44:撫子色の安堵
話が一区切りつくと、ティアの部屋に案内された。穏やかな寝顔に思わず笑みがこぼれる。母は家の仕事をするといっていたので、ティアの起きるのを待つことにした。薄暗がりの中でじっとしているのはいささか退屈だが、今の私にはそんな時間も必要だと思われた。母と話してみて、気持ちがほんのり温かいものに包まれた気がする。思い返せば兄が亡くなってから、こんな風に自分と向き合う時間など持てなかった。いや、自分の心を抉る事が出来ずに、時間が無い事を言い訳に放置していた。見えないように蓋をした歪な感情はどろどろに溶け合って更に醜悪なものに変わってしまっているのかもしれない。ティアを手に入れた喜びはその上から重なってそれらを隠してくれたに過ぎなかったのだ。
父が亡くなった時、私はその突然のあっけない死を純粋に悲しんだ。悲しさと寂しさとが幾重にも重なってとても辛い気持ちではあったけれど、透明度の高いその感情は私の心を蝕むことは無かった。涙を流す度に、思い出話をする度に、ゆっくりと昇華されていく感情。時間と共にやがて風化するそれらはとても扱い易いものだと言える。けれど兄が亡くなって、私が感じたのは悲しみだけでは無かった。あまりにも早すぎる死に対する憤りも、彼から受け継ぐべきものの大きさに対する慄きも、これからに対する不安もあった。どうして私がこんな目に…と思う自分勝手な思いに気づくとさすがに気まずくて、それらは表に出すべき感情ではないと判断した。兄を亡くした弟として持つべき「正解」の感情のみを表現しているうちに、いつしか自分の内に「不正解」の感情があることすら許されない気がして、「不正解」の烙印を押された感情を無かったものとして心の奥に閉じ込めてしまった。そしてそのように閉じ込めた感情は兄に対してのものだけに留まらなかった。兄の後を追うようにして亡くなってしまったティファニーに対しても、私に全てを押し付けて森に篭った母に対しても、同情だけでなく憤りを感じていた。けれど、仕方ないと諦めて、彼女らに対する悪感情を無かった事にしてしまった。今思えば、少なくとも当然持ってしかるべき感情だし、一人で抱えることなど無かったのだ。それを抱えようとしたのは、男としてのプライドか、それともただの強がりか…。そうして無い事にされた感情は心の中で形を変えて漏れ出していたのだろう。ティアに対する執着も過保護も、私の押し込めた感情の成れの果てなのだろうと思う。
「そんなもの、押し付けられて大変だったね…。」
小さく呟くとティアが眉間にしわを寄せた。起こしてしまったかと慌てたけれど、まぶたを開く気配は無い。その代わり眉間の皺を深くして苦しそうに浅い息をする。
「大丈夫だよ。一人じゃないからね。」
そう言って手を取り手の甲に唇を押し当てると、ふっとこわばっていた体が解けた気配がする。ゆっくりを顔を見るとまた穏やかな寝顔に戻っていた。私は彼女の手を元に戻そうとして案外強い力で握り返されていることに気づいた。私はそのまま彼女の手を握り締める。温かい彼女の手のひらに「あなたもね」と言われているような気がして、涙腺が緩みそうになるのを必死で耐えた。
どれくらい彼女の手を握り寝顔を見ていたのか…長い間だった気もするし、短い間だった気もする。薄暗い部屋の中で、時間の感覚は全く無かった。突然音も無くティアが目を覚ました。ブルーグレーの瞳はまだぼんやりと夢と現の間を行き来している様に見える。その目が部屋を見回してから、私を映す。驚きも嫌悪感も無いその瞳の色に心底ほっとした。
「夢を見ていたの。…喉が渇いたわ。」
声を出して声が少し掠れているのに気づいたのか、彼女は喉元に手を当ててそう言った。私が呼び鈴を鳴らすとすぐにカナンが現れた。
「何か飲むものをお願いできる?」
「はい。」
ティアがそう言うと、すぐにドアの向こうに消える。彼女の身のこなしはいつでも無駄が無い。扉が閉まると静寂が訪れる。私は手を振り払われない事に勇気をもらって話しかけた。
「ティア。」
その声に、ティアがまっすぐこちらを見つめる。その瞳にはゆらゆらと何か感情が揺れているが、私にはどういう気持ちなのか理解できなかった。
「…どんな夢を見ていたの?」
何から話そうかと考えて、すぐに本題に入ることが出来ずにそう訪ねた。しかし、私の質問はカナンのノックに遮られる。飲み物を持ってきたカナンが部屋を整える間、私はティアを見つめた。温かい湯気に顔をうずめて慎重に口に含む様子はどこか子ども染みていた。カナンが部屋を辞し、ティアがお茶を飲み終わると、彼女は大きく息を吸い込んだ。
「母の夢をみていたの。」
「そうか。」
彼女の言葉がまっすぐ私に向かって放たれている事に安堵する。先ほどの長すぎる沈黙の時間で私は緊張を高められていた。
「私にそっくりで、活動的…いえ、お転婆な人だった。父は母に手を焼いていたわ。」
病気がちだった彼女の母親はそれでも娘の記憶に残るくらい活動的な人だったのだ。クランドール伯爵の話で聞いたけれど、知らないフリをして続きを促す。病人が全ておとなしいとは限らないと言われて小さく頷く。彼女は「妊婦も一緒だ」といいたいのだろうか?けれど、私の予想に反して、ティアは悲しみを耐えるような笑顔を作った。
「あなたもきっと父と同じなのね。私は手に余る?」
彼女の微笑みが私の心に突き刺さる。こんな顔をさせているのは、私なのだという事実が苦しかった。私はティアの曇りの無い…世の中楽しい事だらけだと言わんばかりの能天気な笑顔が好きなのに。
「君は私の手の中には納まらない…そう分かっていても、私は君を囲って閉じ込めたくなる。」
私は彼女の質問に正直に答えた。そんな男に用は無いと三行半を叩きつけられても文句は言えない。けれどもう口当たりのいい言葉で本心を隠していてはティアに近づけない。
「話し合いが必要ね。」
私の不安を吹き飛ばすかのように、ティアが明るい声を出した。彼女も私と同じ事を考えてくれていたという事がとても嬉しく心強い。早速、何から話そうかと頭の中で会話を組み立てはじめたのだが、
「そう。でも、その前に大切なことがあるのよ。あなたも、きちんと休みなさい。」
と言われてベッドに引っ張り上げられてしまった。ティアの体温で温められた布団はひどく心地いい。けれどその反面、私の持ち込んだ空気で彼女が冷えてしまいそうで申し訳なかった。慌てる私を他所に、ティアは早々と体勢を整えて私を抱きこむとゆっくりと宥めるように髪を撫でた。私はその心地よさに抵抗を諦めて、膨らみ始めたティアのお腹を圧迫しない様に気をつけながら、彼女の胸に顔をうずめる。撫子色の部屋着はティアの香りがする。妊娠が分かってからベッドを別にしていたから、この香りを嗅いだのはずいぶん久しぶりだ。
「ゆっくり眠って。私はもう逃げたりしないから。」
その穏やかな声に小さく頷いて目を閉じた。




