一時の休息①
「……ん。あ、さ、か…………」
目を開ける。時計へ目をやると――――
「まだ、七時半かよ……」
疲れてるのに、いつもより早起きしてるじゃねえか。
ってあ、れ。つめ、た、い………………?
頬の辺りに何か。
「な、みだ………………」
目から零れ、頬を伝い、ゆっくりと流れている雫。……やっぱり、出てきたか。
「……まあ、あの夢のせいだよな」
夢。少年の泣いている夢。おそらくは、昔の桐島喜助の……夢。
夢。悲しい夢。何度も見る夢。
母さんが亡くなったっていうのに、それを認められなくて、泣いて、泣いて泣いて否定して。
…………でも、結局は認めることしかできなくて。結局は泣き続けることしかできなくて、幼い、俺は。
母さん――――――――――あの人は俺の母さんだ。
俺には記憶が無い。あの人と過ごした記憶が無い。少年だったころの記憶が無い。
でも、あの人は俺の母さんだって思うんだ。いや、感じるんだ。なんていうか、その、根拠が無い話なんだけど、心で、感じるんだ。
感触を知らない。あの人の手の感触を知らない。頬、口、背中、色々なところの感触を知らない。
でも、俺はあの人の――――――――母さんの息子だって感じるんだ。
だから、俺はこんなにも悲しいんだ。母さんが死んでしまっているってことに。もう会えないってことに。楽しい日々は突如、崩れ始めるって、痛いぐらいに思い知らされていることに。
――――――――はは、感傷的になりすぎだ、な。
悲しんだところで母さんは帰ってこない。大好きだった母さんは。大好きだった日々は。
それでも俺は今、ここに居たいって思っているのは――――――――――
「わっ。喜助がこんな時間に起きてるっ」
がちゃっ、とドアの開けられる音と同時に放たれる一言。
「喜助…………また、“夢”、見てたの…………? 大丈夫?」
心配している表情。
「……だいじょぶ、だいじょぶ。気にすんな」
「……うん、わかったよ。ていうか、阪木君のお家に泊まったんじゃなかったの?」
「……ああ、それはだな…………」
なんて、返そうか…………?
「うーん、うーん、うーーーーん……」
面白いギャグを一発返してぇ。
「喜助?」
うーーーん、うーーーーーん…………
「ねえ、喜助?」
ん? なんだか尿意が。ああ、そういや昨日、小便せずに寝ちまったんだった。なるほど、どうりで。
「よしっ」
「………………?」
ベッドから立ち上がり、ドアを開け、階段を降り、トイレへ。
小便をする。
「ふう、すっきりした…………」
つい、小便した後の余韻に浸ってしまう。
「ねえ、喜助ってばっ」
「うわっ。痴女っ」
「え、なにって――――――おトイレしてるんだったら、先に言ってよっ!」
「いや、おまえ、この家の人間なんだから普通わかるだろっ」
目を瞑りながらやってきたのかよ、おまえは。
「喜助のばかぁ、速くしまってよぉ……」
「へい、へい」
言われた通りにしまってやる。
「ん? ていうかあの角度からじゃ、俺の背中しか見えてねえだろ」
「見えて無くてもだよぉ。もう、ばか、喜助のばかっ」
ばかばか言うもんじゃねえぞ。
「これ以上ばかばか言ったら、おまえの部屋に――――――してやるぞ」
「ばっ――――――――喜助のばっ――――――」
どうだ、続けられまい。
「…………あほ、喜助のあほ。あほあほあほあほっ」
今度はあほかよ。
「まあいいや。それよりなんか朝飯作ってくれ」
「…………喜助なんて、ボンドでも食べとけば良いんだよ」
「……おーし、了解」
トイレを出てリビングへと向かう。ボンド、ボンドは、って……あったぞ。
リビングのテーブルにボンドが一つ。
「よーし、いっただきまーす」
キャップを開け、口の中へ――――――
「まって、まって、まってーーーーー!!」
止めようとする栞。
「んだよ、おまえが食っとけって言ったんだろ?」
「それは、そう……だ、けど」
「だろう。……よし、飲むか」
「だ、だめだめだめーーーーー!! そんなの飲んじゃだめぇーーーー!!!」
俺からボンドを取り上げようと――――
「ちょ、やめっ――――――」
――――――――――ぶちゅ。
何かが発射される音。何かが翔んでくる気配。そして、何かが口内に侵入したとわかる感触。
――――――――――うげ。
う、うっ、ううううっっっっっ!!
「うううううううううううううううううううううううううううううううっっっっ!!!」
******
「こ、んの野郎…………!!」
ぎろり、と栞を睨みつける。
「ご、ごめんなさい…………」
「たーっく、ごめんじゃ済まされねえぞ、普通」
そうだ。確か、こういう時は弱みを脅迫の材料にして、相手に迫るのが王道のパターンなんだっけ。ゲームか漫画、アニメかなんかで見たことがある気がする。
「よーし。おい、栞。今日、俺、学校休むわ」
「そ、それは駄目だよっ…………」
「まあまあ、そう言うな。……実際、今、疲れてるんだ」
昨日の戦い、今朝の夢で。
「ほ、本当に?」
疑惑の眼差し。
「信じろよ、俺を……」
出し得る最高にハスキーな声で返す。
「その声で返事するときはたいていギャグを言ってるときだったりするよ……」
な、なにっ!? そんなこと調べてたのかっっ!
「ソンナコトナーイデスヨ」
「片言は何かをごまかしてるときに言ってる可能性が高いよ……」
研究しすぎだろっ!!
「……本当に疲れてるんだって。信じてくれよ」
「…………そこで、ギャグだ、とか、冗談だ、とか言わないときは本当だったりするよ」
し、栞ぃぃぃ……!
「疑ってごめんね」
「なーに気にするな、全部ギャグだから」
「全部、ギャグだったのっ!?」
あ、やべ。
「違う違う、そうじゃない。ギャグっていったのがギャグじゃないっていうわけじゃなくもないことはないかもしれないけど、それはやっぱりギャグじゃなくギャグで――――――――――」
つまりはつまりはつまりは――――――
「ギャグじゃないってことなのか……?」
「私に訊かないでよっ」
落ち着け落ち着け落ち着け、俺。
「すーはー、すーはー」
「……落ち着いた、喜助?」
「ああ。とりあえず、コンビニまでアイス買ってきてくれ」
「全然落ち着いてないよっ! なんでパシリ扱いなのっ!! アイスが食べたいのっ!?」
「悪い、悪い。ファッション雑誌だったわ、買ってきてほしいのは」
「ファッション雑誌なんて喜助、読まないでしょっ!」
はははははははははは。
「いやー。からかい甲斐があるわ、お前は」
「からかわれてたのっ、私っ!?」
本当にゆかいだ。面白いなあ。
「ごめん、ごめん。……疲れてるのはマジだからさ、今はちょっと休ませてくれねえか?」
「……本当、だよね?」
「ああ、大マジだ」
「私、看病してあげようかっ?」
「いいよ別に。寝てりゃ、楽になる」
「……何か、ほしいものでもあったら言ってね」
「…………ありがとよ」
「えっ、なにか言った?」
「いーや。なんも」
ただ、本当に優しい奴なんだなって、そう、思っただけだ。
さて――――――――寝るか。ソファーに寝転ぶ。
「ちゃんと、ベットで寝ないと駄目だよっ」
…………へい、へい。
部屋を出――――――――――って。
「何だよ?」
何故か見つめてくる栞。
「喜助、“夢”について一つ、訊いていい…………?」
「いいけど、なんだよ?」
「前、喜助の“夢”について聞かせてもらったよね」
「ああ」
「喜助はあの“夢”で何がしたかったの?」
「ああ、それか」
そんなの――――
「――――――に決まってんだろ」
「……そっか。お姉ちゃんは安心だよ」
「…………じゃ、今度こそ俺は寝んに行くぞ」
そう言い放ち、部屋へと向かう。
……まあ、こう思えるようになったのもおまえのお陰なんだけどな。
******
自室に入り、ベッドへ身を投げる。もふっと柔らかいベッドが俺を眠りへ誘う。
ああ、そういえば――――――――――
そんな微睡みの中、ふと思う。
壱ノ谷栞――――――――――俺の義姉。時々鬱陶しいって思うくらいのお節介焼き。
でも感謝してる。……今の生活があるのはあいつのおかげだからな。記憶の無い俺を色々、世話してくれたんだ。
記憶喪失――――――――俺はそう聞いている。俺は元々、孤児院にいた。
いや……いたらしい。俺には孤児院にいたときの記憶が無いんだ。過去の“あの夢”を除いて。
最初に記憶したのは、俺に微笑む栞の姿と義父――――宗介さんの姿。
そこからだ、現在の記憶が始まったのは。
……あっというまに流れる二ヶ月だった。栞と同じ学校に通い始めて、俺の記憶には様々なものが記されていった。
毎朝、栞に起されて学校に行く。阪木と馬鹿をする。白瀬と雑談をする。雪村と飯を一緒に食う。
他の奴らとだって話をしたり、遊んだりする。
その繰り返しが何回も何回も……。
そこには笑う俺がいて、笑う大事な人たちがいた。……楽しい、楽しいんだ、今の生活が。
駆け抜けるような二ヶ月……幸せな毎日だった。
だからこそ、そのきっかけをくれた栞や宗介さんには言葉にならないぐらいに感謝してる。本当に、本当に…………。
「ぅ、ん――――――――――」
……眠くなったきた、な、本格的に。
揺らぐ視界。開閉する瞼。薄れゆく意識。
――――――――よし。もう、ねむる、か――――――――
******
「――――ぅぅ、あ…………」
瞼を開く。えーっと今は何時だ。
時計へ目を向けると――――12時、か。
ということは、学校ではもうすぐ昼休み。
ふむ。
少し考えを巡らせていると――――――
ぎゅるるるるる。
……腹減ったなあ……。そういや、結局、朝飯食ってなかったんだっけ。ふーむ。
「あ、そういや、ちょいと中津に訊きたいことがあったんだっけ」
そうそう、色々と。
「よしっ」
ベッドから抜け出て、着替える。
「今からなら……歩いても十分間に合うだろ」
ゆっくりと歩いて向かうことにした。




