【短編小説】私園
その街の空気は、まだ私に固かった。
学生の頃からの住み慣れた街を離れ、夫と息子の三人で始めた生活は、呼吸の仕方を忘れたみたいにぎこちない。
スーパーまでの距離、行き交う人の歩幅、校舎の向こうに見える子どもたちの声。
そのどれにも、私はまだ居場所を見つけられずにいた。
義母に息子を預け、住民票の手続きを終えた帰り道、マンションの裏手に小さな公園があることに気づいた。
低い生垣と鉄柵に囲まれたその中は、不自然なほど整っている。遊具はどれも傷ひとつなく、まるで誰も使ったことがないみたいだった。
「こんにちは」
背後から声をかけられ、振り返る。
同い年くらいの女性が立っていた。淡い色のワンピースに、髪も靴も隙なく整えられている。
「こんにちは」
近所の人だろうと思い軽く挨拶を返すと、女性はボタンのような目で笑う。
「最近、引っ越してこられたんですか?」
胸の奥を、冷たいものが撫でた。
見られている。知られている。
そんな感覚を振り払うように、私は曖昧に笑った。
「ええ、まあ……」
「こちらは初めて? よかったらご案内しますね」
断る理由を探すより早く、彼女は歩き出していた。
柵に沿って少し歩くと、薔薇の絡まるアーチ型のゲートがあった。
女性がポケットからカードを取り出し、翳す。電子音とともに、鍵の開く音が響いた。
「ここは、時間が決まっているんです。朝十時から夕方四時まで」
中は、外から見た以上に整えられていた。
砂場は砂州のような線が引かれ、ブランコの鎖は油を差したように静かだ。
「素敵ですね」
本心だった。
女性は嬉しそうに笑い、「また今度、あなたにもカードをお渡しするわ」と言った。
「あの……そのカードって」
「これがないと入れないの。変な人が来るでしょう?」
言葉とは裏腹に、声は柔らかい。
「お爺さんとか、仕事も分からない男の人とか。警察に言っても、何もしてくれないし。子どもたちを守るには、これしかないのよ」
そう言ってから、彼女は決まり事を挙げ始めた。
ブランコにはヘルメット。
滑り台は歩く速さで。
走らない、食べない、汚れない。
近隣に配慮して大きい声で笑わない。
聞けば聞くほど、胸が詰まる。
「……ここ、公園ですよね? 区の施設じゃ」
「私園です」
彼女ははっきり言った。
「私の園。私が作って、私が守っている場所ですから」
私は、息子の顔を思い浮かべた。
転んで泣いて、砂だらけで笑っていた、あの頃の顔を。
「やりすぎだと思います」
そう告げると、彼女は少しだけ目を細めた。
「残念」
間を置いて、静かに言う。
「では、見ていてください」
「何を——」
「三日間です」
彼女が手を伸ばした、その瞬間、世界が縦に引き延ばされた。
声を出そうとして、出なかった。
腕は冷たい金属になり、足は地面に埋まる。視界だけが固定され、空だけが見えた。
子どもたちが来た。
誰も走らない。誰も転ばない。誰も笑わない。
三日後、彼女は私の前に立った。
「どう?」
答えは、出なかった。
この私園は、素晴らしい。
危険はなく、自由もない。
ここでは、転ぶことも膝の痛さを知ることもできない。自由は最初からここに用意されていなかった。
「あら、また新しい方が来たのね」
彼女はそう言うと、少しだけ嬉しそうに笑い私に背を向けて歩いていった。
その向こうに、私を探しにきたのであろう心配そうな顔をした夫の姿があった。




