11.月影色の暴走
シガータイムもお開きとなり、部屋に戻ろうとしてダンテスに止められる。
「本日より、お部屋が変わっております。」
あぁそうかといって方向を変えた。今日、私室が領主の部屋になったのをすっかり忘れていた。
「湯浴みはいかがなさいますか。」
「今日はもう疲れた。明日、朝に用意を頼めるか。」
「承知しました。」
居間のドアの前で明日の予定を簡単に確認すると、ダンテスはお休みなさいませといって部屋を辞した。
私はあまり着替えや湯浴みなどで使用人の手を借りる事を好まない。家を出てすぐは市井に混じって使用人の居ない生活を送った。それが意外と馬にあっていて子爵となってからも最低限の使用人しか使ってこなかった。家を継いで侯爵と成った今では多数の使用人を抱えているのだが、それでもあまり私室に人がいるのは好きではない。服を脱いでいる時まで領主然としていなければいけないのは苦痛だし、人の手を借りるとかえって時間がかかりじれったいのだ。ダンテスは私の好みを尊重してくれて、私室の中では割りと一人で過ごさせてくれる。そんな私室で一人で過ごす時間が私にとっては重要な息抜きの時間だった。もしかしたら、護衛の陰者が居たりはするかもしれないが、覗き見しているものの目までは気にしなくてもいいだろう。
いつもよりも少し窮屈な略式の正装を脱いでソファに放り投げる。用意されていた夜着に着替えて脱いだものは適当に重ねておく。水差しからレモンの浮かんだ水を注いで一気に飲んだ。酒ばかりでは喉が渇く。程よく冷えた水に、つい先ほど用意されたものだと分かる。直接的に手を借りていないだけで、私の生活は使用人達によって支えられている。脱いだ服だって朝起きると片付けられて跡形も無い。それに甘えて居るくせに私室では自由で居たいなど、とんだわがままだろうかとも思う。
着替えが終わるとすぐに寝室に向かう。今日は朝からそわそわしっぱなしで疲れた。ベッドに乗ろうとしてふとドアが目に入った。入ってきたのとは逆側の隣の寝室と繋がるドア。何でもないドアを食い入るように見てしまった。どうせ開かないと分かっている。あの金色の鍵がかかっているのだ。分かっているのに、なぜか私はそのドアの前に立って、静かに静かにドアノブをひねってしまった。すると、音も立てずにドアが動く。鍵はどうしたと叫びたい。私は慌てて閉めようとして、何をどう間違えたのか手の甲が扉に当たる。
―ココッ―
小さな小さな音だった。私は息をつめながら隣の部屋を伺う。初日から、ノックもせずにドアを開ける無礼者だと思われたくはなかった。気づかないようだったら、このままゆっくり閉めれば良い。
「はい。開いておりますよ。」
しかし、返ってきたのは驚くべき返事だった。彼女は起きていて、先ほどの音をノックだと勘違いしているらしく、しかもこの夜更けに入室の許可をくれている。私はゆっくりと扉を開けた。既に明かりの落とされた部屋は暗い。しかし月明かりが彼女の髪に触れていて、そこだけ少し明るいように思う。
「起きていたのですか。」
動揺を悟られないように、小さな声でささやいた。
「侯爵様…えぇ、少し月を見ていました。」
彼女は一瞬こちらを見て、すぐに窓の外へと視線を移す。月明かりの中の彼女は美しく、なんだかそのまま月光に導かれて異界へと旅立ってしまいそうに見えた。私は彼女をこの地に留まらせなければと要らぬ焦りを抱える。少し悩んだ末、彼女の座るカウチの足元に腰をおろした。ここなら彼女に腕を伸ばす月光を少し遮る事ができる。
「アデルバートですよ。」
「え?」
私の影に隠れた彼女は不思議そうに小首をかしげた。
「あなたは私の妻になったのです。アデルバートと呼んでください。」
正確にはまだ妻ではないのだが、もうシンディーレイラがラファエルの姓を名乗るのは決められた事だ。違い様の無い未来をそれでも確実な物にしたくて、私はこんな願いを口にした。
「アデルバート様…。」
ためらいがちにそう名を呼ばれて、私の体の中に言いようの無い喜びが湧き上がる。皆に呼ばれる名前だが、彼女が呼ぶと特別な響きをもって耳をくすぐる。私は上機嫌で頷いた。会話をするたびに彼女との距離が縮まるような気がする。食堂で会った時よりも今。今日よりも明日。そうして近づいていけば本物の夫婦になれる日もそう遠くは無いと希望が持てた。
「そう。私もセレスティアと呼んでも?」
この国ではミドルネームを持つ事は珍しいが、異国では家族や仲の良い友人など親しい者はミドルネームを呼ぶ習慣があったはずだ。
「えぇ、もちろんです。……もし、呼びにくいようでしたら『ティア』と。」
「ティア?」
「はい。小さい頃、母がそう呼んでいたのです。」
異国の出だという実母はティアという名をどのような思いで呼んでいたのだろうか。それにしても、実母の呼んでいた愛称を私が口にすることを許してくれるのだ…彼女も心を開こうと、夫婦になろうとしてくれているように感じて私は幸せに口元を綻ばせた。
「侯爵さ…いえ、アデルバート様。お話があるのですが。」
数瞬の沈黙の後、妙に改まった声でティアが言う。
「どうぞ。」
私はその取り澄ました口調がほほえましくて、居住まいを正して先を促した。
「こんな厄介者には勿体ないお気遣いありがとうございます…。」
丁寧な礼から始まった彼女の話は、けれども楽しい話ではなかった。ティアには私が妻をないがしろにして愛人を囲うようなそういう類の男に見えているのだろうか。苛立ちがぐるぐると私の体を支配していく。話しが終わって、再度彼女が私を見た時、その表情のあまりの無邪気さに言葉が紡げない。彼女の言葉で私が傷つくなどとは思いもよらないのだろう。彼女がもう一度口を開きそうな気配を見せたので、私は思わず手を取って引き寄せた。これ以上、居もしない愛人への配慮の言葉など聞きたくなかった。
「……お情けは必要ありませんよ。」
彼女から紡がれた冷静な言葉に、イライラが頂点に達した。私の気持ちはどうすれば分かってもらえるのだろうか。あなたをずっと気にしていたのだと。たくさんの姫の中からあなた選んだのだと。あなたが欲しくて堪らないのだと。叫んでしまいたいという思いを冷静な自分が押さえつける。言葉にしたって伝わらないと。カナンの事がバレて嫌われるかも知れないと。
「跡取りを産むことが侯爵夫人としての一番の仕事だと思いませんか。」
結局私の選んだ言葉は彼女を逃がさない為の大義名分だった。
「アデルバート様はそれを望まれているのですか?」
ティアは震えながらもしっかりとした口調を崩さない。それがとても悲しい。
「侯爵家の跡取りを残さないという選択肢は無い。」
あまりに冷ややかな自分の声に、こんな事を言いたかった訳ではないとすぐに後悔が生まれる。しかし、謝罪の言葉を紡ぐ前にふと腕の中でティアが力を抜いたのが分かった。私の引き寄せるままに体を寄せてくる彼女からは、いつかの青葉の香りがする。その香りに思考が飛んだ。気がつくと彼女の髪ごと頭を抱えて、貪る様に口付けていた。ティアに嫌がるそぶりはない。私が求めるがままに唇を開く。その柔らかさに気をよくして、私は彼女をベッドに運び、押し倒した。柔らかな体も、爽やかな香も、甘い吐息も面白いように私を煽る。年甲斐も無く夢中になっていた時、
「…いやッ…。」
彼女の声が耳に響いた。私はその小さな拒否にピタリとナイフを突きつけられたような気分になる。このまま彼女を手に入れたとして、果たして本当に自分のものになるのか。そう疑問が沸く位には冷静になった。彼女は私を望んでなどいないと悟ればそれ以上は出来なかった。今となっては体を手に入れることは簡単だ。けれども私は心も欲しい。
「アデルバート様?」
「すいません。少し、頭を冷やします。」
「え?あ、あの?」
戸惑うティアから離れて、簡単に夜着を直すと、頭を一撫でしてベッドから降りた。こんなときでも蜂蜜色の髪はとろりと甘く指先をすり抜ける。もう一度触れたい衝動を抑えるために密かにこぶしを作った。
「あなたは私の妻です。私には愛人も居ないし、浮気の予定も特にない。」
「あ、はい。」
「でも、嫌がる女性に無理強いする趣味も無いつもりです。私は隣の寝室で休みますから、安心しなさい。」
いいじゃねぇか、抱いちゃえよと耳元で囁く我慢の効かない自分を押さえつけて、できる限り穏やかな声でそれだけ言うと返事も聞かずに部屋を後にした。
扉を閉じてその場にへたり込む。後悔は押し寄せているのに、つい先ほどまで触れていたティアの感触が生々しくよみがえり、後悔や反省どころでは無かった。初恋に舞い上がる少年のような自分を月が笑っているようだ。あぁ、眠れそうに無い…私はヨロヨロと立ち上がり居間に移動すると常備してある酒を開けてソファに転がる。先ほど脱いだ服たちは足元で丸まっている。今夜は月見酒と決め込んだ。薄いドア一枚…蹴破らなくても開いてしまった。役立たずの烙印を押された金色の鍵は月影の中で何を思うのだろうか。
アデルさん我慢できましたw
アデル視点でティアを描くと、「え?誰それ?」って思います。




