閑話:馬車の中②
「今日はびっくりする事が多かったわ。」
また別の馬車でそういう妻の髪を撫でながら夫は大きく頷いた。妻のしっとりと濡れたような黒髪は、いつ触ってもするりと心地良い。夫は小さい頃からこの感触を愛してきた。新婚らしく片時も離れたくないというように寄り添う2人は年頃も近く、どっからどう見てもお似合いのカップルだ。しかし、まだ付き合いたての恋人同士のような甘い雰囲気が漂っていて、夫婦には見えない。やんわりと抱きとめられ、ゆっくりと髪を弄られたまま妻は暢気な調子で昼間の出来事について話す。
「もし、私が攫われたら、あなたはあの結論を受け入れられる?」
妻の問に一瞬想像を巡らせて、あまりの嫌悪感にすぐに首を振った。
「君が攫われたらなんて考えたくも無いから分からないよ。」
そういって抱きしめる腕を強める夫に、妻は仕方ない人…というように小さく笑った。小さい頃からお互いを知る彼らは言葉にしなくても互いの考えをなんとなく理解する事が出来た。夫は少し困ったような顔をして妻を覗き込む。
「もう、考えなくていいわ。私も攫われる想像なんてしたくないもの。」
妻はそう言って夫の頬を撫でた。それをきっかけにしてどちらからともなく唇を重ねる。
「シンディーが無事で…よかったわ。」
すぐに会話に戻ろうとした妻の頬を今度は夫の手のひらが包む。
「少し、黙って。今日はあまり君に触れてない気がする。」
そう言った夫の瞳に浮かぶ熱で、妻の体温もすぐに温まった。これ以上は見てられないので、別の馬車を覗くとしよう。
先ほどの馬車とは、全く逆の雰囲気の馬車がある。乗っているのは色素の薄い水色の髪と瞳を持つ女性と、女と見まごうほどの美青年だ。夫婦であるにも関わらず、2人の間にはなぜか緊張感が漂う。いや、緊張しているのは妻のほうで、夫はその美しい顔に無表情を貼り付けてカーテンの隙間から窓の外を眺めた。中を見せない為のカーテンを引いたままなので隙間はとても狭い。狭すぎて外の景色なんてちっとも楽しめないだろうに夫は外を見るのを止めない。一見すると不機嫌そうにも見えるその態度に不仲なのかと勘ぐれば、そういう訳ではないらしい。ゆとりのある馬車の中でわざわざ隣に座り、妻の背中に腕を回しているのだから。彼を良く知る使用人たちが見れば「あぁ、旦那様また照れてそっぽ向いちゃって」と笑うところなのだが、夫の表情を読むのが苦手な妻は微妙な彼の態度に緊張してしまうのだ。誘拐事件があって、少し夫婦の距離が近づいたと思ったのに…そう心の中で呟くのは妻なのか夫なのか。
「あ、あの。」
意を決したように話しかけたのは妻だった。その声に妻がかなり緊張している事を知り、夫は少し不機嫌になる。今日の茶会の参加者達は皆同じ時に夫婦になったのに、余所の夫婦達は既に互いに心開いている様にみえた。妻達がそれぞれの夫を信頼し、安心しきって身をまかす様子が実は少し羨ましかった。そろそろ俺に慣れてくれない?そう言いかけるが何とか言葉を呑んで振り返り、視線だけで続きを促す。
「あ、あり、ありがとうございました。」
妻に突然感謝される理由がわからない。何かしたか?と考えてみるが今日は共に茶会に招待されただけで何もしていない。
「シンディーを探すのに私兵を派遣してもらって…。」
「あぁ、そんなことか。」
妻の説明にため息が出る。元より捜索を手伝うつもりだった。私兵を派遣することも検討していた。相手の迷惑にならないだろうかと人数や派遣の仕方を吟味している時に妻からの要望があった。実はそれに背中を押してもらって決定したので、礼を言うのは自分の方だと彼は思った。ウジウジ悩んでいた自分を知られたくなくて、これまではっきりと礼を言わなかった事を少し後悔する。
「別に君の為にやったわけじゃない。」
だからそう返事をしたのだが、それを聞いた妻が唇を噛むのを見て自分がまた失敗した事を知る。
「そんな言い方…。」
「気に入らないならしゃべらなければいい。」
どうしてこの妻に対しては自分の口はこういう言葉を選ぶのか、彼は頭を抱えたい気持ちになった。本当に伝えたいのは「俺のほうこそ、君のおかげで私兵の派遣を決断できたんだ、ありがとう。」だし「私の言葉に傷つかないでくれ。」なのだけれども、彼の口から出る言葉はそんな気持ちを欠片も伝えてくれない。妻はむっとした表情をして、夫の腕に背中がつかないように座席の端に浅く腰掛けなおした。体温の触れない左腕がむなしい。と、その時、馬車が小石でも踏んだのか大きく揺れた。浅く腰をかけていた妻はその揺れに堪えきれずに座席から崩れ落ちた。夫はとっさに体を抱き込んで妻を支えるが、尚も揺れる馬車に自分もバランスを崩して、妻もろとも座席から落ちる。
―ガタンっ―
大きな音を立てて床に肘を打ちつけた。妻は腕の中で小さく身を固めている。
「すいませ〜ん。大丈夫ですか?」
御者の申し訳なさそうな声が聞こえる。馬車を止めない所をみるとたいした事は無いと踏んでいるらしい。
「大丈夫だ。」
夫が痛みなど無いような声で返事をすると、御者はもう一度暢気な調子で謝った。その間、妻はなんとか起き上がろうとするが、夫に強く抱き込まれていてなかなか腕から抜け出せない。
「そんなに嫌がらなくてもいいだろう。」
外に聞こえないようにという配慮なのか、幾分声を潜めて夫が囁く。
「そんなつもりは無いわ。大丈夫ですか?」
妻は起き上がろうとするのを止めて夫を伺う。
「肘を打ったな。背中も。」
「ごめんなさいっ。」
あわてて妻が離れようとすると、夫は妻が体を起こすのを手伝いながら、自分も起き上がった。
「ったく。…何やってるんだか。」
御者に向けた愚痴を自分に向けてのものと思ったのか妻はもう一度謝って、俯いてしまった。覗き込めば目の端に涙を貯めている。夫は大きく深呼吸をすると床に座ったまま妻を引き寄せた。そうして額や目尻にキスを落とす。
「な、なに?」
妻は慌て反射的に逃れようとするが、それは許さない。頬や首筋にも触れるだけのキスを落として、妻の顔を上に向けると真っ直ぐに見つめる。一見冷淡に見える夫の目はしかし、実は温かな慈愛の色をたたえている。
「背中が痛い。」
そう言って頬にキスをする。
「肘も痛い。」
今度は妻の右目尻に唇をよせる。
「服も汚れた。」
次は額に。
「…でも、大したことはない。」
その次は鼻の先に。
「次から馬車の中に居るときは気を付けなさい。」
「…はい。」
従順にうなずいた妻に微笑みがこぼれる。そのまま唇を重ねた。結局屋敷に着くまで2人は堅い床の上にいた。彼らが互いに素直になれる日が来るとしたら、きっと他のどの夫婦にも引けをとらない信頼で結ばれることだろう。それまで、まだいくつかの試練が有るらしい…森を彷徨う事は無いにしても。
次は、最後の一台だ。この馬車にのる若い夫婦の一番の特徴は、妻が年上だということだ。ゆったりと波打つ銀髪と紫色の瞳を持つ妻はまさに女盛りを迎えていて、熟れた果実のような瑞々しさを持つ。一方夫の方は同じ年頃の友人に比べると、爵位を継ぎ所帯を持った分落ち着いているのかもしれないが、妻と並んでいると若者らしい快活さが目立つ。成人して間もないのだろう、ふとした表情にはあどけなさも感じられる。だから、2人は夫婦というより姉弟の様に見える。
「それでね、僕が860点で一番だったんだ。」
「そう、それは良かったわね。」
妻はダーツの成績について楽しそうに話す夫に相槌を打ちながら友人に思いを馳せる。残念ながら、今日の出来事を思えば夫のダーツの成績に興味は持てない。むしろ、そんな暢気な話ができる夫を不思議なものの様に感じた。
「ねぇ。今日の事どう思う?」
「どうって?」
「いや、もし自分だったら同じ結論を出すかとか、これからどう付き合って行こうかとか…考えない?」
とうとう我慢出来なくなってそう切り出すと夫は顎を指に乗せて考えた。斜め上に向けた目がなんだか少し間抜けだ。
「僕なら…無理だね。きっとラファエル侯爵とは違う結論になる。」
「どうして?」
「まず、あなたが居なくなったとして私兵だけで探せないし、あの結論を出す為の根回しなんか出来そうに無いし、犯人許せないし。」
「そう。」
夫の回答にケチをつけるつもりは無いのだが、あえて言うならあっさりと回答出来るその事自体が若くて未熟な為だと思える。経験を積んで、多角的な考えを身に付けた人ほど、はっきりと断定するまでに時間がかかるだろうから。妻が心の中で失礼な事を考えていると夫は首を傾げて妻を見た。
「何か引っ掛かっているの?」
妻は首を縦にふる。
「リシャーナとこれからどう付き合うべきかと思って。」
「手紙のやりとりするんでしょう?」
「そう思ってたけど、今あなたが言ったのよ、犯人を許せないって。」
「いや、それはあなたが攫われたとしたらの話だから今回とは別でしょう?」
「そうなの?」
「そりゃそうでしょ。ラファエル侯爵には悪いけど、言葉を選ばずに言うなら、余所の奥さんがどうなろうと気持ちは動かないよ。被害者に同情はするけど、犯人に対して怒りまでは感じない。」
「なんだか、とても冷たい言い方に聞こえるわ。」
「そうかな?男ってみんなそうなんじゃないかな。女の人達ほど色んな事に心痛めたりしない。」
「そういうものかしら?」
「それに、僕が反対したところであなたは自分の思う通りにするでしょう?」
そう言われて目を瞬かせた。確かに、夫の意見などあまり気にしないかもしれない。反対されれば表立ってリシャーナと連絡をとることは無いだろうが、密かに手紙をやり取りする事もあまり難しくはない。使用人を数人味方につければいいだけなのだから。
「ウィンズレッド侯爵夫人とこれからも交流を持つべきだと思うよ。」
「どうして?」
「ラファエル侯爵夫人はきっと誰かがそうしてくれるのを求めているだろうし、ウィンズレッド侯爵夫人だって変わらず付き合ってくれる友人が慰めになるはずだし、きっとあの様子であれば、付き合いを続けても危険は無いよ。何よりあなたがそうしたいと望んでいるでしょう?」
ニコニコと笑う夫に思わずコクリと頷いた。それにしても、夫が夫なりに周囲の気持ちを読み取っていた事は嬉しい驚きだ。ぼんやりしているように見えて、そうでもないらしい。あの彼に厳しい義父が爵位を継がせたのだからそれだけの器は有るということだろうか?普段頼りなく見えるこの背ばかりひょろりと高い夫を少し見直す。
「だから、隠し事はなしだよ。」
そういってウインクを投げられてギクリとする。彼の意見によっては隠し事をする予定だったのだが、それもばれていたとは…。
「隠し事なんかしないわ。」
だから、そういって微笑み返すのに少しぎこちなかったかもしれない。妻の表情をじっとみつめてから夫は微笑みを浮かべて頷いた。
「約束だからね。」
「えぇ、もちろん。あ、ダーツの話だったわね、それでその後どうしたの?」
「あ、そうそう。その後ビリヤードもしたんだけれどね…。」
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その後、屋敷に帰るまで妻は一生懸命夫の話を聞き続けた。夫婦と言っても共に過ごすようになってまだ3つの季節を越えたばかりだ。互いにまだまだ知らぬことも多いのだろう。少しずつ知っていけばいいのだ。共に過ごす時はまだまだ長い。




