16.桜色の不満
結局、私の自制心が全く宛てに為らないと悟ったダンテスは、私の予定に泊まり掛けの仕事を組み込むようになった。結婚したてのティアへの配慮から遠方へ赴くような仕事は後回しにされていた為、行かなければならない場所はたくさんあった。領地の中でも遠方を駆け回る。そしてたまに家に帰ってティアと食事を取っても、その後には大量の書類整理が用意されていた。もちろん、酒も飲ませてもらえない。そうしてしばらく経つと、私も何だか3ヶ月の空白期間を守るべきだという気持ちになってきた。もうここまできたらちゃんと期間を置いた後に、何の憂いもなくティアを口説き落としたい。そう諦めて仕事に集中した。家で悶々としているよりマシだとも思えた。
家を長く空ける償い…と言う訳ではないが、私はティアに様々なお土産を用意するようになった。同じ領地内でも、場所が変われば珍しいものがたくさんあった。ハーブの株や野菜の種から始まって、草木染のハンカチ、ダイアモンドの原石、からくりが施されたアクセサリーケース、木彫りの花瓶、レースの扇子などそれぞれの土地で目に付いたものを何かしら持ち帰る。数日毎の贈り物をティアは喜んだり呆れたりしながら受け取ってくれた。
今日はガラスのティーカップを持ち帰った。これを作った工房ではガラスの強化に成功していて、繊細な見た目とは裏腹に意外と強度はある。それが何だかティアを思い出させたのだ。もちろん、余計なことは言わずに夕食の席で贈り物を渡すとティアは目を輝かせて喜んだ。
「お揃いでガラスのティーポットが有ればいいのに…あの形を作るのは難しいのかしら?」
ふと呟いた彼女の言葉を今度職人に伝えようと胸に刻む。女性の感覚というのはバカに出来ない物なのだ。
しばらくガラス工芸についての話に花が咲く。彼女も領主夫人なのだから、領地の特産についてはある程度知る必要がある。
「そういえば、こちらに来る前、王都でガラス細工を見ました。」
「おや、それは凄い。ガラス工芸は最近始めたばかりで、まだ領地の外へ出回っている量は多くないんだよ。」
私の言葉に彼女はその店の店主もそう言っていたと頷いた。
「最初は綺麗なだけで、何に使うかわかりませんでしたが、リボンの形をしたものでカバンや家の鍵に付けるものだと教えて貰いました。」
「あぁ、ナタリーの工房でそういった物を作っていたかもしれない。」
「ナタリーの工房?」
私はガラス工房の中でも一際目を掛けている工房を思い浮かべた。ガラスを愛して止まないその工房の職人頭は、珍しいことに女性なのだ。快活で豪快な人柄に反し、なかなか可愛らしく繊細なものを作る。
「あぁ、女性の職人は珍しいんだが、中でもナタリーはアイデアが豊富でね。視察の時は必ず寄る工房なんだ。」
「まぁ、面白そうですね。」
ティアが興味津々と言った顔でこちらを見るので、私はナタリーについて話して聞かせた。はじめて会った時の不遜な態度、私が彼女の作った物に興味を示した時の変わり身の早さ、ガラスについての熱い議論、若いのに割としっかりとした工房経営、弟子との喜劇のようなやり取り、ナタリーに甘いパウロ、パウロに弱いナタリー…話しだすとティアは質問を織り交ぜつつ楽しそうに聞いていた。私もナタリーとパウロの姿を思い浮かべるだけで、つい口元がゆるんでしまう。
不意に、ティアが小さなため息をついた。私はまた長々と話しすぎたのだろうかと焦る。しかし彼女の口から出てきたのは予想外の言葉だった。
「私も、行ってみたいですわ。」
一瞬何のことか分からなかった。しかし、今の話の流れならナタリーの工房以外に無いとすぐに思い至る。
「ナタリーの工房に?」
「はい。ナタリーの工房にも、麦畑にも、街道の工事現場にも。」
彼女の目に浮かぶのは羨望と好奇心と…焦燥?
「ティア?」
私は彼女の真意を汲み取ろうと首をかしげるが、ティアはふと我に返ったように私を見て、急に慌てだした。
「あ、いえ。女の戯言ですわ。忘れて下さいませ。ただ、毎日が…その、穏やかなもので。」
毎日が穏やか…彼女の言葉を反芻して、言わんとしている事に気付き、悪いとは思いつつ口角が上がるのを押さえられない。
「……退屈なのか?」
そう尋ねた瞬間の憮然とした表情がほほえまし過ぎる。
「……はい。家の事は侍女達がしてしまって、私にはお仕事がありませんの。」
ティアは渋々そう言うと、すねた様に桜色の唇を尖らせた。その仕草が可愛らしくて、私はこみあげてくる衝動に口を手で覆う。そうでもしないと引き寄せて口付けてしまいそうだった。そんな私の心中を知ってか知らずか、ティアは目を鋭く細めてこちらを見つめる。
「失礼。」
私は彼女の視線を受けて居住まいを正した。しかし、先ほどのティアの可愛らしい仕草を思い出してはどうしても口元は緩んでしまう。彼女が不満を口にするのははじめてだった。夫としては可愛い妻の憂いを取り除いてやりたい。
「ティアも来るかい?」
だから、その言葉はよく考えもせず口にしていた。言ってしまってからあまりの考えの無さに一瞬しまったと思うが、放った言葉を取り返すことは出来ない。
「え?」
期待のこもったティアの様子に、私は発言を取り下げる事は出来なかった。むしろ、考えの無い発言ではあったが、名案のように思えてくる。
「1週間後から10日間かけて領地の中でも遠方を回る。視察だから観光などはできないが、それでも良ければ一緒にくるか?」
私の言葉にティアが目を見開いている。その彼女の後ろではティア以上にダンテスが驚いていた。視察に共に出てしまえば、ダンテスは歯止め役に成れない。ラファエル家の平穏は私の良心と自制心にかかっていると言っていい。けれど、屋敷の中で退屈を持て余すティアを放っておく事もできなかったのだ。決してダンテスの居ぬ間にティアとの距離を詰めようなどとは思っていない。だからあんまり睨むなと言いたい。
「…いいのですか?」
私とダンテスの小さな攻防をよそに、ティアは喜びに頬を染めている。
「あぁ、不自由することも有るかもしれないが…。」
「そんな、大丈夫ですっ!」
こんなに喜ばれてしまっては、ダンテスも否やは言えないだろう。
「では、ティアと、侍女を1人連れて行けるように手配しておく。」
「ありがとうございます!」
ティアはそう言うとガバリと立ち上がり、私の手を取った。私は跳ね上がる鼓動をさとられまいと微笑む。その様子を見てダンテスは苦笑を浮かべながらも私を睨む目を鋭くするが、ティアに手を握られている私には痛くもかゆくも無い。
「では、1週間後だからね。体調を整えておきなさい。」
私はそう言うと、そっとティアの頭に手を乗せた。そうでもしないといつまでも手を握って離せないような気がした。私の手の中でティアは少し恥ずかしそうに身動ぎしたけれど、されるがままに頭を撫でられ、はにかんでいる。その顔がなんだか嬉しそうに見えるのが私の勘違いでないといいのだが。
食事が終わって私室に戻るとダンテスはやってくれましたねと言うような顔をした。彼の笑顔は時々容赦なく怒りを伝える。
「仕方ないさ、最近忙しくて何処にも連れていってあげられないし。放っておく訳にもいかないだろうし。」
私の言い訳にダンテスはふっと短いため息をついた。
「ご自分でもあと1月我慢する気になられていたのに、わざわざ共に過ごす夜を増やさなくてもいいでしょうに…。」
彼の正論に私は頭をかいて目を逸らすしかできない。




