37.侯爵夫人の独白
リシャーナの独白です。
精神的に病んでいるような表現をしている部分があります。
苦手な方はご注意ください。
わたくしがあの娘を初めて見たのは、後宮のサロンでのことでした。
入内してから3カ月程はまったく姿を見せなかった娘ですが、正妃様がいらっしゃったのと時を同じくして、部屋の外に出てくるようになりました。
儚げな風情と蜂蜜の様なきらめく髪を持つ美しい娘でした。
サロンでお茶を飲んでいるだけで一枚の絵画のように見えました。
紅玉宮の御方様と呼ばれながらも数か月しか寵愛が持たなかったわたくしと同じように、あの娘への寵愛もあっという間に薄れてしまいました。
他の殿方については存じませんが、ウィルフレッド王子は移り気な方ですので仕方ありません。
御方様として広い部屋を与えられ、何人もの侍女に傅かれる生活に慣れると、部屋を辞してからが辛い…というのは経験談です。
この娘もさぞかしプライドを傷つけられているだろうと思っておりました。
「ご一緒させていただけますか?」
だから、そう朗らかに声をかけられた時、一瞬言葉に詰まってしまいました。
「えぇ、もちろんよ。」
エレノアがそう答えて、わたくしはやっと自分の失態にきづきました。
幼いころから侯爵家の人間として教育を施されてきたわたくしにとって、声をかけられたのに言葉を失うなどあってはならない失態でした。
シンディーレイラ・セレスティア・クランドール…娘はそう名乗りました。
この国ではミドルネームを持つ人はとても珍しい。
「母が異国の出なの。」
彼女はそういってふんわりと、しかし微量の寂しさを混ぜて微笑みました。
確かクランドール伯爵と言えば…わたくしは記憶の中の貴族名鑑をめくります。
異国の庶民の女性を妻にもらったはいいものの、数年前に先立たれ、後妻を貰いました。
前妻の喪が明ける前の再婚は一部から痛烈に批判されていた筈です。
彼女の気持ちを慮って、わたくしはそれ以上家族の話をすることを避けました。
実家での事も、ウィルフレッド王子との事も、彼女はたいして気にしていない様でした。
彼女は毎日、楽しそうにおどけて、嬉しそうに話し、幸せそうに笑いました。
無理している様子もありません。
それがとても興味深かったのを覚えています。
それからしばらく、彼女を含めた数人の令嬢達と後宮の片隅で日がな一日おしゃべりをして過ごしました。
わたくしは年長者として、又侯爵家の娘として、羽目をはずしがちな彼女らを窘める役目がありました。
この役目はとても心地いいものでした。
彼女らもわたくしが困ったように苦言を呈すると、素直に態度を改めました。
おだやかで、ゆるやかで、春の陽だまりの中にいるような日々でした。
わたくしはこの無駄な日々を少し憎んでいます。
わたくしは侯爵令嬢です。
無為に過ごす時間などあってはならないのです。
ましてや、その時間を慈しむなどもってのほかなのです。
変化が現れたのは下賜の話が出た時でした。
驚くべきことに、わたくしも下賜姫となるそうです。
お父様に手紙で問い合わせると、後宮で権力を握るのはあきらめてこの機会に権力者と縁を結べと返事がきました。
分かっている事ですが、貴族の娘とは道具です。
幼いころに蝶よ花よともてはやされるのは、その後、理不尽を押し付けるための布石です。
わたくしはお父様の手紙の中に「元気でいるか?」の一言も無ければ、「最愛の娘へ」と締め括られてもいない事に、毎回小指の先ほどの絶望を味わうのです。
下賜先はウィンズレッド侯爵家に決まりました。
実家と家格の釣り合った、下賜先としては不足の無い家でした。
初めて会ったウィンズレッド侯爵も、わたくしより幾分年上ですが、精悍な顔つきをした男らしい方でした。
無口な彼の考えている事は良くわかりませんが、貴族の結婚なんて多かれ少なかれ政略結婚です。
気持ちは通じなくても大した問題ではありません。
愛情など互いになくてもよいのです。
共通の目的意識と少しの誠意さえ持ち合わせていれば。
下賜され侯爵夫人となったわたくしに、ある日お父様が会いに来ました。
わたくしに会うと言いながらも、お父様が話したかったのはウィンズレッド侯爵様のようでした。
しかし、お父様との面会中、夫に急ぎの仕事が転がり込みました。
謝ってから席を外す侯爵様を見送ってからお父様はわたくしに人払いをさせました。
お父様以外の男性でしたら、たとえ兄であろうとも2人になったりはしません。
しかし、相手はお父様ですし、わたくしは直ぐに、使用人達に親子水入らずで話したいのだと伝えました。
「侯爵夫人として、落ち度は無い様だな。」
「おかげ様で。」
お父様はソファに深く腰掛けて、使用人が入れなおして言ったお茶をゆっくりと飲みました。
「ウィンズレッド侯爵は立派なお方だ。こちらに来ることになって返って良かったのかもしれんな。」
「……どういう意味でございますか?」
お父様は実に嬉しそうに話し始めました。
今回下賜された8人の姫の中で身分が一番高い、つまり褒賞としての価値が一番高いのがわたくしでした。
従来通りですと、一番の戦果を挙げたラファエル侯爵の元に行くのが筋です。
しかし、ラファエル侯爵の望んだのはシンディ―レイラ・セレスティア・クランドールでした。
「彼はきっとクランドール伯爵令嬢と面識があったんだろう。本来ならばこちらとしては、そのような措置は認められないのだがな、ラファエルの功績は大きく彼の希望を通せと陛下もおっしゃったのだ。」
結果的には我が家は伝統有る家と縁がつなげて良かったと言って、お父様は大きな声で笑いました。
わたくしは適当に相槌を打って笑顔を作りましたが、何が面白いのかさっぱりわかりません。
つまり、少なくともラファエル侯爵はわたくしよりもシンディーレイラに価値が有ると考えたと言うことです。
わたくしは彼女と比べて劣っているということです。
伯爵家と侯爵家では家格は比べるまでも無く侯爵家の方が上ですから、きっと女として比べられたのでしょう。
家格の差さえ凌駕するほどわたくしには魅力が無かった。
お父様の話は要約すればそういう意味でしょう。
わたくし、お父様に合わせて笑ってなんて居ないで謝るべきだったのかもしれません。
でも「結果として良かった」と言う言葉に含みは無さそうなので、楽しそうなお父様に水を差すのは控えました。
それだけならシンディーレイラを羨んだり憎んだりする理由にはなりません。
わたくしの女としてのプライドは少し傷つきましたが、紅玉宮を辞した時程の事ではないのです。
残り物のわたくしを受け入れ、夫として不足の無い態度をとってくれる侯爵様に感謝を感じるくらいです。
それまでも手を抜いたりはしていませんが、より一層侯爵夫人としての役割を完璧にこなそうと気を引き締めたのは、せめてもの償いです。
そんなわたくしを見て無口な侯爵様は時折満足そうな色を瞳に讃えてうなずいてくれるのでした。
この頃から、寝室を共にする事も増えました。
無口な侯爵様はお褥でも無口でしたが、決してわたくしの嫌がるような事をなさったりしません。
だから、という訳では有りませんが、やはり体を委ねはじめると心も傾くのでしょう、わたくしは次第に侯爵様と共に過ごす時間に喜びを感じる様になりました。
しかし、それはわたくしだけでした。
ある日の夜会で聞いてしまったのです。
婦人方との会話を終え、シガールームにいるはずの夫を迎えに言った時のことです。
「リシャーナ様はどうだい?うまくやってるのか?」
「あぁ。」
「彼女気位が高そうだからずっと一緒だと疲れそうだけれど。」
「いや。そうでもない。」
「そっか、予想よりマシだったのか。」
「……」
「それにしても、お下がりの上に残り物押し付けられて、お前も大変だなぁ。せっかくだったらもっと若いのの方が良かったんじゃないか。」
その後に侯爵様がクックッと笑うのが聞こえて、わたくしはいてもたっても居られずにその場を後にしました。
彼は否定しませんでした。
彼の友人はかなり失礼な事をわざと口にしているように聞こえましたが怒るどころか共に笑ったのです。
あの笑いは友人への同意でしょうか。
それとも、わたくしへの嘲りでしょうか。
どちらにしろ、彼が否定しなかったと言うことは、わたくしは彼にとっても価値の無いお下がりで残り物だということでしょう。
涙は出しません。
化粧が崩れてしまいます。
しかし、身体が震えるのは押さえられません。
わたくしは人気の無い廊下の隅で自分の腕を抱いて震えました。
そうして、わたくしの中に憎しみの種が埋められました。
それはまだ誰かに向けられたものでも、わたくしの意志で隠せないものでもありません。
水をやらず、光をあてずにやりすごせば、いずれ芽を出すこともなく朽ちていく小さな種でした。
しかし、水は注がれてしまいました。
シンディーレイラです。
社交界で再会した彼女はラファエル侯爵と、仲睦まじい姿を見せ付けてくれました。
ラファエル侯爵の彼女を見る目は優しさと慈しみを含んで、愛を語っています。
シンディーレイラはその温かな視線を当たり前のものとして受け止めています。
それを見るたび、わたくしの憎しみの芽には水が注がれたのです。
彼女が居なければあのように見つめられたのはわたくしだったのに…そう思うと夜も眠れません。
眠ったと思うと夢を見ます。
優しく愛に溢れた目で夫がわたくしを見てくれるのです。
髪を梳き、頬を撫で、唇をはんでくれるのです。
しかし次の瞬間、夫の見つめる先にはわたくしでなくてシンディーレイラが居ます。
彼女さえ居なければ。
彼女が邪魔だ。
彼女はわたくしの全てを奪ってしまうかもしれない。
その思いに抗いきれずに、わたくしは彼女を排除しようと決めました。
実家の遠縁に当たるマクレーン子爵の息子が彼女を唆すようにしむけましたが失敗。
それからラファエル侯爵の護りが堅くなり、中々彼女を排除できません。
彼女を守ろうとする侯爵の様子を見て、私の心はさらに荒れました。
憎しみは日に日に育っていきます。
そんなある日、チャンスが到来しました。
公爵邸でのガーデンバーティーでラファエル侯爵から引き離なし、拐かす計画を立てました。
協力者にはプロを雇うことにしました。
陰者を雇うのは貴族として生きていればそう難しくありません。
わたくしは拐かしたシンディーレイラを森に捨てる事を思いつきました。
慰み者にしたって、娼婦に貶めたって、ラファエル侯爵は彼女を連れ戻し慈しむでしょう。
彼の守り方を見ているとそう思わずにいられませんでした。
彼女には死んでもらわなくてはなりません。
かといって、一思いに殺してはなりません。
惨めな姿を晒しながら、絶望の縁に沈んでもらわないと。
わたくしの気持ちがおさまりません。
陰者が報告をかねて報酬を受け取りにきます。
彼とはもう2度と会う事は無いでしょう。
「伝言だ。」
必要最低限の会話もしないような陰者がシンディーレイラの伝言を持って帰ってきました。
また、彼女は特別扱いでしょうか。
―必ず生きて帰るから、首を洗って待ってなさい―
彼女のセリフにわたくしは特に反応を見せませんでした。
「報酬よ。2度とその顔は見たくないわ。」
陰者がうなずいて消えると、途端にわたしの体が震えだします。
彼女が帰ってこれる訳が無いという考察と彼女は必ず帰ってくるという確信。
わたくしを震えさせるのはどちらなのでしょうか。
良い友人でした。
可愛い妹のようでした。
共に生きる仲間でもありました。
わたくしは彼女を害したのです。
殺そうとしたのです。
いえ、きっと殺したのです。
彼女への憎しみはすでに重い後悔に塗り替えられつつあります。
彼女の生きて帰るというセリフに縋り付きたくなるわたくしがいるのです。
残念ながら、震えるわたくしを抱きしめてくれる腕はありません。
長い回でした。




