閑話:初恋の埋葬
カナン視点です。
アデルバード様の命令を受けて後宮に潜り込んだ私は特に苦労もせずにシンディーレイラ様付きの侍女に成れました。殿下の寵姫の部屋付きは通常ならば女官や侍女からの人気が高いので、どのようにもぐりこもうかと思案していましたが、それも取り越し苦労でした。殿下の寵愛が続かない事は後宮では誰もが知る事実でしたので、それよりも実家の権力や財力の強い姫が人気のようでした。シンディーレイラ様は伯爵家と比較的身分の高い部類の姫でしたが、クランドール伯爵は後宮で権力を握ろうというタイプではなかったので、女官や侍女達からの注目度は低かったといって差し支えないと思います。希望を出すだけでお側に侍る事ができました。
アデルバード様の様子から、どれほど大変な所へ行かねばならないのかと冷や冷やしていましたが、何のことはありませんでした。私はこれまでほとんど普通の侍女としての仕事しかしていませんから、後宮に入ってからの方が陰としての能力を使う機会は多いかと思います。しかし命のやり取りをするような場面には、まだ出くわしません。身に染み込んだ力を使える事に満足や充実を感じる事はあっても、焦燥や危機を感じるような事はありません。後宮に潜り込むのはほどほどの緊張感の中で陰の能力を鍛えることができる良い機会だと思います。体は動かさないと鈍るように、技術も使わないと衰えてしまうものです。平和な中で力を落とさぬ様に訓練するよりも、実践の方が効率が良いのは言うまでもありません。
私はもっと力をつけなくてはならないのだと思います。アデルバート様にもパトリシア様にも大切な人を思わぬ事故で亡くすような悲しみはもうこれ以上必要ありません。主の守りたいものを守れる力を身に付ける…セシルバート様の訃報と共に届けられた「アデルバートの拠り所をしっかり守ってほしい」とのパトリシア様からの伝言を受け取って私はそう決意しました。
シンディーレイラ様は成人したばかりの恋に溺れる可愛らしい女の子です。後宮の他のお姫様方とは違い、無理な要求などは無く、気をつけていないと、侍女に命じるべきところまでご自分でやってしまわれます。命令をしても、物慣れ無い風情で居心地が悪そうに見えます。後宮の姫など、傅かれるのに慣れた方達ばかりだろうと思っていたので、その様子に驚きました。
アデルバード様が何故このお嬢様に拘られるのかはわかりませんが、きっと大切な方なのだろうと思います。アデルバード様の大切な女性を御方様と呼ぶのは気が進まないので、失礼ながらお嬢様と呼ばせて頂く事にしました。御方様と呼ばなくてもシンディーレイラ様は気にした様子が無いですし、他の侍女や女官の前では呼び掛け無いようにしているので、誰にも咎められたりはしません。それにしても…と私は誰にも見えないところで眉間に皺を刻みます。何故、アデルバート様の大切なお嬢様が他の男の手の内にあるのでしょう。殿下のシンディーレイラ様への執着ぶりは常軌を逸しているように感じます。これが本当にそのうち冷めてしまうのでしょうか?来る日も来る日も明け方まで己の愛を誇示するかのようにお嬢様を抱くのです。その濃密な夜の気配のする寝室で倒れこむように眠るお嬢様はどう見てもあどけなさの残る線の細い少女です。大人の男性の欲望を一身に受けて、壊れてしまわないだろうかと心配になるほどに。しかしながら、シンディーレイラ様はそのような殿下との日常を大きな喜びと共に受け入れているので、一介の侍女である私に何が出来るわけでもありません。ただただ、お嬢様が体調を壊さないように気を配るだけです。
しかし、そんな日々は長くは続きませんでした。私がお嬢様の部屋付きになってから約3ヶ月で殿下が正妃を娶られたのです。正妃様が月長宮に入られると、途端にシンディーレイラ様へのお渡りは減ってしまいました。異常なほど連日のお渡りでしたので少しくらいお渡りが減るのは大歓迎でした。それは私だけの感想ではないと思います。公務を理由に殿下の訪れが無い日、シンディーレイラ様は少し寂しそうにもされましたが、その顔にはホッとしたとありありと浮かんでいたのですから。正妃様の元に通うのは『公務』といって差し支えないので、殿下の言い訳は嘘というわけではありませんでしたが、公務と聞いて「お仕事が大変なのね」と素直に呟くお嬢様を見ていると、私の心には苦いものが浮かんできます。後宮という場所にいるのだから、側妃という立場なのだから、はじめから独り占めできるとは思っていないでしょうが、たった一人の女性として愛される幸せをお嬢様はこの年で既にあきらめなければならないのです。そんな立場に彼女を立たせた人間に対して強い憤りを感じます。
最初のうちは正妃様と同じくらいシンディーレイラ様にもお渡りがあったので、寵愛が去ったという訳ではなかったのだと思います。しかし、時間が経つに連れ御渡はどんどん減っていきました。特に気にされた様子の無いお嬢様でしたが、時々窓の外を眺めてはじっと考え事をなさる事が増えていきます。後宮に入られてから半年が経とうかというある日、お嬢様が真面目な顔をして私を呼ばれました。
「ねぇ、カナン。」
「はい。」
「つかぬ事を聞くのだけれど、私は殿下の側妃よね?」
ソファに座ってお茶を飲んでいたシンディーレイラ様は唐突にそんな事を言い出しました。
「…突然いかがされましたか?」
あまりの突拍子の無さに私は質問に質問で返すという無礼を働きましたが、お嬢様に気にした様子はありません。
「いいから、答えて。たぶんばかばかしい質問をいくつかするから。私は側妃よね?」
「はい。」
いつになく強引なおっしゃりように首をかしげながらも、私はお嬢様の質問に答えます。いつもはキラキラと表情を変えるブルーグレーの瞳は今は何も語りません。こんな顔も出来たのかと驚く程の完璧な無表情のお嬢様と会話をするのは、なんだか居心地が悪い気がします。
「正妃様はいらっしゃるのかしら?」
「数ヶ月前に後宮に入られました。」
「私、ご挨拶などしていないのだけれど、必要ないの?」
「正妃様へのお目通りはこちらからの希望ではかないません。正妃様よりお声がかかるのを待たなければなりません。」
「そうなの。同じ後宮なのに出会ったりしないの?」
「正妃様のいらっしゃる月長宮は王族の方のみの宮となりますので。お庭やサロンでお会いする機会が無いとはかぎりませんが。」
「なるほどね。後宮は他にいくつ宮があるの?」
お嬢様は最近まで殿下の連日のお渡りのために後宮内を出歩くこともままなりませんでしたので、後宮内の事には疎いのです。最近少し散歩やサロンでの茶会に顔を出す機会が増えて後宮が広いという事はご存知なのですが。
「4つです。蒼玉宮、紅玉宮、翠玉宮、黄玉宮です。」
「そこに側妃は何人くらいいるの?」
「正確にはわかりませんが、30人前後いらっしゃいます。」
「まぁ!そんなにいるの?私と同じ立場の人が…。」
「いえ、お嬢様は御方様と称されるお立場ですから、同じというわけではありませんよ。後宮に住まわれていても殿下のお手つきのない姫様もいらっしゃるのですから。」
「……ねぇ、御方様ってどういう意味なの?」
私はこの質問に目を見開きました。この3ヶ月、他の侍女は皆お嬢様のことを御方様と呼び、後宮ですれ違った他の姫君からも蒼方様と呼ばれて返事をされていたので、すっかり理解されているのだと思っていたのです。
「各宮の第1室にいらっしゃる姫様を御方様とお呼びする慣わしがあるのです。殿下の覚えのめでたい姫という意味を含んでいるようです。」
「各宮のということは、紅方様とか翠方様と呼ばれている方もいるってことなのね。」
「はい。」
「なるほどね。わかったわ。ありがとう。」
シンディーレイラ様は最後まで無表情を貫いて会話を終えると、再度お茶に手を伸ばされました。私は温かいお替りを用意しながら様子を伺いましたが、何も読み取ることができませんでした。後になって、お嬢様の殿下へのお気持ちにはっきりとかげりが出たのはこの会話からだと気づきましたが、この時のお嬢様は私に何も悟らせず、色褪せて朽ちてしまった初恋を一人で葬る準備をされていました。




