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First Mother's Day

作者: 水也
掲載日:2014/04/27

 陽気、というにはいささか暑い。

 そう感じるのは、ついこの間までの気温が裏返したように涼しかったからだろうか。

 とっくに蛙を冬眠から覚ましてしまった太陽の光は、次に巡って来る季節のために徐々に強まってきている。


 首筋がかすかに汗ばむ。

 例年よりも気温の変化が激しかったからか、暑さに弱い私の体は春モードから完全に移行する前に先制攻撃を受けて、けだるさを覚えていた。


 日差しは心地よい。

 しかし当たる場所がずっと同じであるから、そこだけが暑くなってしまっていけない。さすがに制服がべたつくほどではないけれど、服と肌の間はあまり気持ちのいい状態ではなかった。


 体のだるさは気温のせいだけではないに違いない。

 ゴールデンウィークという長い休みが終わってしまって、早起きをして学校に行かなければならない日常が戻ってきたからだ。

 もしも十時くらいに起きても一時間目に間に合うような高校があれば、きっとそれほどだるさは感じていないだろう。


 体が本調子でなければ、自然と口数も減る。

 家に向かう帰り道、私はのらりくらりと歩を進めながらほとんど言葉を発さずにいた。


 しかし、暑かろうと寒かろうと、はたまた病気であろうと口数に変化がないような人も世の中にはいるものだ。たいていは口から先に生まれてきたと言われるような、おしゃべりな人種。

 どちらかというとその逆に分類されるであろう私などがそういう人といっしょにいると、聞き役に回ることになって余計に話さなくなる。


 幸か不幸か私の身近なところにもそんな人種が一人いて、今現在文字通り、物理的に身近にいた。


「――だったんだってよ、おっかしいだろぉ」


 それまで隣で機関銃のようにしゃべり続けていた俊二が一息ついて"間"を渡してきたので、私は彼のほうを向いて「ん~」としばらく唸って、そして、


「あ、ごめん、聞いてなかった」


 笑ってみせた。

 ついでに小さく舌を出して、可愛らしさを出してみる。

 真実それが可愛く見えているかどうかは言いっこなしだ。


 先述の人種には、二通りのタイプがある。

 話し好きと、聞かれ好きだ。

 前者はとにかく話せればよし、別に相手が聞いていようと聞いていまいと自分が語ることができれば問題なしというタイプだ。

 後者は――どちらかというとこちらのほうが多いだろうが、相手が聞いていないと面白くないタイプ。

こちらは迂闊に聞いていなかったりすると、その人の性格によっては非常に不興を買ってしまうことになる。


 俊二が珍しい前者のタイプであることを、つきあい初めて二年になる私はよく知っている。

 案の定俊二は、


「……はぁ、やっぱ聞いてなかったか。ま、いいけどよ」


 と軽いため息をついただけ。

 私は笑顔をひっこめ、口を尖らせた。


「だって、私バイクの話なんて全然わからないもの。俊二ったら、いっつも一人でバイク話で突っ走っちゃってさ、もうちょっと違うことなら聞いてあげるわよ」

「わからないなりに聞いてりゃ、春香もいつか覚えるはずなんだけどなぁ」

「どうかしら? たぶん俊二の話を全部聞いてても覚えないと思うな。だって私、バイクに全然興味ないもん」

「それ言ったらミもフタもねぇし」


 そう言いながらも俊二はカラカラと笑う。

 俊二の語るバイクの話は、いつも私にはちんぷんかんぷんなことばかりだ。

 どこかのパーツを交換したとか、マフラーがどうしたとか言われても、いつも後ろに乗せてもらってるだけの私には何のことやらさっぱりである。

 まぁ中にはわかることもないでもないが、面白くはない。


 それでもいっしょに高校から帰る三十分のうちの十分ほどは、必ず俊二がその手の話を滔々と語るのがいつもなので、そのへんは適当に聞き流すことにしている。

 今日もやはり、そろそろ暑くなってきたなぁなんてどうでもいいことを考えながらちゃっかり聞き流していた。

 俊二のバイク話が終われば、後はとりとめもないことをお互い話し始めるのが常だ。


「にしてもだんだん空気が湿気てきたよな~」


 バイク話に満足した俊二は、自分の長髪をいじりながらそうぼやいた。


「この髪、雨降ってくるとマジでうざくてよ。長いだけなら俺の趣味だから文句言う気ねぇんだけど、かすかにクセ毛入ってるからさ、湿気吸うと収集つかなくなっちまう。その点春香はいいよな」


 ロン毛(死語かしら?)の俊二とは対照的に、私はさっぱりとしたショートカットだから、湿気どころか多少雨に濡れてもすぐに乾く。

 というか濡れていても支障ない。


「なんなら野球部でも見習ってみたら?」


 未だに旧弊的な髪型を続けているわが高校の野球部を参考対象として挙げると、俊二はおぞましい物を見た表情で降参のポーズをとった。


「あれだけはゴメンだ」

「なら、せめてもうちょっと短くするとか。今時流行らないわよ、そういうの」

「はやり廃りに惑わされてちゃ自分は貫けないぜ」

「はやりに実益も上乗せされれば自分を曲げる理由としては十分だと思うけどね」


 まあ、正直なところ私もそれはあまりやってほしくない。

 だから松山千春を次なる参考対象に挙げるはやめておいた。

 すると、俊二が横から身をかがめて私の顔を覗き込んで言った。


「それはそうと、さ。今度の休みなんだけどよ、またどっか日帰りで遊びに行かねぇ?」

「今度の休みって……」


 今日は金曜日。

 ゴールデンウィークと土日にはさまれた、二日間のけだるい学業日の後半だ。つまり、


「今度の休みって、明日じゃない」

「そ、明日。海のほうまでぶわぁ~っとひとっ走り行こうぜ。まぁまだ海水浴ってのには早いけどよ。その分人はいないはずだろ」


 彼の言う"ぶわぁ~っとひとっ走り"というのは、やはりバイクのことだ。どこかに遊びに行くとき、私はいつも俊二のバイクの後ろに乗せてもらう。

 前述のとおり私はバイクに詳しくないからよくわからないのだが、彼のバイクは普通のよりも幾分大きなやつで、後ろに座っていてもすごく安定してるから楽でいい。

 それでも最初は怖かったが、さすがに二年も乗っているともう慣れた。


「でも、海はこの間行ったばかりじゃない」


 三日前に、私たちはやはりバイクで千葉のとある海岸へ足を伸ばしている。


「それに確か前も同じこと言ってなかった? 海水浴には早いから人はいないはずだーなんて言って。結局思ったより人がいて落ち着けなかったわよね」

「ありゃぁお前、ゴールデンウィークだったからだよ。家族連れがうじゃうじゃいるだろってことを忘れてたんだ」

「休みの日なんだから明日も似たようなものじゃないかしら?」

「う……そりゃそうかもしんねぇけどさ。この間よりはきっと少ないぜ。

 実はこの間行ってからちょっとエンジンにも手を入れてさぁ。走りたくてうずうずしてるんだよ」

「あんたねぇ。バイクに乗りたいだけなら一人で行ってきなさいよ。何も私がいなくてもいいわけじゃない」

「うあ、冷てぇ。彼女がいるのに一人でツーリングなんて寒いじゃん」


 そういうものだろうか。

 何か違う気がするが、かと言って別に私も行きたくないわけではない。

 かなり俊二の趣味が入っているが、デートであることに違いはないわけだから。


「ま、いいわ。別に用事もないし。

 でも、同じ海岸は却下ね。別のいいところを探しておくこと。

 オッケー?」

「オッケー! さすが春香、話がわかるぜ。

 実はもう目星はつけてるんだ。なかなか穴場らしくってよ。それじゃ明日、朝に迎えに行くから――」


 迎えに行くから、なんだろう。

 俊二がいきなり言葉を切ったので、私は怪訝に思って彼を見た。

 そうしたら、何か目を凝らすように細めて、歩いていた道路の反対側を――いや、反対側のさらに向こうを見つめていた。


「どうしたの?」


 尋ねると、目をじっと凝らしたまま、指を掲げて答えた。


「いや、あれってさ…………」


 その指の先と俊二の視線追って、私も道路の反対側へと視線を移した。



     ◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 そこは、小学校だった。

 私もかつてはかよっていた場所。その敷地内にある運動場が、今私たちが歩いている道路に面している。

 運動場からは、放課後に遊んでいる子供たちのにぎやかなはしゃぎ声が聞こえてきていた。


 その、私が慣れ親しんでいる女子高生のものとは本質的に何かが違うにぎやかさの中、俊二が指差しているのは隅の方の道路に間近いところにある鉄棒やジャングルジム付近のようだった。

 正確には、そこに集まっているまだ低学年らしき幾人かの子供達を指差しているらしかった。


「あれがどうかしたの?」


 言ってから、私はおやと思った。

 子供達はただ集まっているのではなく、女の子一人を数人が取り囲んでいるようだ。

 取り囲んでいる方は笑いながら何かをはやしたてていて、女の子の方はうつむいて泣いているように見える。

 小さな子供が数人で一人をいじめている、そんなふうな光景。

 よぅく目を凝らして見ると、その女の子は……


「なぁ、あれって春香の――」


 俊二が言い終わるよりも早く、私は駆け出していた。

 道路を一気に横断し、歩道と運動場をしきるフェンス沿いを鉄棒のほうへ向かって走る。

 途中フェンスが途切れた通用口があり、そこから運動場の中に入った私は、


「こらぁ!」


 と声を張り上げながら子供達に駆け寄った。

 いきなりの乱入者に、泣いている女の子――私の妹、冬香を除く全員がびっくりして跳び上がった。


「わっ、なんだよお前!」


 周りにいた子供達の中でもっともやんちゃそうな男の子が、驚かされたことに腹をたてて怒鳴る。

 だけどあいにく、まだ声変わりもしていないような声で怒鳴られても怖くもなんともない。

 が――


「なんだお前ー。せんせーにフシンシャだって言いつけるぞ」


 中にはそんな可愛げのないのもいた。

 先刻のやんちゃそうな子供と違い、こっちは一番生意気そうだ。

 私は(我ながら大人気なくも)少しカチンとして、そのお子様を見下ろしながら指を鳴らしてみせた。


「へぇ~、いい度胸しるわねぇ? 私の妹を泣かせるようなやつには、本当に不審者になっちゃうかもしれないわよぉ?」


 精一杯声にドスをきかせてやる。あまり様にはならなかったけれど、子供相手には十分通用したらしい。

 生意気なお子様はビクッと震えて一気に弱腰になった。

 本当は弱気な正確なのか相当ビビったのか、生意気な子供は怯んで何も言えなくなってしまった。


 私が一歩近づくと、「うわっ」と情けない声を上げる。

 それを見ていた最初の男の子が、


「み、みんな。行こうぜ」


 と周りの子供達に声をかけた。

 グループのリーダー的な存在なのだろう、その子が声をかけると、みんな一斉にその場を離れ出した。

 怯えてしまった生意気な子供だけが最後に残ったが、私がさらに指を鳴らすと、去っていく友達と私の顔を一度見比べ、慌てて友達のあとを追って走っていった。


「ひゅ~、やるじゃん春香。大迫力っ」


 うしろから歩いて追ってきた俊二が茶化すようなことを言ったので、私はキッとにらみつけてやった。

 が、彼は意に介することなく、冬香の頭に手を置いてしゃがみこんだ。


「よっ、冬香ちゃん。大丈夫か?」


 冬香は手が置かれた瞬間びくっとしたが、俊二が声をかけると泣き声を弱くして顔を上げた。

 しゃくりあげながら、目をしばたかせる。


「…………ひっく…………し、俊二兄ちゃん……?」

「そう、俊二兄ちゃんでーす。姉ちゃんもいるぞ、ほら」


 俊二に言われ私を見て、冬香は目に涙をためたままで少し笑った。


「ほんとだ、お姉ちゃんだぁ」

「冬香、大丈夫?」


 俊二と並んでしゃがみこんで、私は冬香の頭をなでてやった。

 相当泣きじゃくっていたのか、冬香の目の周りは赤くなってしまっている。見たところ何か乱暴なことをされたわけではなさそうなので、ひどいことでも言われたのだろうか。

 そうだとしたら、さっきの連中にはもっときつく言っておくべきだった。


 私と俊二を見て一瞬表情を和らげた冬香だったが、またすぐにうつむいて泣き出してしまった。


「あぁ、ほら。もう大丈夫だから、泣き止みなさい、ね?

 さっきのやつらに何か言われたんでしょう? だったらもういなくなったから大丈夫よ」


 そう言って頭をなでてあげるのだが、冬香はしゃくりあげるだけで泣き止んでくれない。

 私が困ってそれ以上言葉をかけられないでいると、横から俊二がそっと冬香の頬に手を当てた。そして私に対して、任せとけと言うようにあいている手で自分を指差してみせる。


 私は頷き、冬香の頭から手をはなした。


 冬香は俊二になついている。

 俊二は思いのほか子供好きで、冬香がまだ幼稚園に通っていた時など、私のうちに来たときはよく遊んでくれていた。

 だからだと思う。


 俊二は何かを言うでもなく、しばらくの間冬香の頬をやさしくなでていた。

 ただそれだけ。

 それだけだというのに、冬香の泣き声がしだいに小さくなっていったものだから、私は驚いてしまった。


 冬香と遊んでいる俊二を見ているときにも思ったことがあるが、俊二って子供の扱いに長けているように思える。

 将来、保父さんなんかになったら案外似合うかもしれない。


 やがては冬香は完全に泣き止んで、目にたまった涙も自分でぬぐってしまった。


「お、もう泣き止んだな。偉いぞぉ、冬香ちゃん」

「……えらい……?」

「そう。すぐに泣きやめるなんて、冬香ちゃんが強い証拠だぜ。なぁ、春香?」

「えっ、あ、うん。そうね。偉いわ、冬香」


 突然私にふってくるから慌ててしまった。

 だが、私が頭をなでてそう言ったら、冬香はうれしそうに笑ってくれた。

 しかし、私は俊二と違って子供の扱いが下手らしい。


「それにしても冬香、どうして泣いてたの? やっぱりあの子たちになにかひどいこと言われたとか……?」


 訊いてからしまったと思った。せっかく笑っていた冬香の顔が、それによって曇ってしまった。


 ああ、もうっ、私の馬鹿! そんなの後でもいいじゃない!


 そうしたら、俊二がまた助け舟を出してくれた。


「何があったんだい、冬香ちゃん。

 話すのが嫌なら話さなくてもいいけど、姉ちゃんも俺もさ、大好きな冬香ちゃんが泣かされてるなんて心配なわけよ。何か言われたんだったら言い返せるようにいっしょに考えてやるし、殴られたりしたんなら俺があいつらボッコボコにしてやるから」


 ……なんだかすごい優しい声で優しいこと言ってるんだけれど、最後は何かおかしくないだろうか。

 ただ、実を言うと私の考えも同じである。

 なんにしろ、俊二の言葉は効果的だった。

 最後の言葉を冗談だと受け取ったのか、冬香は一転、笑って「ありがとう、俊二兄ちゃん」と呟いた。


 そして、もう一度俊二が何があったのか教えてくれるかと聞くと、それでも少しだけ暗い表情で頷いた。


「……あのね……」



     ◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 カラスの声が夕暮れ空にこだました。

 西に赤々と染まる太陽を望みながら、私は草を踏みしめて歩く。

 都会とはいえないこの街のそこかしこにある田んぼのあぜ道の一つ、いつもショートカットのために通る道を歩きながら、私はうつむき加減だった。


 道が狭いので俊二は前を歩いている。

 平素は話し出したら止まらない彼が、何も言わずに行くものだから、私は逆に何も言えずにやはり黙々と歩くしかなかった。

 できれば、いつものごとく――私のわからないバイクの話でもいいからしていてほしい。

 そんなふうにぼんやり思っていたら、俊二がぽつりと言った。


「そういえばあさってって、母の日だったんだよなぁ」

「……覚えてなかった?」

「ああ、全然。つーか、知らなかったって方が合ってるかもな。五月だってことすら記憶が怪しいくらいだから。ましてや九日だなんてこれっぽっちも覚えてなかったよ」

「九日って決まってるわけじゃないわ。母の日は五月の第二日曜日。今年はたまたま九日なだけよ。ちなみに父の日は六月の第三日曜日ね」

「……へぇ、よく覚えてんな、春香。

 ま、俺なんか母の日も父の日も、小学校以来なにかした覚えがねぇからな。そのせいだと思うけど。

 春香ってそういうの、今でも……今までもやってたのか?」

「そんなに気にしなくてもいいってば。……私は、もう、だいぶ慣れたし」


 一度言葉を途切れさせて言い直す俊二に、私は少し困った笑みを向けた。だけど、その気遣いが俊二らしくてうれしい。


 ……私と冬香には、母親がいない。


 いや、いるにはいるのだが、家にはいないというのが正確なところだ。

 去年の秋ごろまでは、確かに家に両親がそろっていた。私や冬香が気づかないような、目に見えないひずみを抱えながらも。

 しかし、十月も終わろうかというある日、突然母さんは家を出ていってしまった。私と冬香に何も言うことなく、ただ父さんにだけ別れを告げて。


 後になって父さんに聞いたところでは、夏からすでに母さんは離婚を求めていたそうだ。その理由というのがあまりにも単純でわかりやすかった。


 他に男ができたのだ。

 しかし、父さんは離婚を受け入れなかった。当然だろうと思う。

 そして、一つの季節が過ぎ、しびれを切らした母さんは家を出て行った。


 それを聞いたとき、私はなんて身勝手な、と腹が立つよりもただただ呆れてものも言えなかった。それまで母さんは、決して悪い母親だったという記憶はない。

 私が小さな頃は愛情をそそいでくれたし、冬香が生まれたあとも良い母親だったと思う。


 それがいったいなぜ……


 納得できない私の問いに、父さんは憤懣やるかたないという顔ではき捨てるように言ったものだ。


「あの女は昔からああだったんだ」と。


 その瞬間、母さんに対する失望とともに、私は父さんにもある種の幻滅を抱いた。

 子供の前で、その親に対して言う言葉だろうか。けれど、その時の父さんは怒りでわれを忘れていたのだとも思う。

 母さんの持ち物すべて――小物から写真にいたるまで、すべてを焼き捨ててしまうほどだったから。


 それ以来、我が家には母親のいない生活が続いている。


「もう、半年経つんだもんな……」


 そのあたりの事情を話してある――というよりも、不覚にもその時悲しくて泣きついてしまった俊二は、歯切れ悪くそう呟いた。


「いや、まだ半年って言ったほうがいいのかな。一年も経ってないわけだし。

 冬香ちゃんにとっちゃ、お袋さんがいなくなって初めての母の日なわけか……」

「そうね…………」


 冬香が泣かされていた理由というのは、まさにそこにあった。

 冬香の友達の間で何がどう伝わったのかは知らないが、母親が出て行ってしまっていないこと、それが知られていることは確かなようだった。


「お母さんがいないって、言われたの」


 理由を聞いたとき、冬香はそう言った。


「お母さんがいないから、お前には絵なんて描けないだろうって言われたの。そしたら、もう"ははのひ"にお母さんといっしょにいられないんだって思って、それで……」


 絵とはなんのことかと聞くと、学校の宿題で母の日に母親の似顔絵を描いてこいと言われたのだという。

 そして、翌月曜日の授業参観に、その絵を持って、さらにできれば母親に来てもらうように、と。


 私はそもそも、授業参観があることを知らなかった。

 他の子供たちの母親が来ると決まっている中、冬香は父さんや私に報せづらかったのだろう。


「……私、冬香にとって母の日がそんなに重要なものだなんて、今まで知らなかったわ」

「そうだな。今時の子供だと、それほどこだわる日じゃないもんな」

「私の場合、母の日がいつかって聞かれたら答えられるだけなのよ。覚てるだけで、今その日があって当たり前の記念日と考えてる冬香とは全然違うわ。

 私にとっての母の日は、"みどりの日"とか、"天皇誕生日"とかって類の、休みだけどどうして休みなのかなんてどうでもいいような記念日と同列――ううん、休みじゃないからむしろそれより下に位置してるかもしれない。

 だけど、冬香にとってはそんな記念日よりももっと上、クリスマスとか、誕生日とか、それくらいの重要な日なのね。だから、その日に母さんといっしょにいることはすごく当たり前のことなんだわ」


 だけど、今年の母の日に母さんはいない。

 去年までの母さんと冬香が目に浮かぶようで、私は急に悲しい気分になってしまった。

 私はもう、母さんがいなくなったからといって泣くような年でもない。だが、冬香は違う。まだ小学校に入って一年と少し、母親が必要な時期のはずだ。

 そんな冬香を置いて出て行ってしまった母さんに対する怒りが、腹の底でくすぶっているのを感じた。


「冬香ちゃんって、いい子だよな」


 突然俊二が場違いなことを言ったものだから、私は立ち止まって彼を見上げてしまった。


「……なに、それ」


 俊二もまた立ち止まり、振り返った。

 その真剣な表情に私は息を呑む。


「だって、そうじゃん。お袋さんのことを思ってあれだけ泣けるなんて、さ」

「うん……そうね」

「だからさ、なんとかしてやりたいと思うんだ。それは、春香もおんなじだろ?」


 冬香の――私の問題を真剣に考えてくれる俊二がうれしくて、私は思わず涙ぐみそうになった。

 代わりに、力強くうなずいて見せる。


「もちろんよ」

「そうなると、だ。一番はお袋さんを連れてくるってことになるわけだが……連絡先はわかってるんだっけか?」

「一応、ね。どこに住んでるかもわかってる」


 母さんが今現在暮らしている街の名を挙げると、俊二は小さくうなった。

 たぶん、この街からすごく微妙な場所だったからだ。連絡をとっても、断られると決まっているほ

ど遠くはなく、それでも公共の交通手段を使うと一日では行って帰るのが難しいような場所なのだ。


「やっぱり、電話で事情を話して当日来てもらうってのが最善だな」

「それはそう……なんだけど」


 私は自分で言葉を発しながら、歯に何かがつまっているような錯覚を感じた。憤りは感じるけれど、自分の親を悪く言うのはやっぱり気分が悪い。


「こんなこと言うのはどうかと思うんだけど、それで来てくれるような人なら、最初から出て行ったりしてないと思う……」

「でも、さ。言うだけは言ってみないと」

「わかってる。冬香のためだもの、説得はしてみるつもり。あんまり自信はないんだけどね。それでもしだめだったらどうしよう」


 他に、どうすればいいというのだろう。


「本人に来てもらうのが無理なら、せめて絵だけでも描かせてあげたいな。お袋さんの写真を見せて、それで冬香ちゃんに絵を描いてもらうとか。……ダメか?」


 私が困惑した表情を見せたのだろう、俊二は声のトーンを落として聞いてきた。

 彼には母さんが出て行った顛末は話してあるけれど、その後の父さんがどうしたかまでは話していない。


「写真は、ね……怒って父さんが全部焼いちゃったの。母さんが写ってるのは全部。一枚だって残ってないわ」

「……結婚式の写真とかもか?」

「確か、それを一番に焼き捨ててた」

「……そっか……」


 俊二はなんとも言えない顔をした。たぶん、普通はこんなことを聞かされたらそうするしかないに違いにない。


「それなら、さ。もし来てくれないなら写真だけでも送ってくれって、そう頼んでみたらどうかな」

「ん……そっか、それなら送ってくれるかもしれない」

「やっぱり本人に来てもらいたいけどよ、写真があれば絵が描ける。絵が描ければ、今回みたいなことで冬香ちゃんがいじめられることもないと思うんだ」


 確かに、それはそうかもしれない。

 一番の目的は、冬香が今日みたいな目にあわないようにすることだ。

 もちろん、会えるものなら母さんに会わせてあげたいけれど、それがかなわないならそれ以外で最善を尽くすしかない。


「うん、今日電話して、頼んでみる。なんとか説得してみるわ。

 ……ありがと、俊二。一緒に考えてくれて」

「へへ、当然だろ。ま、冬香ちゃんは俺にとっても妹みたいなもんだからな。放っとけないさ。上手くいったら教えてくれよな」

「うん、当然よ」


 赤く染まるあぜ道の真ん中で、私と俊二は笑いあった。



     ◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 その日の夜、私はベッドの上でぎゅっと受話器を握り締めた。


 ……緊張する。


 家を出て行った母さんに、私から電話をかけるのはこれが初めてだった。

 私が母さんに電話しているのを見たら、きっと父さんは怒るだろう。怒りはしなくとも、いい顔は

しないはずだ。

 だから、子機を持って自分の部屋に入った。


 手帳をめくり、母さんから電話がかかってきた時に控えておいた電話番号をプッシュする。

 コール音が鳴り響く間、いっしょに暮らしているという男の人が出たらどうしようと、ただそれがひどく不安だった。


 その男の人とは何の面識もない。

 娘が母親に電話をするのになんの気兼ねをする必要があるかとは思うのだけれど、それでもどんな人と今母さんが暮らしているかすら知らないから不安はさらに増す。


 一回、二回、三回……


 コール音が増えるたび、受話器を握り締めた手に汗がにじむ。

 そして、六回目にしてコール音が止んだ。


『もしもし』


 受話器の向こうから聞こえてきた声に、私は思わず息を呑んだ。

 聞きなれた、少し高めの女性の声――


『もしもし? どなた?』


 男の人が出たらどうしよう、それだけを不安に考えていた私は、母さんが出たときに何を言おうかを考えていなかった。

 とっさに声が出ず、沈黙していると訝しげに尋ねてくる。

 私は一度大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出してから呼びかけた。


「……母さん?」


 その瞬間、受話器の向こうで息を飲む気配が伝わってきた。

 ついさっきの私と同じように、すぐに言葉が返ってこない。

 私はさらに呼びかけはせず、ただ待った。


『春香……なの?』

「そうよ、私よ。ひさしぶりね、母さん」


 何を言ったらいいのか以前に、どういう態度で話せばいいのかも考えていなかった。

 憤りはある。不満もある。だけど、今ここでそれを表に出してもしかたがないと思ったから、私は努めて平静に――できるだけ淡々とした態度をとることにした。


「ちょっと話したいことがあって電話したんだけど、今いい?」

『え、ええ。かまわないけど……』


 母さんは、突然の私からの電話に戸惑っているようだった。

 たぶん、何事もないような私の声音も、戸惑いの原因の一つになっているだろう。

 私の方にも、少しだけそういう意図がないわけではなかった。


 勝手に出て行って、言ってしまえば私や冬香を捨てた母さんを戸惑わせたい、そんなささいな気持ちがあった。

 だけど、長く話しているとそんな態度も声音も続かない。きっと声を荒げて、戻ってきて、とかどうして出て行ったの、とか言ってしまう。

 だから、早々に本題に入ることにした。


「あのね、話っていうのは、冬香のことなの」

『冬香の?』

「ええ、明後日が何の日か、わかるよね?」


 私は、今日の出来事を語った。

 母さんが出て行ったことで、冬香がどれだけさびしい思いをしているかということ。

 あまつさえいじめられるようなことになっていること。

 母親の絵を描くという宿題が出されたこと。

 次の月曜に冬香の授業参観があること。

 そして、ほぼ全員の生徒に関しては、母親が授業参観に出るであろうこと。


 何も言わず、母さんは私の話を聞いていた。

 ――いや、話している間何も言わせないよう、私が途切れさせなかった。


 私の話を聞いている母さんの隣には、見知らぬ男の人がいるのだろうか。

 私たちの家庭から、母さんを奪っていった男が。それを想像することは、私をひどく嫌な気分にさ

せた。

 受話器から漏れているだろう私の声を、聞かれるのも嫌だった。


 しかしその意思に反して、声はだんだん大きくなっていく。

 だから話し終えたとき、私は激しい疲れとともに息を吐き出した。が、


『それで……春香はわたしに、どうしろって言うの?』


 母さんがおずおずと言った言葉に、思わず声を上げてしまう。


「どうしろですって!? 決まってるじゃない、戻ってきてほしいのよ!」


 やっぱりだ。

 思っていたとおり、怒鳴ってしまった。

 ただ受話器を通して母さんとつながっている、それだけのことで私は努めようにも平静ではいられない。

 母さんにというよりも、そのそばにいる誰かに対して声を荒げているようなものだ。


「……一日だけでいいのよ。その日だけでも、冬香の授業参観に出てあげてよ」

『それは……できないわ』

「できないって、どうして!」

『忙しいのよ。平日の昼間に、とても冬香の学校まで行く時間はないわ』

「忙しい? なにがよ、いったい。誰かさんと遊びに行くのにでも忙しいっていうの?」


 声に棘が混じる。


『そうじゃない、そうじゃないの。だけど……ごめんなさい。やっぱり行けないわ』


 謝るくらいなら、最初から――

 のど元から出掛かった言葉を、私は苦労して呑み込んだ。

 もう、いまさらそんなことを言ってもしかたないのかもしれない。行けないという母さんの声は、頑なに聞こえた。

 これ以上言っても無駄だという予感が、私の中で膨れ上がった。


「……もう、いい」


 そう言った私の言葉は、ひややかに聞こえたろうか。

 そう聞こえていたほうが、私としてはまだしも溜飲が下がる。


「その代わり」


 と、今度は声音を戻した。最善策が無理だったとしても、こちらだけはなんとかしたい。


「写真を送ってほしいの。冬香が絵を描くために。母さんの写真は父さんが全部捨てちゃったから、一枚も残っていないのよ。それくらいならいいでしょう?

 明日送ってくれれば、十分間に合うわ」


 しばらく、沈黙があった。まるで迷うかのように、母さんはすぐに返事をしなかった。

 何を迷うことがあるのかと、私は不審に思う。

 ただ写真を送るだけだ。何の不都合があるだろうか。

 実際の時間がどうだったかはわからないが、母さんがやっと返事をするまでの時間は長く感じられた。


『それも、だめよ』

「なっ……」


 私は耳を疑った。


「なんでよ!?」

『あなたが冬香のために言ってることはわかるわ。

 だけどね、冬香だってあと何年かすればわたしがいなくても大丈夫になるわ。それまで何かあるごとに、わたしのことを思い出していたら、それこそなかなか忘れられなくなる。

 だから、もう忘れて頂戴。写真なんてないほうがいいのよ』

「な、なによそれ…………忘れられないでいるから言ってるんじゃないの!

 数年のことだって言うのなら、それこそその間くらい戻ってきてくれてもいいでしょう!?

 なのに写真も送ってくれないだなんて…………何考えてるのよ、母さん!」

『ごめんなさい。でも、その方が冬香にとってもいいのよ。わかって頂戴』


 だから、謝るくらいなら――!!


 今度は呑み込まずに言葉に出しかけた。

 だが、それより早く、私の耳にはブツッという切断音が響いていた。


 次いで、ツー、ツーと無機質な音のリズムがやってくる。


「……………………」


 呆然としてしまった。

 言うだけ言って、切ってしまうなんて。


 リダイアルボタンを押してもう一度かけてみたが、受話器をはずしているのか呼び出し音すら始まらない。


 ……なんなのよ、いったい。


 わからない。


 理解できない。


 その方が冬香にとってもいい、ですって?


 何を考えてそんなことをいったのか、私にはさっぱりわからなかった。

 もしも母さんが他界しているのであれば、ずっと引きずるよりも忘れたほうがいいこともあるかもしれない。

 けれど、私たちの母さんは生きているのだ。まさか、死んだと思えとでも言いたいのだろうか。


 悔しかった。

 母さんが理解できないのもそうだし、まるで切り捨てられたような気がして悲しかった。

 最後の切断音が、拒絶に聞こえて、母さんが出て行ったと知って俊二に泣きついた時と同じ気分になった。


 泣かなかったのは、意地だ。

 泣いてなんかやるもんか、そう思って我慢したけれど、子機を放り出し、ベッドの上で壁に持たれ、手は携帯電話を操作していた。

 約束だから、伝えないといけない。

 だけど、電話をする気力はなかった。


 だから、たった一行、メールにして送った。


 "どっちもだめだった"、と。



     ◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 翌朝、私は携帯電話の着メロで目が覚めた。

 気が沈み、風呂にも入らずそのまま寝てしまったせいで気持ちのいい目覚めではなかった。

 着メロはメール用のもので、十秒ほど鳴って消えたが、眠りが浅かったせいか私を起こすには十分だった。


 昨日の母さんとの会話が思い出される。

 あんなことなら電話などかけなければよかったと、一夜明けた今でも思う。

 後悔先に立たずとは言うが、まさかあんなふうに言われるなんて誰が思うだろう。


 俊二に送ったメールも返事がなく、無性にさびしく、重い気分になってしまった。

 ベッドを抜け出す動作もひどくのろくなる。頭痛がするわけでもないのに頭が重い。

 携帯電話を手に取った私は、メールの中身を見て眉をひそめた。


『9時に迎えにいく』


 それは、俊二からのメールだった。

 時計に目をやると、もう七時すぎだ。


 ……そういえば、約束をしていたんだった。

 すっかり忘れてしまっていたが、海のほうへ行くという話になっていた。


 私はベッドに座りなおし、携帯電話を持ったまま逡巡した。

 今は遊びにいきたい気分ではない。

 でも、そうすれば気分が晴れるかもしれない。どうしようかと考えているうちに八時になり、とりあえず着替えて部屋を出た。


 リビングでは冬香が朝ごはんを食べ終わったところで、父さんはテレビを見ていた。

 箸を動かす冬香は、いつもに比べてやはり元気がないように見えた。食べ終えた冬香はすぐに近所の友達のところに遊びに行くと言って出て行き、私は冷蔵庫をあけて自分の分を用意し始めた。


「春香」


 卵を割っていると、父さんがテレビを見たまま私を呼んだ。


「なに?」

「昨日、母さんのところに電話してたな」

「……やっぱり、聞こえてた?」

「ああ」


 フライパンに卵を流し込む。ジューという音がしている間、私は気泡が卵の中にできてはつぶれるのをじっと見つめていた。

 あれだけ大きな声を出してしまったから、父さんも気づいているのではないかと思っていた。

 それでも昨日のうちに言わなかったのは、私を気遣ってくれたのだと思う。


 今も、どんな話をしたのかは聞いてこない。

 だから私は、


「やっぱり母さん、勝手だよ」


 聞こえるか聞こえないかの声で、それだけ呟いた。

 それからテーブルに食事を並べ、黙々と口に運ぶ。あまり食欲はなかったのでちまちまと食べていると時間がかかった。

 食器を流しに運び、洗い終わった頃にはもうすぐ九時になっていた。


「父さん、私ちょっと出かけてくるね」

「俊二くんとか?」

「うん。もしかしたら、帰りは遅くなるかもしれない」


 まだ、行くか行くまいか決めてなかったからそう言って、私は家を出た。

 俊二はまだ来ておらず、家の前の塀にもたれて待つことにした。


 空を見上げると、今日は随分といい天気になりそうだ。日差しもやわらかく、海へ行けばいい気分転換になるのではないかと思われた。


 だけど、そんなことをしていていいのかとも思う。

 結局冬香のためには何もしてあげられなかった。冬香にも私たちがなんとかしてあげると言った手前、遊びにいくというのも気が引けてしまう。


 どうしようかと考えるが、決めきれない。

 決めきれないでいるうちに、俊二がバイクに乗ってやってきてしまった。

 もうバイクで飛ばしてもさほど寒くない季節になったので、冬場と違ってかなりの軽装だ。


「おはよう、俊二」

「おう、おはよう。悪いな、早くから。今日の目的地はちょっと遠めだからよ、昼頃に出ると帰りが真夜中になっちまうかもしれねぇんだ」

「あ、うん、その……今日の話なんだけど――」

「ほれ」

「……えっ?」


 行くか行かないか迷っていることを正直に言おうとしたら、俊二が私のほうに何かを放ってきたので、出鼻をくじかれた。

 放物線を描いて飛んできたそれを、両手で受け止める。

 それを見て、私は首をかしげた。


「……カメラ?」


 それは、そのへんで売っている使い捨てカメラだった。

 枚数の少ないやつだが、まだ一枚も撮られていない。これが何なんだと聞こうとしたら、俊二はバイクのハンドルに両腕を置き、あごをその上に乗せてにっと笑って言った。


「今日の行き先だけどよ、変更しようと思うんだ。海もいいけど、どっちかっつーと目的地は山のほうかな。名づけて、"ザ・隠し撮りツアー"ってな」

「え……」


 一瞬呆然としたのち、私は彼の言いたいことを理解した。


「ちょっと、それってまさか」

「バイクなら今日中に行って帰ってこれる。正確な住所もわかるんだろ?

 お袋さんの写真、冬香ちゃんに渡してやろうぜ」


 私はまじまじと俊二の顔を見つめた。

 私はもう、あきらめていたというのに。勝手に写真を撮ってしまおうだなんて、考えもしなかった。でも……


 そうだ。

 何を気兼ねする必要があるだろう。母さんが好きなようにやるというのなら、私も好きなようにする。

 母さんがなんと言おうと、私は冬香に写真を渡してあげたい。

 例え驚いた顔でも、怒った顔でも、真正面から撮ってやる。


「で、お嬢様。お乗りになられますか?」


 ふざけた口調でバイクの後部座席を示す俊二に、私は笑みを浮かべてうなずいた。

 いつものようにヘルメットをかぶり、俊二の後ろにまたがる。

 ぎゅっと彼の腹部に手をまわすと、昨日は我慢した涙がじんわりとにじみ出てきた。


「ありがとう、俊二。あんた、今最高の彼氏よ」

「今だけかよ?」

「ふふ、とりあえずはね」

「ま、いつか"今"を消してやるけどな」


 小気味のいい音をたてて、バイクは走り出した。



     ◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 それから数時間。

 そのアパートにたどり着いたのは、二時半を過ぎたころだった。


 母さんが暮らしている場所。

 住所から探し出すのは多少手間取ったが、ここで間違いないはずだ。

 思ったよりもこぢんまりとしたアパートで、あまりいいところには見えなかった。


 近くにバイクをとめてもらい、私は使い捨てカメラを手にアパートの階段を上がっていく。俊二もヘルメットをしまい、少し遅れて上がってきた。


「部屋はわかってるのか?」

「ええ。確か、209号室だから……あの、一番角の部屋ね」


 わずかに鼓動が早くなるのを感じる。

 チャイムを鳴らし、出てきたところを写そうという手はずになっていた。

 ちゃんと、母さんが出てくるだろうか。知らない男の人が出てきやしないだろうか。昨日と同じ、その不安。

 俊二がいるおかげでやわらいではいるが、完全に消えはしない。


 209号室の前にたどり着いた私の体は、情けないほどかちこちに硬直していた。


「……あれ?」


 私の隣にやってきた俊二が声を上げた。


「どうしたの?」

「この表札……なんでだろう」

「表札?」


 言われて、私は初めて表札に目をやった。そこには、斉藤の文字。

 それで、ここに母さんが住んでいることを確信できた。斉藤秋江。母さんの名前だ。


「何かおかしい? 合ってるじゃない、名前」

「ああ。でも、お前のお袋さんって、今誰か別の男と暮らしてるって言ってたよな。だったらなんでそいつの名前じゃないのかなって思ってよ」

「あ、そういえば……」


 言われてみると、確かに変だ。

 だけど、ここに母さんがいるのは確かなはず。私は意を決して、ドアの横に備え付けられたチャイムを押した。


 ドアの向こうでチャイムが響く。

 中で何かが動く気配は感じられない。

 三十秒ほど待ったが、誰も出なかった。


 もう一度鳴らしてみる。

 ……やはり出ない。


「留守かしら」


 おそらく台所と思われる窓からは電気がついている様子は伺えなかったから、留守のようだ。私が俊二を見ると、彼は身をかがめて頭を掻いた。


「参ったな……留守ってパターンは想定してなかった。帰ってくるまで待って、そこの階段を上ってきたところをパシャッとやるか?」

「そうね。でも……」

「どうしたよ。なんか浮かない顔だな」

「うん……。休みの日に出かけてるってことは、たぶん男の人といっしょなんだと思わない? ここで待ってたら、二人して帰ってくるところに鉢合わせしちゃうことになるから、あんまり気が進まなくて……」

「なんだよ、そんな男のことなんか気にすんなって。こちとら娘なんだ。そんなどこの馬の骨かも知れねぇようなやつに腰引いてどうするよ。堂々としてりゃいいんだよ」

「そう、よね。うん、わかった」

「ま、実際いつ帰ってくるかわからねぇから、どこかで時間つぶしてからまた来るってのもありだけどな。どうする。ここで待ってるか? それともどっかで時間つぶしてくか」


 俊二の問いに、私はここで待とうといいかけた。

 が、そこに割り込んでくる声があった。


「斉藤さんなら夜まで帰らないよ」

「えっ?」


 声のしたほうを見ると、買い物袋をさげたおばさんが階段を上ってくるところだった。


「あの、あなたは?」

「あたしゃそこの、208号室の住人さ。あんたらこそ、斉藤さんの知りあいかい」

「え、えぇ。まあちょっとした」


 娘だとは言いにくかった。

 おばさんの目がよく言えば好奇心に満ちた、悪く言えば野次馬的なものに見えたからだ。


「それより、夜まで帰らないってのは……」

「あぁ。あの人、いつも昼過ぎに働きに行っては帰ってくるのはだいたい夜中だからね。それもあまりいい仕事じゃないようだしねぇ」

「いい仕事じゃないって」

「……あんたみたいな娘さんに言うことじゃなかったかね。いや、今時はそうでもないわね。詳しくは知らないけれどね、水商売みたいなことやってるみたいだよ。

 ま、ちょっと前に男に逃げられて、働かざるを得ないんだろうからあんまりきついことは言えなけどさ」


 私は耳を疑った。


「逃げられた!? いっしょに住んでいた人が、出て行ったってことですか?」

「そうさね。一ヶ月ほど前だったか、部屋の中から怒鳴りあう声が聞こえてね。それっきり、出て行っちまったみたいだよ。

 その表札だって、ほら。それまでは初原ってその男の名前になってたけど、もう変わっちゃってるから戻ってきやしないんだろうね」

「そう……ですか……」


 突然もたらされた情報に、私はただただ驚いてそれ以上何も言えなかった。

 母さんといっしょに暮らしていた男の人が、一ヶ月前に出て行った?

 じゃあ、今は一人で暮らしているということか。


 呆然と、情報を頭の中で整理する間、俊二がおばさんに「ありがと、奥さん」と礼を言っているのが聞こえた。それで満足したのか、おばさんは208号室に入っていく。


「こいつは、ちょっと予想外なことになってきたなぁ」

「ええ……」

「どうする? さっきのおばさんの話じゃ夜中――たぶん七時や八時じゃないだろうな。お袋さんが帰ってくるのはかなり遅いみたいだけど」


 私は少しの間うつむいて黙考し、決心した。


「……俊二、お願いがあるんだけど」

「先に言っとくけど、俺のバイク便は二十四時間営業だぜ」

「……あんたって、私の考えてることがよくわかるわね」

「当然っ。最高の彼氏目指して特訓中だからな」


 特訓しなくても、もう十分最高よ。

 と、それは恥ずかしくて言えなかった。



     ◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 陽が落ち、夜が来た。

 あたりはしんと静まり返り、時折遠くから踏み切りの音が聞こえてくるくらいで、目の前の道には車も通らない。

 回りの住宅からはいくつも明かりが漏れているが、電気のついていない部屋の前にいる私には妙に暗く感じられた。


 昼間にここを訪れてから七時間。

 時計の針はすでに九時を回り十時に向かおうとしている。

 私と俊二は一旦近くのファミレスに入り、そこで時間をつぶすことにした。


 帰りがかなり遅くなることを父さんに電話で断り、八時を過ぎた頃再びここへ戻ってきた。

 九時を過ぎても、まだ母さんは帰ってこない。隣家のおばさんの言っていた言葉に、私はひどく違和感を覚えていた。


 水商売……

 実を言うと、どんな仕事なのか詳しいところを知っているわけではない。

 ただイメージだけが先行している節がある。


 けれど、その職業に自分の母親がついているということを想像することはひどく難しかった。なぜなら、私にとって母さんはやはり"母親"であるからだ。

 一人の女性として見たことは今までになかった。


 母さんがそういう仕事をしているらしいということは、ショックだった。どんな顔をして会えばいいのだろう。いっそのこと、写真を撮ったら何も言わずに立ち去ろうか。

 緊張でも不安でもなく、迷いが大きくなってくる。


「あれこれ考えんな。会ってみりゃ案外あっけないもんかもしれないぜ」


 俊二はそういって私を励ましてくれたが、じっと待っている時間は楽なものではなかった。


 やがて――


 カツン、カツンと、階段を誰かが上がってくる音が響いた。

 音からして、ハイヒールのようだ。私は無意識のうちに息を止め、階下から上がってくる人影を凝視した。


 頭が見え、影の下に顔が出てくる。

 全身が階段を上りきったところで、電灯のもとに照らし出された顔が見えた。

 そして、あちらも私たちに気づいた。


 その時、私は思っていたほどの動揺を感じなかった。

 なぜなら、相手のほうがもっとずっと驚いて動揺しているのが明らかだったから。

 動揺を吸い取られてしまったように、私は冷静に母さんを見据えていた。


「は、春香……」


 階段を上りきったところで固まったように立ち止まっていた母さんは、口を小さく開けて呟いた。

 母さんは、今まで私が見たことのないような姿をしていた。念入りな化粧にいくつも装飾品を身につけ、派手な服で着飾ったその姿は、"女"を感じさせるには十分ないでたちだった。


 きっと、家を出て行っていないときにこんな格好をしていたら私は喜んでいただろう。

 自分の母親がきれいに見えるというのは、悪い気分じゃない。

 けれど、今はまったく嬉しくなかった。この姿は、私や自分のためにしているのじゃない。何の関係もない誰かのためにしているのだから。


「どうして、ここに……」


 階段の上から動けないでいる母さんに対し、私は答えなかった。

 ただ、足を踏み出して数メートルの距離まで近づく。

 そして、黙ったままカメラを目の高さに持ち上げた。


 カメラの覗き穴の中で、母さんが目を見張るのが見える。

 シャッターを押すと、影がフラッシュで一瞬消し飛ばされ、昼間のように明るくなった。


 ……用は済んだ。

 やっぱり、このまま何も言わずに帰ろう。


 私はカメラを持った腕をおろし、すっと母さんの隣をすり抜けた。


「あ、おい、春香!」


 俊二が声を上げて追ってくる。カツン、カツンと足音を響かせながら、私は階段を下る。

 振り返るつもりはなかった。俊二がバイクを発進させるまで、うつむいているつもりだった。


 が――


「待って!!」


 母さんの声に思わず足を止めてしまったのは、実はそれを望んでいたからかもしれない。呼び止めてもくれないようなら、もう本当に忘れてやろうと、そう思っていた。


「待って……待って頂戴。そんな写真を、冬香に見せないで」

「まだそんなこと言うのっ?」


 振り向きざま、私はそれでも抑えた声で母さんを射た。

 母さんの向こうには、困惑顔の俊二がいる。

 母さんは――母さんの顔は、意外にも泣きそうに歪んでいた。


「この写真も渡せないなんて、言わせないからね! 私は私の思ったように、冬香のためにやってるんだから、邪魔はしないで」

「ごめんなさい、春香……あなたがここまで来るなんて、思ってもいなかったのよ。だから……」

「だから、なに」

「写真を渡さないでとは、言わないわ。でも、こんな姿の写真を、冬香に見せないでほしいのよ」

「…………!」


 私はハッとした。

 私でさえ、母さんの母さんらしくない姿にショックを受けた。

 もし冬香がこれを見たらどう思うだろう。


 いや、冬香はなんのための姿なのかを理解はしないだろうから、大丈夫かもしれない。わからなければショックの受けようもない。

 けれど……


 私は、冬香には見せたくないと思った。


「でも、だからって……写真を見せないわけにはいかないのよ」

「わかっているわ。春香の気持ちは……わかるつもりよ。その写真は渡さないで。その代わり、普通の姿を撮って頂戴」

「え……」


 母さんは言うと、きびすを返して部屋の鍵を開けた。私が見ている前でドアは開けられ、その中に入っていく。そして、母さんが入った後もドアは開け放したままだった。

 私に入ってくることを望んでいるように。


「行こうぜ、春香」


 俊二に腕をひっぱられ、階段を上った。

 部屋の中に入るのにはやはりためらいがあった。

 母さんと、知らない男性が暮らしていた部屋。

 こんなところ、父さんは絶対に入ろうとしないだろう。私も入りたくなかったけれど、目的がある。


 私が躊躇しているのを察してくれたのか、俊二が先にたって中に入ってくれた。後に続いて入り、私はすぐに母さんの姿を探した。

 が、部屋に入って見渡せる場所には母さんはいなかった。


 玄関から奥の部屋へ続く廊下の途中にある扉が半開きになり、そこから物音がしていた。


「着替えてるみたいだな」

「着替えて……」

「よかったじゃんか。冬香ちゃんに見せるための写真を撮らせてくれるんだろ。どうしたんだよ、また浮かない顔してんな」

「うん、まぁね。冬香にああいう姿を見られたくないって言うくらいだから、母さんも冬香のことが気にかかるんだってわかったから、それはいいの。

 でも、写真を撮らせてくれるんなら、やっぱり授業参観に出てくれないかなって、そう思っちゃって……」

「それは……難しいんだろうな。今日みたいな時間に仕事に行ってるんじゃ、時間的に厳しいのは確かだ」

「だけどっ、仕事と冬香、どっちが大切だっていうのよ!」

「ん、んなこと俺に言われても……」

「あ……ご、ごめん。つい」

「いや、かまわねぇけどさ。けど、そうだな。なんとかして来てもらう方法はないもんか……」


 俊二が口を閉ざしたので、私も無言で、二人とも玄関に立ち尽くしたまま母さんが出てくるのを待った。やがて部屋から出てきた母さんは、家に居た頃と同じになっていた。


 "女"ではなく、"母親"の姿に。


「この格好で、撮ってくれないかしら。わがまま言って本当に悪いと思ってるわ。でも、冬香には――」

「わかってる」


 母さんの言葉をさえぎり、私はカメラを構えた。

 家にいたときと同じ母さんが、カメラの向こうで無理に笑顔を作ろうとしている。私の胸はふいに熱くなった。


 シャッターを切る。

 一枚でいいのに、フラッシュなしでさらに二枚を撮った。


「ねぇ、母さん。やっぱり月曜日、冬香の授業参観に出てあげてよ」

「それは……できないって言ったはずよ。忙しいのよ。わたしが今なんの仕事をしてるか、だいたい察しはつくでしょう?」

「わかるわ。……隣のおばさんに聞いたから。それ以外にも、ね。

 母さんは、もう一人で暮らしてるんでしょう!?

 だったらもう、いいじゃない。戻ってきてよ!

 授業参観だけじゃなく、ずっと!」


 そう、本当はこれを言いたかった。

 もう家を出て行く理由はないのに、どうして戻ってきてくれないのか。憤りを感じてはいたけれど、それでもやっぱり戻ってきてほしい。

 これは冬香のためとかではなくて、私自身のため。


 しかし、母さんは何も言うことなく、そして私と目を合わせようとしなかった。それはどんな言葉よりも、強い否定に思われた。

 父さんが許さないから戻れないのだろうか。それとも、そうでなくても今更戻るわけにいかないと考えているのだろうか。

 わからなかったけれど、私はその話はもうしないと決めた。


「いいよ、もう。もう言わない。でも、やっぱり、せめて授業参観には……一日くらい、休めるでしょう?」

「無理なのよ。一日だって休みをくれなんて、言えるようなところじゃないわ。入ったばかりだから、そんなことはとても言えないとわかってる」

「じゃあ、時間さえあれば授業参観に出る気はあるんですね?」


 そこで初めて、俊二が母さんに対して言葉をかけた。


 そう、そのとおりだ。

 忙しいとか時間が無いとか、そういうこと以前に、母さんに来る気はあるのか、それをまず確かめるべきだった。


 俊二の問いかけに、母さんは弱々しいながらも、はっきりと「あるわ」と答えた。

 それならと、俊二はさらに聞いた。


「せめて仕事に行く時間をずらすか、遅らすかはできないんですか。そう……せめて、六時くらいに」

「それは……たぶん、できないことはないけれど。それじゃあ間に合わないわ」

「そんなことはないですよ。春香、確か授業参観は三時間目だったよな。つまり、正午までには終わる」

「え、えぇ。確か、三時間目の終わりは十二時前だったけど……どっちにしろ六時間じゃ…………あっ、まさか俊二」


 何を言いたいのかわかったとたん、彼は私に対して小さくウインクしてみせ、母さんに真剣な表情で――ただし軽い口調で言った。


「実はここに、冬香ちゃんの小学校付近からここまでを五時間ちょいで来る実績を持ったバイク便がいるんですよ。仕事の開始を六時にずらすことができれば、授業参観が終わってからすっ飛ばせば十分間に合います。ご利用になりませんか?」

「バイク便って……もしかして、俊二くんのこと?」

「そうですよ。今日も俺のバイクで来てるんです。九時に出て、ここに着いたのが二時過ぎ。今度は細かい道も把握してるから、もう少し早く来れるでしょうね」

「ちょっと、俊二。授業参観は月曜なのよ? 学校はどうするのよ」


 私が言うと、俊二は我が意を得たりという顔で言った。


「春香の言を借りるなら、学校より冬香ちゃんが大事、だな」


 まるで冗談を言うような口調だったけれど、その瞬間母さんの表情に変化が起こったのを見逃さなかったので、ああそうかと納得できた。

 俊二は母さんに聞かせるため、わざとそんな言い方をしたのだ。


 私が言わないでいた、仕事と冬香のどちらが大切なのかという問いかけを、より婉曲な形で伝えるために。そしてそれは、功を奏した。

 母さんは服のすそをぎゅっと握り締め、ややかすれた声で言う。


「……お願いできるかしら、俊二くん」

「お安い御用です」


 それまで真剣な表情だった俊二が、ぱっと笑った。

 私はその笑顔に、じっと視線を注ぐ。


「俊二、あんた……」

「へへ、"今"を外してくれる気になったか?」


 あくまでとぼけた口調、とぼけた表情に、私は思わず泣き笑いの表情の上、頬が赤くなるというわけのわからない状態に陥った。


「……ばかね。"今"なんて外すわけないじゃない。"今"ってのは、いつでもそのときその瞬間のことなんだから」

「ああ、なるほど。そりゃそうだ」


 なんのことかわからない会話を交わす私と俊二を、それでも母さんは眩しいものを見るような、温かい目で見てくれていた。


 それが、心底うれしかった。



     ◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 三時間目の終わりを告げるチャイムが鳴り響く。

 チャイムと同時に教科書を閉じて数学の先生が出て行くなり、私は教室を飛び出し、そのまま校舎も飛び出した。

 制服のまま、いつもは放課後に俊二と並んで歩く道を小走りに駆ける。


 じんわりと蒸すような陽気の中、走っていると額に汗が浮かんだ。

 普段走ることなどあまりないから、息もすぐに上がってしまう。それでも冬香の通う小学校までの数分間、止まらずに走れたのは我ながら天晴れだと思う。

 そうしないと時間的な余裕がなくなるからだ。


「春香!」


 小学校の正門付近までたどり着いたとき、横をすごいスピードでバイクが駆け抜け、私の少し前で制動をかけた。

 振り返ったライダーのヘルメットの中から俊二の顔が覗く。


「なんだよ、言ってくれたら乗せてってやったのに」

「は、はは……そうね。忘れてたわ」


 息を切らしながら笑う。そんな私と俊二の周りに、しだいに子供とその母親連れの組が増えてきた。

 こちらも、ついさっき三時間目が終わったところのはずだ。

 四時間目までの休み時間の間に母親を見送ろうという子供が正門まで手をつないだりしてやってきている。


 邪魔にならないように、俊二はバイクを門のかげにどかしてから降りた。


「お、あのガキ、あの時冬香ちゃんを泣かしてたやつじゃねぇか」


 俊二の言葉にそちらを見ると、見覚えのある子供が母親の腕にしがみついてやってくるところだった。

 あの、たぶん将来口が達者になると思われる小生意気な子だ。

 数日前のことだというのにすでに私のことは忘れているらしく――単に目に入らなかっただけかもしれないが――その子は正門で母親に「ばいばーい」と甘えた声を出していた。


「ははっ、かわいいとこあるじゃん、あのガキも」


 それを見ていた俊二がおかしそうに笑う。

 私も、頬をほころばせた。


 しばらくして、校舎から冬香が出てくるのが見えた。

 右手を横にいる母さんとつなぎ、左手に画用紙を握り締めて、笑顔でこちらへ向かってくる。

 二人がなごやかに話している雰囲気を見て取って、私はさらに頬が緩んだ。


 ――昨日の夜。

 夜中の三時を過ぎる頃に帰宅した私に、父さんは何も言わなかった。


 ただそれまでずっと起きていて、私が帰ると一言「おかえり」とだけ言ってくれた。

 もしかしたら、私がどこへ行っていたのかを気づいていたのかもしれない。


 父さんは、まだ母さんを許せないのだろうか。

 いや、まだというほど時間は経っていない。それを言うならまだ半年、だ。

 きっと、いつかまたいっしょに暮らせる日がやってくるに違いない。

 そうであってほしいと思う。


「お姉ちゃん! 俊二兄ちゃん!」


 私たちに気づいた冬香が、歓声を上げて走ってきた。そこで私ではなく俊二のほうに飛びついていくものだから、少々悔しさを感じたけれど、まぁ、今回の一番の功労者は彼だし、ね。

 大目に見てあげることにしよう。


「母さん……」


 母さんは、この間と違って穏やかな顔をしていた。それでも、私を見る目に複雑な色が残っているように見える。それは母さんというより、私の方に原因があるのだろう。


 冬香は昔と同じように接してくれるから母さんもそう振舞える。

 けれど、私は完全に同じように接することはできない。

 お互い対応に困っていると、冬香が持っていた画用紙を広げて私にかざした。


「見て見て、お姉ちゃん。上手でしょ」


 その絵を見て、私は意外に思った。

 てっきり母さんの絵が描いてあるものだと思っていたら、それだけじゃない。お世辞にも上手とは言いがたい母さんの絵の周りに、私、冬香、父さん、そして俊二らしき人物まで描かれていたのだ。


「おおっ、冬香ちゃん、これ俺だよな? な?」

「うん、そうだよ。あたしね、大好きな人をぜーんぶ描いたの。俊二兄ちゃんも大好きだから」

「くぅーっ、やっぱりいい子だぜ、冬香ちゃん! お嫁さんにしたいくらい!」

「こら」

「あはは、冗談だって。睨むなよ、春香」


 くすくすと、母さんが笑った。


「へへへ……」


 俊二が照れたように笑って、それを隠すかのようにヘルメットを差し出した。


「それじゃ、行きましょうか、お母さん」

「ええ」


 ヘルメットを受け取った母さんは、一旦冬香の前にしゃがみこんだ。


「それじゃあ、お母さんはもう行かなくちゃならないから。今日はありがとう、冬香」


 そう言って冬香の頬にキスをした。

 そうしたら冬香が、絵を母さんに差し出して言った。


「これ、お母さんにあげる。ずっと持っててね」

「……ええ、そうするわ。本当にありがとう、冬香」


 絵を受け取った母さんは、大切にそれを丸め、バッグの中にしまいこんだ。

 ヘルメットをかぶり、俊二に促されてバイクの後部座席にまたがる。エンジンが駆動し、盛大な

音がなり響いた。


 私は最後に、母さんに「ばいばい」と言おうとした。

 が、先に別れの挨拶をしたのは冬香のほうだった。


「行ってらっしゃい」


 と。

 ばいばいでも、またね、でもなく、行ってらっしゃい。

 母さんの帰る場所はここなんだという冬香の言葉に、ヘルメットの中の母さんの目に涙が浮かぶのが見えた。

 私はなんだか、すごく穏やかな気持ちになって、やはり「行ってらっしゃい、母さん」と言うことができた。


 バイクが唸り、熱い空気を吐き出す。俊二が手を軽く上げてバイクを発進させる直前、母さんの口から小さく「行ってきます」と聞こえた。


 けたたましい音とともにバイクは走り去る。


「行ってきますって言ってたね」


 私が言うと、冬香はうれしそうに「うん!」と答えた。

 その時ちょうど、四時間目の開始を報せるチャイムが鳴り響いたので、私は手を振って冬香を校舎の中へと送り出した。


「さて、と……」


 それから私がどうしたかというと、その日は高校に戻らなかった。

 代わりに、そのまま俊二の家へ行き、昼は両親が共働きで誰もいないその家の前で数時間、ただ待っていた。


 いつ戻ってきても、「お疲れ様」と言って俊二を出迎えられるように。



     ~ 終 ~


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