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短編

誘う女

お題: モヒカン、彼岸花


「お侍さまの髪は鶏のようでありんす」


 コロコロと女が笑っていた。


 寂れた海沿いの小屋。周囲の集落から離れたその場所にその女はいた。その女の真向かい、手が届くか届かないか、そんな場所に男が一人胡坐をかいて座っていた。藁で出来たござに座り、ぶすりとした表情を浮かべていた。


「侍ではないし、鶏でもなし」


 不満げに口を尖らせ男は言う。ござの隣に置いた刀、それを見てこの女は自分が侍だと判断したのだろう。なればそれも致し方なし、と男は吐息を洩らす。彼がこの場に来る前、近隣の集落で話を聞いていた時も同様に刀に目を向けながら『お侍さま』と呼んでいた者がいた。この辺りの人々は刀を持っていると侍だと判断するのだな、と改めて吐息を洩らしながら彼はしぶしぶ納得した。


「そうでありんすか」


 男には、女の表情が少し残念そうに見えた。彼がその鶏のような髪型にしているのには訳があった。十と数年前、誰かが神の怒りでもかったかのような豪雨に見舞われ、男は海で漂流した。食料も少なく、水もなく、もはやこの命ここまでかと諦めた頃、男は陸に辿りついた。そこは言葉も通じぬ場所であった。見た事もない肌の色をした者達が住まう土地であった。身振り手振りで何とかその者達に助けてもらい、その後、長い年月男は彼らと一緒にいた。長い年月の内に男は、その者達への敬意を示すために鶏の様な髪にしたのであった。そして2年前、彼らに惜しまれながら、しかして産まれた国に帰りたいと男は再び海を渡り、そして再び船が壊れ、漂流したのであった。そして運良く念願叶って産まれた国に戻って来たのである。神を蔑にするわけでもないが、自分は運が良い、そう思う男であった。


 それから1年、男は自分が産まれた国を見て回りたいと、旅をしているのであった。行き先も特に決まっていない旅である。気の向くままに歩いていればこの近隣の集落に辿りついた。そして、その場で雨風をしのげる場所はないかと聞いた所、外の者を泊めるならば……と案内されたのが海沿いの寂れた小屋であった。風が吹けば飛ばされてしまいそうな程に弱々しく、所々が腐っていた。ただで泊めて貰えるのだ、文句は言うまい、と男は思いながら小屋へ入れば、そこにいたのがその女であった。


「それと……女。花魁詞は止めてくれるとありがたい。そういうつもりでここに参ったわけではない」


「……そうですか。では改めましょう」


 あら、と少し首を傾げた女の姿を見た瞬間、男の身体が熱くなった。情欲を掻きたてる仕草であった。肌蹴た淡い色の襦袢の下から白雪の如き肌が、顎に小さく一粒の黒子、浮かぶ汗が首から鎖骨へと流れ流れて乳房へと。妖艶と呼べば良いのだろうか、と男は思い浮かべる。


 ふぅと再三の吐息を零しながら、男は下卑た表情でここを紹介した男の顔を思い浮かべる。なぜあんな表情だったのか、それを漸く男は理解した。『お侍さま』への歓待のつもりだったのだろうか。そんな低俗な人間だと思われたのは聊か不満である、と男は不満気な表情を浮かべれば、女が心配そうに上目遣いで男をあおぐ。


「わちきに魅力はありませんか?」


「ある。が、そこまで飢えておらんでな。わしはそこらの獣に非ず」


「あら、うれしや」


 くすくすと口元に手をあてて小さく女が笑う。その仕草もまた、男の情欲を惹き立てる。


「どういう意味か?」


「ここには獣しか訪れませんので」


「……やはり、そういう場所かここは」


 何故女がこの場にいるのかという疑問の答えに辿り付き、男は少し満足そう、されど不愉快そうな表情を浮かべる。


「女。お主、咎人か?」


「さて。咎人と問われれば、どこやらの神の教えからすれば、咎はあるとお答えせざるをえません」


 胸元の開いた襦袢を正しながら女は立ち上がり、小屋の隅にある竈へと向かう。じゃらん、じゃらんと音を立てて。


「女、それは?」


「咎人ですので」


 くすり、と女が笑い、ふむ、と男が頷く。


 女の足首には分厚い鉄で出来た枷が嵌められていた。枷には鎖が繋がっており、それが小屋の柱に結び付けられていた。錠前まで使ってこの女が逃げてしまわないようにしているのだろう。これを行ったであろう集落の男達の事を脳裏に浮かべながら男はその柱へと近づいた。


 しゃがみ、じゃら、と鎖を持ち上げる。薄暗い小屋である。見辛くはあったものの、なるほど、引き千切れるようなものではない事は確かであった。長さは丁度狭い小屋を行き来できるような短いものであった。この小屋にいるならば特に問題はないのだろう。ただ、逃れる事はできぬ。男が何度か引っ張り、何度か曲げたりしている間に、女が戻って来た。


「たいしたものではありませんが……」


「なんの。雨風をしのげる場所を提供して頂いた上に飯まで用意されて文句を言うほどわしは不出来ではないつもりだ」


 くすくす。


 艶然と女が笑う。


 すす、と膝で動き、男は女と向かい合う。


 使い古した雰囲気の木製の食器。ひびすら見える。だが、不満はなし、と男は女が作った食事に目を向ける。焼き魚とあわを粥にしたものであった。それと、


「柘榴か」


「はい。柘榴でございます。ちょうど行商の方がお持ちになったとかでわちきにも頂けまして。折角ですので」


 ふむ、と男は頷いた。


「お気に召しませんか?」


 おず、おずと聞いてくる女に、慌てるように男は手を振った。


「いいや、食後の楽しみができたと喜んでおるのだ。これでもな。お主には心より感謝する。貴重な品、ありがたく頂戴する」


 男は恥ずかしげに鳥に似た髪をさすりながら、食器を手に取った。


「あら。柘榴がお好きで?」


 ずる、と音を立てて粥を口にする。薄味であった。鶏のような部族に居た頃は肉ばかりであったため、こういった薄味の料理を口にするとやはり産まれた国は良いと思う男であった。うまい、と男が口にすれば女は両手を合わせて喜んでいた。よかった、と胸を撫でおろしてもいる。その仕草がまた情欲を沸きたてるようなものであり……ふむ、何をしていても男を発情させるとはほんに大変だの、と男は女に同情を浮かべた。


 一度箸を置き、


「うむ。それ程食べたことがあるわけではないが……ふむ。そういえば、こちらに帰って来てからは初めてだの」


 そう口にする。はて、と女が首を傾げる。


「こちらですか?」


「うむ。蓬莱でもなければ天竺でもなし、あれはどの地であったのか。あるいはあれもまたわしが見る夢だったのかもしれんが……」


「お侍さま、海を渡って来られたので?」


 女が、まぁ、と目を見開いて驚く。あらあら、と楽しそうに嬉しそうに。何がそんなに嬉しいのか、と男は苦笑を浮かべる。


「是非、聞かせてください。わちきは外には出られませんので……海の向こうがどうなっているのか、お教え下さい、お侍さま」


 なるほど、このような小屋で過ごしていれば外の話を聞くには伝聞しかないわけか。不憫である、と思いながらも男はこの女を解放しようとは思わなかった。


 咎があるという。なれば軽々に解き放つのもどうであろうか。そも、出会ったばかりでそこまでする必要もなし。一宿一飯の恩として自分があの地で見た物聞いたものを伝えて喜んでもらえればそれでよかろう。そんな風に思い、男は女に語り聞かせる。


 それが初日であった。






―――






 明けて翌日。


 男は女の作る薄味の粥と、まだ余っていたという柘榴を食べた後、女に別れを告げ、次の目的地へと―――京に行くのも良い、な。と思い―――旅立とうとしていた。大して重くも無い荷物を片手に男は畦道を歩いていた。


 その時、慌てるように集落の者が男の後方から走って来たのであった。見たことのある者だった。昨日、女の所を紹介した者に相違なかった。


「いんやー、お侍さま。もうわけねぇんですが、この先は行き止まりですわぁ」


 ぜぇぜぇと荒い息を吐く男。その男の息が収まるのを待ち、聞いた話がそれであった。「何?」


「お山の神様がおこっちまっただ……そんで、道がくずれちまったんでさぁ」


 海岸から少し行けば山。標高差の高い土地であった。この辺りから別の場所へと続くのは山道のみ。あの道か、と男は来た時に通った細い道を思い浮かべる。その道が、山が崩れた事によって閉ざされたのだと言う。今から、皆で行って土砂を避けて道を直すという事であった。


「わしも手伝おう」


「いんやー!お侍さまに手伝ってもらったら罰があたるで。おら達の村に寄って、こげな面倒なことさせられたなんてことになれば、おら達が―――」


 このような土地でも風評を気にするのだな、と思いつつも男は頷いた。一宿一飯……否。二飯も頂いて尚、集落の者達の仇を成すわけにもいかんな、と男は納得する。


「雨風がしのげる場所はあろうか?」


「あんむすめの所つかってくだせぇ」


「ふむ。あそこはお主らの慰安の場ではなかろうか。そのような場所を何日も居座っては申し訳が立たぬ」


「お侍さま、それはいわんといてくださいな」


 から、からと笑う集落の者に男は……ふむ、と頷いた。彼らは風評を気にするということである。『お侍さま』だと思われている自分に粗相があっては問題があると考えているのだろう。全くもって勘違いではあったが、男は諦めと共に納得した。致し方なし、と。


「やるならわしがおらんときに頼むぞ?」


「お侍さまが不快に思われてはならんので、しばらく控えるよう集落の者にいっときますんで安心してくだせぇ」


「ふむ。わしはわしがおらん時ならかまわんが」


「それでもですだ」


「……気遣い、いたみいる」


 から、からと集落の者が笑い、立ち去って行った。これから集落の者達を集めて土砂をどかしにいくのであろう。ご苦労な事である。


 集落の者の姿が見えなくなった後、男はさてどうしたものか、と顎に手をあてる。


 一つの所に留まるのは久しぶりであった。


「飯の一つでも手に入れるとするか」


 海の向こう側で培った技、それをもってボタンの一つでも狩るとしよう。あちらで見たバッファローなるものに比べればボタンは小さいものである。あれに慣れた男にとってはこのまま山間に入っても狩れる程であった。


 そうと決まれば、と男は道を逸れて林の中へと入って行く。


 陽が昇って数刻。陽は強いが林の中ではそれも僅か弱くなるというものだ。鬱蒼としげる木々の合間を抜け、ざり、ざりと態と足音を立てながら男が行く。腰の刀をいつでも抜けるようにしながら男は行く。


 しばらく行くと、男の耳にちちち、と鳥の鳴く声が聞こえた。


「ほぅ」


 音が聞こえた方に目を向ければ丁度、親鳥が子鳥に餌を与えている時であった。子鳥は親鳥が持ってきた餌―――ミミズであろう―――を何度も何度もその小さな口で啄ばむ。一度では飲みこめず、何度も、何度も失敗しながらそれを食べた。しばらくして子鳥がそれを食べ終わると親鳥はその羽を広げて飛び立っていく。


 子鳥の丸焼きというのも良かろうか。と思いながら親鳥のいなくなった鳥の巣へと近づく。そこではた、と気付いて足を止め、別方向へと向かう。


 動物の気配を感じたのだった。


 餌を探しに来たのであろう。そう考えて男はその動物の気配に集中する。音からすれば大した大きさの獣ではない。狸か狐か。樹木の裏に隠れ、それを待つ事暫く。男の視界に、……緑生い茂る木々の隙間、ひょこんと顔を出したのは予想通り狸であった。周囲を警戒しながら男の方へと近づいてくる。いいや、そうではない。男に近づいているのではなく……男が狙っていた鳥の巣へと近づいているのであった。ふむ、と男は頷く。獲物が同じであれば敵である。愛くるしい表情をした狸ではあったが、男にとってその狸はただの敵であった。弱肉強食は世の常、謝る気もなし、と大して時間もかけず男は狸を捕えた。


 狸の血抜きを行いながら、男は手に付いた血、服についた血をどうにかしたいと考えていた。大した服ではない。所謂浴衣に近い簡素な服であった。装飾華美な豪奢な服は男の好みではなかった。そも、海を越えた先では上半身裸だったのである。それを思えば、華美な服など重くてしかたがない、と男は思う。あの頃は良かった、と思いつつ。


 狸を紐で刀の先に括りつけ、その刀を肩にかけて男は水場を探す。


 あの女の下へ戻ればすぐそばに海がある。塩水であるのは聊かあれではあるが、それでも良いかもしれない、と思ったのは一刻も経ってからの事だった。これ以上足を踏み入れては陽の昇っている内には戻れない。そう判断して男が山を折り始めた頃である。


 ちろちろ、と音が男の耳に響いた。


 お?と思いながら音に近づいて行けば次第に音が強くなる。


 滝であった。


 力強く流れる水からは轟音が響く。しかして強いだけではない。飛び散った飛沫は虹を作り、それはそれは幻想的な光景を作り出していた。


「おぉぉ。絶景なり」


 しばし男はその滝に見惚れた。


 ここまで立派なこの国では初めてであった。海を越えた遠い地で我が目を疑う程の巨大な滝を見たことはあったが、それでも尚、男は見惚れた。木々の作る深緑、水の作り出す蒼、七色に輝く虹。……そして、


「これはまた」


 滝壺から少し先。


 そこに一面の彼岸の花。


 周囲の緑に映えるように赤く咲き乱れていた。


「これより先は幽世であるとでもいわんばかりである」


 自然の作り出す美とはかくも素晴らしいものか、と男は思った。江戸の方で著名な絵描きが書いたものも雅ではあったが、それとはまた別であるな、と男はしばしその場に腰を下ろして彼岸花を眺めた。


 放射状に延びた赤く細い花。この世の者とは思えぬその幻想的な姿は幽世から現れていると言われてもおかしいとは言えない。見事、見事と男はその風景を堪能する。


 山道が直った後、京に行って、そこから戻る時にはまたここに寄ろう。


 男はそうと決めて、名残惜しさを感じながらも……いや、この名残惜しさこそもう一度見たいと思わせる原動力である、と自分に言い聞かせその場を立ち去った。








―――






「蒼、赤、虹……わちきもみてみたいでありんす」


「その詞はやめい」


 小屋に戻り、狸を渡せば手慣れた感じで女がそれを解体していく。男共がこぞって何か刺し入れているのであろう。まったく、咎人相手に何を考えているのだ、と思い、自分のやっている事も大して違いはないな、と男は考え改めた。ううむ、と唸りながら。


「あら、そういえばそうでしたね。ごめんなさい」


 くすくすと笑う女の姿に態とやられたのだと気付き、男はむすっとした表情を浮かべた。


「あぁ、すみません。すみません。たまの人でございますゆえに」


 小さく女が肩を竦めた。


「なれば良し」


 何が良しなのだろう、と自分でも思いながら男は女が調理をする姿を眺めていた。


 昨晩とかわらず情欲を引き立てる姿であった。女の体躯には少し小さいのであろう。襦袢を通して身体の線が良く見えた。尻の形もなかなかのものである、と男はそれを見ながら思う自分に、毒されているなと思った。


 わしと自分を称してはいるが、男は未だ若い。別段、枯れているわけでもない。故に、このままここにいれば溺れてしまうかもしれな、と自覚する。この理性は何日持つであろうか。元より女が拒んでいるわけでもなし、男の一存で女はその股を開くであろう。そも、旅途中の一夜の事である。そこまで気にする方がどうであろうか。添え膳を喰わぬは男の恥でもあろう……そんな思考を男は頭を振って追いやる。


 わしは獣ではない、と呟きながら。


「お侍さま?」


「なんでもなし」


 息を吸い、息を吐く。


 何度かしていれば彼の中に冷静な思考が産まれた。


 そんな折である。


「ねぇ、お侍さま……その場所にあちきも連れて行ってくれません?」


 女が身を返した。


 ぞくり、と怖気が走ったかのように男の脳から足先まで雷の如き痺れが走った。左顎にあるほくろ、水に濡れたような黒い髪、世を儚むかのような瞳、そのどれもが男の自分自身を屹立させんと響き渡る。そして想像する。この女があの幽玄な場所ではにかめばそれこそ我が身を抑える事などできないだろう。男はそう感じた。そう感じたからこそ理性が舞い戻って来た。


 あぁ、いかん。


 再度頭を振り、女に目を向けて首を小さく横に振る。


「咎人を連れて回るわけにはいかん」


 じっと見つめれば、女が顔を逸らし、再び竈へと向いた。そして、ぼそり、と、


「あちきに咎があるなら、集落の者は咎に塗れて御座いますね……」


 そう言った。


「……どういう意味であろうか」


「あちきをここに留めておられるのが既に罪であり、咎であろうかと思いますが」


「お主が何をしたのかわしは知らんでな」


「お侍さま。信じて頂けないかと思いますけれど……あちきは何もしておりません。何かを出来る自由など、あちきにはありません。産まれてこの方、あちきは小屋の外に出た事はありませんので……」


「……なんと」


 男は驚きを隠せなかった。


 真実かどうかは分からない。けれど、女が嘘を言っているようにも男には思えなかった。なれば、なればこの女の産まれて来た意味とは、集落の男達の慰み者となり、そして子を孕み、産み出せばまた、その産まれた子すら地獄へ落とす。でたらめだ、と男は言いたかった。だが、言えなかった。再び男の方を向いた女の表情に言葉詰まったのである。


「母もまた、その母もまた。あちき達の身体は男を誘うようにできています。一度捕らえられれば、蜘蛛に囚われられた蝶の如く。逃れられません」


 悲しげに、しかし、艶然と笑った。


「こうして人としてお話できるのは、お侍さまが初めてでございます。あちきは嬉しゅうございます。ほんの僅かな時とはいえ、人として生きられたのですから」


「何の役に立ったとも思えんが」


「いいえ。お侍さまには分からないとは思いますが、あちきは心すらお侍さまに捧げても良いとおもっております」


 竈の火を止め、狸の肉を煮て出来た鍋を手に女が戻って来た。それをござの上に置き、女は……昨日とは違い、男の横に座った。


 膝を横に、肩を寄せ、箸で肉をとっては男の口元へと。零れ落ちても大丈夫なように手の平を添える。


「いらん。自分で食える」


 女の手を己が手で押さえ、どかして箸を手に自分で鍋を突く。


「酷いお侍さま……」


 しなだれる女の体温、匂いに男の意識が飛びそうになる。もはや狸の事など脳裏から失せてしまいそうだった。それでも尚、抗えたのは疑問があったからこそであろう。


「お主の父はわしのような旅の者か?」


 びくり、と跳ねるように女が男から離れた。


「近親で交われば忌子が産まれるのは必定。故に……そう言う事であろう?」


「そのような事ございません。あちきは本当に……」


「否。事実であろう?」


「…………はい」


 顔を逸らし、女がそう言った。


 あるいは、山崩れというのも嘘だったのであろう、と男は思った。


 あと五年或いは十年もすれば女も年を取ろう。今の妖艶さを失う事であろう。なれば、次の女が集落には必要であったのだろう。それが故に、男をこの小屋に寄越したのだ。女と交わり孕ませ、子を産ませ、そしてまた集落の者達は慰み者とする。その繰り返し。不憫である、と男は思った。産まれ出て、何も知らずに子を地獄に落として人知れず死に至る。そんな生に何の意味があろう。海の向こうにも人はいるのだ。それまではそんな事も知らずに過ごしてきた。男はそれまでの自分を視野の狭い小さいな者であると、そう感じていたのだ。なれば、この女は……。


 男は、いつしか憤りを感じていた。こんな狭い、小屋の中だけで生かされる者などあってはならん、と。


「…………」


 無言の時が流れる。


 一つ、一つと狸の肉が男の口に入って行く。


 一つ、二つ、と。


「女。お主も喰わんか。よう食べて体力をつけんと山道はいけんぞ」


 その言葉に、女ははっとして慌てて箸をとり、男のように肉を喰らう。慌てた所為であろう。あつっと肉と箸を落としてしまった。そんな女の姿に、男は心の底から笑みを零す。愛らしい、と。


 そして暫くの後、その小屋から、ざぁ、ざぁと波の打ち寄せる音と小さな何かを切る音がした。






―――






 それから数日後。


 夜である。


『さがせぇぇ!なんとしてもさがせぇ!男はころしちまえぇぇぇ!』


 怒声があちらこちらからあがっていた。


 何本もの松明の明かりが眩しい、と男は他人事のように思っていた。そんな男の隣、震える柔らかい身体が立っていた。


「お侍さま……あちきは怖いです」


「何を今更な事を。外に出たいと望んだのは女、お主だ」


 じゃら、じゃらとなる鎖の音が響く。


 鎖を結んであった柱を刀でもって切る事は出来たが、鎖を切ることは叶わなかった。あるいは塩水を掛けていれば腐り、いつしか腐り落ちたかもしれない。確かに男はその案も考えていた。が、その日の昼、集落へと訪れた男に、あと数日で山道が復帰すると集落の者が話をしてきた。なれば、時間はないと男は考えた。女の父がどうなったかなど想像に難くない。


 故に、その日、男と女は小屋を後にした。


 元より、励んでいる事を確認したかったのであろう。小屋を出れば見張りがいた。その見張りを刀で切り捨て、男と女はその場から離れていった。それから一刻もせぬ内に代わりの見張りが来て、事が発覚したのである。そんな事実は知らずとも、きっとそうであろうと考えていた男は大して怯えてもいない。バッファローの群れに比べれば可愛い物である、と。


 小さな松明の明かり一つを頼りに男と女は先を行く。


 じゃら、じゃらと音を鳴らしながら山を行く。幸いであったのは、この音に驚いた動物達が逃げて行った先が集落の方だったことであろう。神ならぬ身である男には分からない事であったが、何時の間にか遠くに見える松明の数が減った事には僅か疑問を感じていた。


「お侍さま……す、すこし……」


「ならん。今暫く我慢せぇ」


 だが、そんな事を言った所でどうにもならぬものはどうにもならぬ。気付けば女が膝をついていた。


 元より小屋でしか暮らした事のない女である。体力があるはずもない。まして鉄製の鎖を持って動くなどもってのほか。故に、男は女を抱えた。膝の裏と首の後ろに手をあて、女の腹の上にじゃらじゃらと煩い鎖を置き、松明を女に持たせて山を走って行く。力強い足取りであった。バッファローから逃れるために鍛えられたものであった。


 山道に行くのは下手であり、なれば山頂を超えて向う側へと向かう必要があろう。そう思った男は滝を目指す。夜であるが故に視界はほぼ閉ざされており、記憶に頼る事もできない。故に、男は耳に集中する。


「おさむらいさま……」


「助かりたければ、わしが良いというまで喋るな」


 慌てるように口を紡ぐ女の姿が視界の端に見えた。そういった仕草もまた情欲を掻きたてるというのは面倒なものである。ただでさえ襦袢一枚越しに柔らかい肌の熱が伝わっており、淫靡に香る肉の匂いがするのだから。甚だ面倒な事である、と男は歎息しながら山を走る。それから半刻。追っ手を撒いたのか定かではないが、土地勘は向うにあるが故に男は油断していなかった。


 油断せず、耳に集中していれば、ちょろ、ちょろと水の音がした。


 その音に向かい、男は駆ける。


 ざり、ざりと音を立てて向かって行く。


 次第、次第とその音に近づいて行けば……音は大きくなっていく。どんどん、どんどん男の耳に聞こえる音は大きくなっていく。


 そして、開けたその先。


「これはまた雅な」


「お侍さ……むぐっ」


 喋ってしまったのに気付き女が口を押さえた。苦笑を浮かべ、構わないと女に目で伝える。ほっとした様子の女を下ろし、松明の灯りを……無粋な灯りを消した。


 夜にも関らず、その場は輝いていた。


「季節外れの蛍、か」


 飛び交う光。


 自由気ままに飛んでいる。思うがままに、自由気ままに蛍は飛んで行く。隣に立った女が呆とした様子でその姿を見ていた。見惚れているのであろう。いいや、見惚れなければ嘘である。


 一匹の蛍がふわふわと円を描きながら、彼岸の花へ惹かれるように降りて来た。


 淡い光に映る彼岸花。


 昼間に見た時もそうであったが、なお一層、幽玄であった。あぁ、わしはこれを見るために帰って来たのやもしれん、そんな場違いな事を思うほどにその光景は美しかった。


 女はほっと吐息を吐き、男に肩を寄せる。


「綺麗……です」


 ぼそぼそと口にする女。


 その女の熱が伝わってくる事も今は気にならない。


「うむ。これ程のものは中々見られぬ」


 女の肩を抱き、二人はその光景に見入っていた。


 そんな場合でない事ぐらいは彼らも分かっている。しかし、それでもなお、そうせねばならぬとばかりに二人はその光景を眺めていた。


「そういえば女。お主の名前は?」


 ふいに、男がそう言った。


「ありません」


「そうか」


「お侍さまが決めてください……もはやあちきはお侍さまのものです」


 ふむ、と頷いた。


「……考えておこう」


 困ったな、という男の表情を見た女が少し笑った。


「お侍さまのお名前は?」


「……お主だけわしの名前を知っているのは業腹である」


 更に女が笑う。


「お侍さま、もう少し近くでみたいです」


「食べてはならんぞ。毒である」


「お腹は一杯です」


 確かにここ数日はようたべていたな、と思い出す。


 言い様、女は彼岸花の咲きほこるその場へ降りていく。ただでさえ妖艶なその姿、それが天上の如き美となった瞬間であった。赤い花に蛍の光が女を彩る。


 男は、情欲を超えたその先を見たような、そんな気がした。


 そして。


 ―――それは一瞬であった。


「……なに?」


 一瞬、夜明けが来たのかと男は勘違いした。


 下流から炎が近づいてきた。


 そして、炎の様な形をした彼岸の花が燃えた。


 轟、轟と滝の音に負けぬ程の音を立てながら、周囲を焼き払いながら火が世界を包みだす。


「馬鹿者どもめがっ」


 らしくもなく、ここにはいない誰かに罵声を浴びせ掛ける。まさかであった。まさか女を捕えるために……いいや、女に逃げられるのならばいっそ殺してしまえと考えたのであろう。集落の者達が山に火を付けた。


 後先考えず、ただ情欲の炎に焼かれたように。


 短絡にも程があると男は憤る。


 そんな憤りの合間にも、彼岸の花が燃えていく。


 そして、彼岸の花の中にいた女にも火が迫ろうとしていた。


「えぇぇいっ!」


 慌てて男は女の下へと駆ける。これ程かけたのはかつてバッファローに尻を追われた時以来であった。駆ける。駆ける。


 この身がこの瞬間、朽ちても構わないとばかりに男は炎に彩られた世界を行く。


「女!こっちへこいっ!」


 叫んだものの、無駄だった。炎に怯えて足が竦んでいるようであった。


 はら、はらと燃えては儚い命を散らしながら落ちて行く蛍達。


 その身、その形のままに燃える彼岸花。


 女の足に火が。


 その襦袢を焼き始める。


 男が女の下へ辿りついたのはちょうどその瞬間であった。


 間に合ったという安堵と共に、何故か悲壮な表情を浮かべる女に首を傾げた。


「あちき、お侍さまと柘榴を食べたかったでありんす」


「阿呆!そんな事を言っておる元気があるならさっさと走らんかっ」


 どたわけ、と女の頭をこずき、涙目になった女の姿に苛立ちを覚えながら、ええいと男は先程の様に女を抱えて滝壺へと向かった。






―――






 それから一月過ぎた頃である。


『罪状:放火』


 という立て札の横に何人かの男達の首が並んでいた。良く見ればどこかで見た事のある顔である、とそれを見ていた男は……あぁ、と思い出し、ふむ、と頷いた。


 滝壺で炎をやり過ごし、鎖の重さに沈みそうになる女を何度も水底から救いあげ、ようやっと山火事が収まった頃、男と女は山を抜けて京へと向かった。


 そして京から再び別の所へ行こうとした際に、立ち寄ったのがこの町であった。どれだけ風雨にさらされたのかも分からぬが、カラスがまとわりついた首に気付いて近づいてみて、あぁと思い出せば、あの集落の者達であったのである。


 因果応報である、と男は頷いた。うむ、と。


「お侍さま……」


 そんな男の隣に立ち、おどおどとしているのは艶やかな彼岸花の装飾のなされた着物を纏った女であった。


「なに。お主に咎はなし」


「はい……それはそうとお侍さま、あちらに柘榴があるらしいですよ」


 切り替えの早い女であった。


「ほんに、柘榴がすきよのぅ」


 呆れと共にぽりぽりと頬を掻き、次いで鶏のような髪を撫でる。


「やっぱりお侍さまの髪は鶏のようでありんす」


 ぶすり、と男が不満に満ちた表情を浮かべた。そして、


「侍ではないし、鶏でもなし」


 と。言い様、ふてくされて明後日の方向へ行こうとしていた男を、女がどうにか柘榴のある店に連れて行こうと腕を引っ張った。


 そんな鶏頭の男と美女という変な二人を見た町人は男に向かって羨ましそうにしていた。どこであんな良い女を掴まえて来たのか、と。京でも同じであった。飲み処にいけば毎度毎度男は絡まれていた。


「えぇい。どうやって捕まえたかなどしるかっ」


 寄って来ただけである。


 彼岸の花に誘われ、寄って来ただけであった。




 その男の名は比嘉。


 海の向こう側の者達にはどうしても発音できず、ヒガンと呼ばれていた。


 その男の隣に立ち男を照らすように立っている女の名を蛍という。




 彼岸の花に誘われ、蛍が寄って来た。


 ただ、それだけの話である。









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