35.遭難日記。
ぼんやり周囲が明るくなってきたのに気が付いて空を見上げる。
鬱蒼と覆い茂る葉はくすんだ緑色をしていた。
いつの間にか少し眠っていたらしい。
ここまでくると、自分の図太さが誇らしくさえ感じる。
雨は降らなかったが、朝露にぬれる森の空気は肌に冷たく、手をこすり合わせた。
まだ、息の白くなるような寒さは先の話だけれども、早く森を出ないと飢えよりも寒さにやられそうだと考える。
木を降りると改めて辺りを見回した。
どちらを向いても同じように見える。
ただ、木と落ち葉に埋め尽くされていた。
葉が落ちている木と緑の葉を残している木が混在している。
落葉した木の下から空を仰ぐと、透き通る水色が薄茶の枝に細切れにされていた。
天気は良好だ。
またもや、ついている。
余っていた布を小さくきって草の汁と木の枝で、自分の名前、日にち、どちらを向いて移動するかを書いて、脱いだヒールに入れ木の枝にひっかけた。
木こりか狩人にでも見つけてもらえればと思っての行動だが、賊に見つかったりすれば危険につながる。
でも、自分の足跡を何か残すべきだとおもったのだ。
こんな心配をしているが、森の奥過ぎて誰の目にも触れない可能性の方が高い。
森に着いてから馬に揺られた時間はおよそ3~5時間ほどだったはずだ。
方向を間違わず、日中歩き続けられれば、1週間はかからず森を出られるはずだ。
方向を多少誤っても1ヶ月はかかるまい。
幸い秋の森には食糧がたくさんある。
そういう意味ではきっと生き延びられるに違いない。
怖いのは獣と賊だ。
私に戦う手段は無い。
太陽で方向を確認し、もう一つのヒールを持って歩き出す。
一応ナイフもすぐ抜けるようにして身につける。
時々、木の幹に傷をつけた。
目線の高さで傷つけておけば一度通った場所は見て分かるはずだ。
途中泉の水を飲み、木の実をかじる。
口を動かすとお腹が減っている事が良く分かる。
遭難1日目はさすがに街道も、小屋も、川さえも見つからなかった。
日が暮れる前に大きめの木を見つけ登る。
草をかき分け、落ち葉を踏みしめて歩くのは想像以上に体力を消耗した。
眠ってしまって落ちない様に木の枝に足を括り付ける事にする。
真っ暗な中で葉擦れの音がとても近い。
私は片方だけ残ったイヤリングを握り締めて愛しい人に想いを馳せる。
どうかどうか彼にもう一度会えますように…木の葉で隠れた月に祈る。
朝になると木を降りる。
太陽で方向を確認する。
夜をしのいだ木には布で日付と名前と向かう方向を書いて括り付ける事にした。
本当なら日に何度か目印をつけた方が良いかもしれないが、布は貴重なので1日1回だ。
2日目も何も見つからない。
逆に肉食の獣や賊とも合わない。
運がいいのか悪いのか、それは捉え方による。
3日目、同じように森を彷徨い歩いて、夕暮れ時には宿と決めた木に登る。
登ってほどなく狼の群れが現れた。
はじめて獣とすれ違う。
私の心臓は張り裂けそうだ。
耳の近くで鼓動が聞こえる。
なかなか立ち去らないが、息を殺して木のなかに潜んでいたら、そのうち別の獲物を見つけてどこかへ行った。
その夜は、震える身体を押さえ付けるのが大変だった。
4日目、浅い川を見つけた。
久しぶりの水分に思わず屈みこんで手にすくう。
そのまま口に含むと、少し、しょっぱいような味がする。
この辺の鉱物が溶け込んでいるのかもしれない。
満足するまで飲みたい衝動を抑えて、喉を潤す程度にとどめる。
水分は果実で補えているのだ。
無暗に川の水を飲む必要はないだろう。
そのまま少し寒いが水浴びをする。
体臭が獣を引き寄せるのかもしれないと昨夜なかなか立ち去らない狼を見ながら思ったからだ。
匂いを断つ意味も含めて、川に沿って下流に向かう事にした。
5日目、川に沿って歩き続けていると雨が当たり始める。
葉の多い木の中で早めに休むことにする。
小雨なのか木の葉で雨はしのげるが、グッとさがった気温に体は震え続けた。
6日目、獣道と森道の間と言った風情の草を踏み分けた様な道のようなものを見つけた。嬉しくなってその道の上を歩いたけれど、ふと賊に出会う可能性が高まる事に気づいて、道からすこし外れて歩く。
代わりにもっていた靴の中に日付と名前を書いた布を入れて道に置いておく。
7日目、時折森道を確認しながら、そこから離れて歩くのは手間がかかってなかなか進めない。
8日目、日暮れ頃、小屋をみつける。
いつかアデルと一夜を共にした小屋に良く似た木で作られた小さな小屋だ。
様子を伺っても人の気配は無く、中に入ってみるとここ数日使われてはいないらしく埃っぽかった。
少し迷って今日はここで一夜を過ごすことにする。
体を縮めて不安定な寝床にはいい加減飽き飽きしていたのだ。
しかし、いつかと同じように火種は無い。
もしあったとしても、使ってはいけないだろう。
私がここにいることを見つけるのが、良い人とは限らないのだから。
ドアを中からしっかり閉める。
鍵など無いので、木と紐で固定する程度だが…。
ドアを開けて死角になる位置に毛布を持ってきて転がった。
体を伸ばして寝転がってみるが、落ち着かずに膝を抱えて座る。
いつもと同じ体勢だが、安定した座面で、風がふせげるだけましだった。
私はぼんやりと闇を見つめる。
2日前から頭痛が続いていたのだ。
そのせいで考えがうまく纏まらない。
連日歩き回って足に巻いた布はボロボロだった。
腕などに巻いていたものを足に巻きなおしたので、剥き出しの腕は草や木の枝にぶつかって小さな傷があちこちにできている。
食欲は無いが、小屋に残っていた干し肉を拝借する。
木の実や果物ばかり食べていたので、干し肉のうっすらとした塩分がとてもおいしく感じた。
まだあきらめない。
もう無理だ。
2つの気持ちに涙がにじむ。
久しぶりに風をよけることができ、体をすっぽりと毛布で覆うこともできた。
けれども、私の体は冷たいままで、震えが止まらない。
―アデルバード―
私は彼の名前を繰り返しつぶやいた。
ティア、逞しすぎますか?
むしろ、運が良すぎますか?
どちらもですよね、すいませんっ。




