、全ての真実を見透かす。
剣一振りで、数千の敵すら打ち倒し。
口を開けば、この世のありとあらゆる叡智が語られる。
英雄レムレス。心清らかな、正義の人。彼は、かの地に、苦しむ民に、安寧をもたらした。
彼を恐れた権力者は、密かに食事に毒を持って彼を暗殺しようと企むも、清らかなレムレスの体は、毒ですらもはね除けた。どんな悪意も、けして彼の人を害することは出来ぬ。
全ての悪しき権力者達を打ち倒し、彼は王になる。
それが、偉大なる王家ファートス家のはじまり。
レムレスの伝説は、幾人もの吟遊詩人に詠われ、幾人もの人物から本に記されており、戯曲にすらなっている。
だが、それを全て真実だと思っている人間なぞ道理が分からぬ幼子くらいであろう。
歴史は改竄される。
英雄の行為は脚色される。
途方もない、遥か昔の人物ならなおのこと。
人々はそれを知りながら、嬉々として伝説を語るのだ。単なるエンターテイメントの一つとして。
そしてそれは、正しい伝説の楽しみ方だ。
だからこそ、ジェロシアはフロルの言葉を信じたりなぞしない。
伝説はあくまで、伝説。
そんなことが、真実であるはずがない。
「――そうだね。語られる伝説は、私も大いに脚色されたものだと思うよ」
ジェロシアの言葉に、フロルは頷いた。
「私の肌は矢を弾いたりしないし、一振りで数千の敵を打ち倒したりなぞ不可能だ。義姉様も知っての通り、私は学問は得意だけど、学んだこと以上の叡智なぞ持たない…英雄と謳われた父は、病で死んだ。ならば、そこまで並外れた屈強な体の作りをしているわけでもなかっただろう――だけど」
真っ直ぐにジェロシアを見つめたフロルの目に、ジェロシアは息を飲んだ。
フロルの目は鮮やかなエメラルド。ジェロシアと同じファートス家のものに共通した瞳の色ではあるが、ルクス王国ではけして珍しくはない色だ。街を出歩けば、半刻もしないうちにエメラルドの瞳の人間に出くわすことができる。
一部の特例を除き、瞳の色というのは虹彩の色を指し、中央の瞳孔は黒に近い暗い色をしているのが普通だ。ジェロシアも鮮やかなエメラルドの瞳をしているが、瞳孔自体は黒い。そしてそれはフロルも同様だ。
同様の、筈だった。
「――だけど、私の目はレムレスの伝説同様に、全ての真実を見通すんだ」
だが、今のフロルの瞳は、瞳孔に至るまで全てが均一なエメラルドの色をしていた。
「私にはどんな嘘も通じない。隠している気持ちも、全てが手に取る様に分かる」
それは、人間ではおおよそありえない目の色。
明らかな、異形の証。
人ならざる者であることの、証明。
「だから、部屋に入った直後に義姉様が企んでいることなんて、全部お見通しだったよ。そんなことも知らずに、必死で私の注意力を散漫にしようと、誘惑してくる義姉様は、酷く愛らしかった。あんまり愛らしくて、いじらしいから、少しくらい義姉様の策に乗ってあげようと思ったのだけど…だけど、惜しかったね」
「…あ…あ…あ…」
「隙をついて首を掻き切ったら、もしかしたら私を殺すことに成功したかもしれないのに…だけど、毒は駄目だよ。毒じゃ私は、殺せない。私は、全ての毒を跳ねのけてしまうから」
フロルはそう言って、握っていたジェロシアの手を口元へと運んだ。
指先一本一本に優しく口づけを落とし――そして毒が仕込まれていた人差し指の爪先を、そっと唇で食んだ。
「――触るな、化け物!!」
そんなフロルの手を、ジェロシアは罵声と共に払った。
体は得体のしれぬ怪物に対峙した恐怖に震え、冷たい汗が全身を伝っているが、それでも怯むことなく、きつくフロルを睨み付ける。怯えを露わにすることは、ジェロシアの矜持が許さなかった。
そんなジェロシアの様子に、ひどく愛らしいものを眺めるかのように、フロルはエメラルドに染まった目を細めて微笑む。
「そうだね。義姉様。私は異形の化け物だよ」
「……」
「だけど、義姉様。…義姉様があれほど欲しがっていた王座は、私のような化け物であるような人物こそが求められるんだよ」
「…え」
(――駄目だ、聞いてはいけない)
ジェロシアの中で、直感的な何かが警告する。
これからフロルが言わんとすることを聞いてはいけない。
聞いたら、きっと、ジェロシアの大切な何かが奪われる。
奪われ、永遠に失われてしまう。
ジェロシアは本能に従って、とっさに耳を塞ごうとした。だが、塞ごうとした手は、フロルによって拘束される。
そしてフロルは、ジェロシアにとってこの上なく残酷な真実を囁いた。
「…言っただろう?異能の力を引き継ぐ子孫が、王として偉業を成してきたって。…異能の力を持つ者はそれだけで、王位継承順位の第一位の立場になるんだよ」