18.鈍色の落馬
旅は順調に進み、視察地は1箇所を残すのみとなった。あと2日ほどで屋敷に戻ることになる。帰ってホッとしたいという思いと、もう少しティアと旅を楽しんでいたいという思いが入り交じる。平地の道ほどでは無いが適度に整備された山道は、木の葉が夏の日差しを遮ってうすい緑に染まっていた。ティアも流石に馬で山を越える事には慣れていない。馬達にも少し旅の疲れが見える為、こまめに休憩を取りながら進んだ。予定よりも時間がかかっているが、日が沈むまでにはなんとか山を降りたいものだ。この山は獣が多いので夜の移動は危険だ。
「アデルバート様、少し空が怪しくなってきました。先を急いだ方が良いかもしれません。」
デュークが馬を寄せて空を指しながらそう言った。ついさっきまで木漏れ日が鮮やかだと思っていたのに、いつの間にか白鼠色の雲が集まってきていた。山の天気は驚くほど移ろいやすい。
「わかった。ティア、大丈夫か?」
「もちろんです。」
私はティアを確認してから少しスピードを上げるよう全体に指示を出す。私はデロリスの首をポンポンと叩いて彼女を励ました。私の愛馬であるデロリスは先の戦争にも耐えた、勇敢で辛抱強い馬だ。加えて聡明で私の意図を汲み取って軽やかに走ってくれる。屋敷に戻ったらゆっくり休ませてやらなくては。しかし、急いでいる時に限って邪魔が入るもので、私達の一団は、山頂を超えて間もなく狼の群れに襲われた。隊長のデュークは護衛を3人残し、残りの護衛を連れて慌しい前線に馬を走らせる。私とティアとアグリは3人の護衛と共に一度山頂に引き返す。山頂は少し開けた場所が有るので木の影から急に襲われる心配がない。四方を固めてティアを守ることも出来る。
「ティア、行こう。私から離れるな。」
そういうと、ティアは神妙に頷いた。しかし、悪い事は重なるように出来ているらしい。
「雨…。」
ティアのつぶやきに空を見上げ、おもわず舌打ちする。いつの間にか厚みを増した雲が雨を振らしはじめた。きっと激しい雨になる。雲が鈍色をしているから。私達は先を急いだ。
山頂の少し開けた場所に着くと、雨除けのマントを被る。木下で雨宿りはできない。元々狼の急襲を避けるためにここまで戻ったのだから木や藪から離れなくては意味が無い。狼が居なくても雷の気配がするので木の下には入らなかったかもしれないが…。護衛達は馬を降りてティアと私を守るように囲むと、剣を抜いて辺りを警戒している。雨に打たれるのが、あまり長くなるとティアが体調を崩したりするかもしれない。護衛隊が迅速に仕事を終えられるように祈るしかない。ティアは不安そうな表情で手を握り締めている。弱音を吐くまいと引き結んだ唇が色を無くして痛々しい。私は出来るだけ穏やかな表情を心がけながらティアに近づいた。
「ティア。」
「アデルバート様…。」
名を呼ぶ声はいつになく弱々しかった。
「大丈夫だよ。すぐ終わる。」
そう微笑みかけると、ティアは雨の向こうで一度ゆっくりまばたきをしてから、小さく微笑み頷いた。私はそれを確認してから視線を前に戻した。馬上から辺りの様子を警戒する。ティアを挟んで反対側ではアグリが私達の背後に目を光らせている。
と、その時だった。
ごくごく近くに雷が落ちた。私達は一瞬空に気を取られてしまった。
「だめっ、止まりなさい。」
そういうティアの声にはっとして視線を戻すと彼女の乗った馬は既に全力で走り始めていた。その上でティアが今にも振り落とされそうになっている。
「手綱をっ!」
アグリがそう叫ぶが、ティアは体勢を崩していてそれどころではない。私はその光景を目にして、無意識にデロリスの腹を蹴っていた。あっという間に藪に飛び込んで行く馬の姿を追って私も木々の間に飛び込む。
「アデル様っ!」
呼び止める声が聞こえたがそんな物は無視した。
下り坂を転がるように駆け下りていく暴走馬を夢中で追い掛ける。しかし、急に足場の悪い道を走らされてデロリスはいつもの調子が出ない。
「ティア!カシュー!止まれ!」
叫ぶけれども私の声は届かない。むしろ、怒鳴り声に怯えたのか、ティアが乗るカシューはスピードを上げた。何かあった時に逃げられるようにと、足の早い馬を選んで乗らせていたのが仇となった。デロリスも必死に走ってくれるが、なかなか距離が縮まらない。叫ぶ事も出来ずにカシューにしがみつくティアだけれども、いつ振り落とされてもおかしくない様に思えた。
―ティア―
後を追うことに必死で、頭の中にろくな打開策は浮かばず、ただ彼女の名前を繰り返す。
どのくらい走ったのか、後ろから追い掛けて来る気配は無い。護衛達は馬から下りていたし、アグリは乗馬に慣れていない。後続を期待する方が無茶だろう。闇雲に走った為に方向感覚も無くなっていた。悪い事ばかりの状況で、しかし、カシューは疲れ始めたのか距離が縮まってきた。小さな希望に縋るようにデロリスを急かして、なんとか隣に並ぶ。踊るように不規則に動く手綱をつかもうとするが、なかなかつかめない。別の方法をと考え一度手をひいた瞬間、彼女の体が馬上で弾んだ様にみえた。落ちると思ったその瞬間、私は腕を伸ばしてティアを抱き抱え…そのままバランスを崩して地面へと転がり落ちた。一瞬の出来事の中で私はティアに怪我をさせまいと彼女を抱きこむ事しか出来なかった。
「ティア、無事か?」
どくんどくんと胸が鳴り響くのを感じながら、恐る恐る腕の中に声をかけた。
「はい。…あなたも?」
返ってきた小さな…でも穏やかな声を聞いて、言葉に詰まった。彼女が無事だと安堵する気持ちと、本当に怪我などしていないか一刻も早く確かめたい気持ちがない交ぜになって押し寄せる。腕をほどいて体を起こす仕草に違和感は無い。ずぶ濡れで泥だらけだが、それだけで済んだのなら奇跡だ。
「なんて無茶な…ケガしてないっ?」
黙って彼女の無事を確認している私に向かって、ティアが急に非難の声を上げた。その顔は恐怖に引きつり、色を無くしている。
「すまない。怖い思いをさせてしまった。」
私は思わず彼女の頬に手を置いて、宥めるようにそっと撫でた。本当はもう大丈夫だよと抱き締めたいが、弱みに付け込むような事は出来ない。ティアは手を重ねるとブンブンと首を横に振った。
「違う!あなたがっ!」
「…?」
「アデルが怪我でもしたら、どうするのよ…。」
ティアは私の手を両手で包んで、そこにおでこをつけるような形で顔を隠した。彼女の体温は私のそれより低い。ひんやりとした手が小さく震えている。私はティアが泣くのをはじめて見た。しかも、私を思って泣いてくれているらしい。しかしそこに喜びは無く、ティアの涙が胸に刺さる。守りたかったのに泣かせてしまった。
「すまなかった。」
私は小さな体が震えるのを見ていられなくて、彼女を引き寄せてしまった。ティアが少しの抵抗も無く腕の中に収まったことに励まされて、慰めるように背中を撫でた。申し訳なさで胸が詰る。それでも、もしまた同じ事が有ったら、私は同じように後先考えずにティアを助けようとするだろうと思った。ティアを失うかもしれない…その瞬間に私は冷静でなどいられない。ティアを抱き締めていても、失うかもという想像はそれだけで恐怖だった。
「君を助けなくてはと、無我夢中で…。私もティアに何かあったらと…気が気でなかったのだ。」
つい、言い訳がましい言葉が口をついて出てしまった。腕の中でティアは驚いたように顔をあげてから、きゅっと眉間にしわを寄せて切なげな表情になると、黙って私の胸に顔を埋めた。その手はきゅっと私を締め付ける。
私はそれを呆然と受け入れることしか出来なかった。そういえば、彼女から私に触れる事など今まで無かったのだ。触れ合う部分がやけに熱い。




