60.知らない事は知ればいい。
目を開けると、辺りは薄暗かった。
いつの間にか窓が閉められ、柔らかな日差しが遮られている。
私は傍らに座るアデルを見つめた。
なんだか、とても疲れた顔をしている彼は、私と目が合うと泣きそうな顔で微笑んだ。
「夢を見ていたの。」
言葉を発して、ひどく喉が渇いていることに気づいた。
「喉が渇いたわ。」
そういうと、彼は側に有った呼び鈴を鳴らして人を呼んだ。
きっと私が眠った後にカナンが用意してくれたものだろう。
現れたカナンに飲み物を頼むと、部屋を静寂が支配する。
ずっとつないだままの手を私は離す気になれない。
アデルも手を離すつもりは無いらしく、じっと私を見つめている。
「ティア。」
名を呼ばれて、心の中で2つの感情がせめぎあう。
変わらぬ響きを嬉しく思う私と、誰を呼んでいるのかと詰問したくなる私。
私は返事も出来ずに、アデルを見つめた。
「どんな夢を見ていたの?」
彼の問いかけは、カナンのノックに遮られる。
私は手を離して、ベッドの上で体勢を整えると、温かいお茶をもらってゆっくりと飲んだ。
カナンは言葉を発せず、木戸を開けて日差しを招いたり、私の背中に枕を当てたり、ガウンを着せたりしてから、静かに部屋を辞した。
その間私はお茶をゆっくりのんでいたし、アデルは椅子に座って私をみつめていた。
妙な沈黙は、けれどもそれほど居心地悪くは無い。
お茶を飲み終わると、私はまだ温もりを残すカップを握り締めたまま口を開いた。
「母の夢をみていたの。」
「そうか。」
「私にそっくりで、活動的…いえ、お転婆な人だった。父は母に手を焼いていたわ。」
「病弱だというのは?」
「それも事実よ。でも、病人が皆穏やかでのんびりしているわけではないわ。」
私はアデルに微笑んでみせる。
彼も、私の歴史を知らないのだ。
お互い、あまり多くを語らずに来てしまった。
変に知っている分、踏み込めなかったというのもある。
きっとアデルも同じだろう。
「あなたもきっと父と同じなのね。私は手に余る?」
うまく笑えているだろうか。
私の顔をアデルがじーっと見つめている。
私の言葉の真意を推し量っているのだろう。
「君は私の手の中には納まらない…そう分かっていても、私は君を囲って閉じ込めたくなる。」
ポツリとこぼされた答えに私は少し安心した。
アデルの顔をじーっと見つめる。
彼は泣きそうな顔をもう笑みの形にすることが出来ない。
「話し合いが必要ね。」
私は幾分明るい声を出した。
「あぁ。そうだな。母にもそういって怒られた。」
久しぶりにお説教をくらったよとアデルは苦笑をもらす。
「そう。でも、その前に大切なことがあるのよ。」
私は冷えてしまったカップを机に置いてもらうと、そのままアデルに手を伸ばす。
「あなたも、きちんと休みなさい。」
そういって戸惑うアデルを引っ張った。
彼は私の手に促されるまま、上着と靴を脱ぎ捨てて、小さなベッドに上がってくる。
横になったアデルの隣で私ももう一度横になる。
同じベッドに入るのは久しぶりだ。
アデルの持ち込んできた冷気がほてった肌に心地いい。
いつもは彼の腕に抱かれて眠ったが、今日は私が彼を抱く。
首の下に手を差し入れて、彼の頭を抱えて、思っていたよりも大きいことに驚く。
見ただけでは感じられないものがあって、彼の外身だけでも私はまだ知らない事があったのだ。
その事実になんだか安心してしまった。
彼の歴史を、内面を後回しにしていたわけでない。
私はこんなにも彼を知らない。
きっとまだ時間が足りていないだけなのだ、私たちの所為じゃない。
大丈夫、知らないことは知ればいい。
まずは彼を抱きしめて眠る感触から。
アデルはようやく観念したのか、膨らみ始めた私のお腹にそっと手を添えながら、胸に顔をうずめる。
「ゆっくり眠って。私はもう逃げたりしないから。」
彼は腕の中で小さく頷いた。




