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【短編小説】私園

掲載日:2026/01/26

 その街の空気は、まだ私に固かった。

 学生の頃からの住み慣れた街を離れ、夫と息子の三人で始めた生活は、呼吸の仕方を忘れたみたいにぎこちない。

 スーパーまでの距離、行き交う人の歩幅、校舎の向こうに見える子どもたちの声。

 そのどれにも、私はまだ居場所を見つけられずにいた。



 義母に息子を預け、住民票の手続きを終えた帰り道、マンションの裏手に小さな公園があることに気づいた。

 低い生垣と鉄柵に囲まれたその中は、不自然なほど整っている。遊具はどれも傷ひとつなく、まるで誰も使ったことがないみたいだった。



「こんにちは」


 背後から声をかけられ、振り返る。

 同い年くらいの女性が立っていた。淡い色のワンピースに、髪も靴も隙なく整えられている。

「こんにちは」

 近所の人だろうと思い軽く挨拶を返すと、女性はボタンのような目で笑う。

「最近、引っ越してこられたんですか?」



 胸の奥を、冷たいものが撫でた。

 見られている。知られている。

 そんな感覚を振り払うように、私は曖昧に笑った。

「ええ、まあ……」

「こちらは初めて? よかったらご案内しますね」

 断る理由を探すより早く、彼女は歩き出していた。



 柵に沿って少し歩くと、薔薇の絡まるアーチ型のゲートがあった。

 女性がポケットからカードを取り出し、翳す。電子音とともに、鍵の開く音が響いた。

「ここは、時間が決まっているんです。朝十時から夕方四時まで」



 中は、外から見た以上に整えられていた。

 砂場は砂州のような線が引かれ、ブランコの鎖は油を差したように静かだ。


「素敵ですね」


 本心だった。

 女性は嬉しそうに笑い、「また今度、あなたにもカードをお渡しするわ」と言った。


「あの……そのカードって」

「これがないと入れないの。変な人が来るでしょう?」

 言葉とは裏腹に、声は柔らかい。

「お爺さんとか、仕事も分からない男の人とか。警察に言っても、何もしてくれないし。子どもたちを守るには、これしかないのよ」


 そう言ってから、彼女は決まり事を挙げ始めた。

 ブランコにはヘルメット。

 滑り台は歩く速さで。

 走らない、食べない、汚れない。

 近隣に配慮して大きい声で笑わない。


 聞けば聞くほど、胸が詰まる。

「……ここ、公園ですよね? 区の施設じゃ」


「私園です」

 彼女ははっきり言った。

「私の園。私が作って、私が守っている場所ですから」


 私は、息子の顔を思い浮かべた。

 転んで泣いて、砂だらけで笑っていた、あの頃の顔を。


「やりすぎだと思います」

 そう告げると、彼女は少しだけ目を細めた。

「残念」


 間を置いて、静かに言う。


「では、見ていてください」

「何を——」

「三日間です」


 彼女が手を伸ばした、その瞬間、世界が縦に引き延ばされた。


 声を出そうとして、出なかった。

 腕は冷たい金属になり、足は地面に埋まる。視界だけが固定され、空だけが見えた。


 子どもたちが来た。

 誰も走らない。誰も転ばない。誰も笑わない。



 三日後、彼女は私の前に立った。

「どう?」


 答えは、出なかった。


 この私園は、素晴らしい。

 危険はなく、自由もない。

 ここでは、転ぶことも膝の痛さを知ることもできない。自由は最初からここに用意されていなかった。


「あら、また新しい方が来たのね」

 彼女はそう言うと、少しだけ嬉しそうに笑い私に背を向けて歩いていった。

 その向こうに、私を探しにきたのであろう心配そうな顔をした夫の姿があった。

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