42:砥粉色の手紙
「一体、どういうことだ…?」
仕事場に現れた陰者の報告を聞いて慌てて屋敷に戻ると、ダンテスはとても難しい顔をして私を迎えた。
「午後、お昼寝の為に人払いをされたのが奥様のお姿を確認した最後です。なかなか起きてこられないため、午後4時頃に侍女が様子を見に行きましたが既に不在でした。すでに周辺を捜索させ始めていますが、めぼしい情報はまだ上がっておりません。同時にカナンも姿を消しています。」
ティアの姿が無い。それだけを聞いてまた誘拐でもされたのかと案じたがそうではないらしい。
「カナンと共に家を出たのか。」
「おそらくは。」
「どうして…。」
「…本当に、心当たりはございませんか?」
ダンテスの責めるような口調にハッと顔を上げる。眉間に皺を寄せた彼が、じっとこちらを見つめていた。
「私の…所為だと言いたいのか…」
「…いえ、申し訳ございません。私の短慮でございましょう。」
謝りながらも彼はティアの家出の原因が私に有ると確信している様だ。ダンテスの言葉に私は何も返せなかった。朝の彼女の瞳を思い出す。彼女に背を向ける直前の、悲しみと怒りを湛えて揺れるブルーグレー。あんな顔をさせたかったわけではないのに。
「こちらが、寝室においてあった書置きです。」
そういって砥粉色の紙を手渡された。間違いなくティアの字だ。
「とにかく、すぐに探し出せ。まだそう遠くに行ってはいないはずだ。」
「…承知いたしました。」
折り目正しい礼をしてダンテスが去っていくのを私は見つめるしか出来なかった。
『 アデルへ
あなたと距離を置く必要を感じたので、カナンをつれて旅に出ます。
カナンを連れていれば大抵の事態には対処できるでしょうし、無理はしないから心配しないで。
そのうち…気が晴れたら戻りますので探して頂かなくて結構よ。
くれぐれも、ダンテスや護衛、侍女たちを責めないで下さいませ。
彼らに非はないのです。すべて私のわがままなのですから。
どうして、こうなってしまったのかしら…。
妊娠する前は、片時も離れていられないと思うほど、あなたの隣は心地よかったのよ。
愛しているわ。あなたのティアより 』
私室に戻ってティアの置手紙を読んでも、彼女が出て行った原因が私に有るという事に納得できなかった。愛していると書き置きながら出て行ってしまった彼女への憤りで上手く思考が働かない。今朝の事は彼女が身重の体で家を飛び出すほどの事だったのだろうか。カナンの事をだれよりも信頼しているのは知っていた。けれど、やはりカナンも侯爵家に入ったからには私の使用人という事になるし、主に逆らったからには何らかの罰を与えないと示しがつかない。それを1日の謹慎で済ませたのは、他でも無いティアの気持ちを慮ってのことだ。そんな私の気遣いも、ティアには伝わっていないということか。
…いや、今朝の事はきっかけにすぎないのか。「今のアデルの側で、私の体が休まると思って?」というティアの言葉がよみがえる。ここ最近の生活に、ティアが息苦しさを感じているのは分かっていた。彼女は活動的な女性だから屋敷の中で閉じこもっているのは性に合わないのだろう。自分の行動を制限されるのも好きでは無い。けれど、それをわかっていても、彼女の思う様にさせてやることは出来なかった。他の女性達は、妊婦になるともっと身体を大事にする。身体に良いとされるものを食べ、決して危ない事はせず、穏やかに日々を過ごす事に心を砕く。少なくとも、私の知る妊婦は皆そうしていた。だから、無頓着な彼女に代わって、彼女と腹の子の健康と安全を守るのが私の仕事だと思ったのだ。夫婦とはそういうものではないのだろうか…苦手な事は補い合えばいい。彼女がじっとしていられない性質ならば、私がそれを止めるために動くのは正常ではないのか?少なくとも私はそういうつもりでいたのだ。私室に篭ってつらつらと考えるが、一向に思考が前進しない。同じ事を何度も何度も考えてしまう。ティアを責めるような考えばかり浮かぶのは、私が彼女に怒っているからだろうか。そのうち、ニーナが食事を運んできた。辺りを見回すと真っ暗でいつの間にか小さく明かりが灯されている。
「ニーナ、今日は食欲が無い。下げてくれ。」
「…いいえ、なりません。」
私のお願いに、ニーナはぐっと表情を引き締めて首を横に振った。
「食べる気にならないんだ。」
「それでも、お召し上がりいただかなくてはなりません。」
彼女が頑固者なのはいつもの事だが、今日に限って更に頑ななその態度に私は苛立ちを隠せなくなってしまった。
「さげろ。命令だ。」
彼女と目をあわすこともせずに「命令」という言葉を使う。爵位をついでから、お願いや希望や意見は無視される事も時々あったが、「命令」にニーナが逆らった事は無い。しかし、彼女は部屋を辞さなかった。
「…だめです。アデルバード様、今日はこちらをお召し上がりいただかないとなりません。どうしてもお食事を取られないのであれば、私は今日限りでお暇を頂く事になります。」
「なっ…。」
たかだか食事のために、何を言い出すのかと思わずニーナを振り返った。そこには記憶よりも皺の増えた女性がいて、強い意志を持って私を睨んでいた。
「何を言い出すんだ、こんな時に。ニーナらしくも無い…。」
「奥様のお気持ちを味わって頂く為だそうです。」
「ティアの?」
ニーナの言葉に首を傾げる。
「はい。妊娠が分かってより数ヶ月、奥様は食べるものも、着る物も、ちょっとした行動でさえも自分の思い通りに出来ない日々を過ごされました。それが、どういうものか少しでもアデルバート様に味わっていただくべきだとのことです。」
「…ダンテスか。」
「…はい。今日はきっちり夕食をとっていただいて、その後入浴、就寝と決められた時間通りに過ごしていただくようにと。ちなみに、今日はお仕事もお酒もお控え下さい。主様に逆らった罰は奥様がお戻り次第、お受けする覚悟はできておりますとの事でした。」
「バカな…。」
「アデルバート様、私にはダンテスが正しいのかどうか分かりません。しかし、奥様が家を出てしまわれたのは事実です。少なくとも、奥様が感じておられた憂いについて、私は知りませんでした。侍女長なのに…至らない所為で相談していただくことも出来ませんでした。」
今にもなきそうな乳母の顔に私ははぁっとため息をついて食事のテーブルに着いた。
「アデルバート様…。」
「ダンテスが言いたい事は分かる気がする。言うとおりにするから、もう暇だのなんだのと言うのは止めてくれ。皆、私の側に居るのがそんなに苦痛なのか…。」
私のセリフにニーナが千切れそうなほど首を横に振っている。そんなに振ったら脳みそが混ざってしまいそうだと思う。
「お許しいただけるのであれば、ニーナはずっと側におります。奥様も、決してアデルバート様を嫌われた訳ではないのです。」
「……ありがとう。」
ニーナの見守る中、観念して口に運んだ前菜はなぜかとても味気なくて、なかなか喉を通らなかった。




