きっかけは“抱きしめる演技”
大学演劇部の稽古場に午後の日差しが斜めに差し込んでいた。
少し古びた部室棟の一室。
照明テープの匂いと舞台用の布の埃っぽさが混ざる。
そこに十人ほどの部員が集まって、次回公演の脚本を回し読みしていた。
「……えっと……この“キス寸前で終わる抱擁シーン”ってどこまで演技するんですか?」
最初に口を開いたのは、一年の白川 七瀬だった。
つややかな黒髪を後ろで結い、真面目そうな印象。
稽古ノートを抱きしめるように持っているその姿に部室の空気が一瞬止まる。
「どこまで、って?」
台本を読みながら問い返したのは、演出担当の二年、片瀬 悠斗。
メガネの奥の目がわずかに笑っていた。
こういう質問を待っていたのかもしれない。
「リアルな演技ってどこまでリアルにするかが勝負なんだよな。……ってことで、抱きしめるシーン、ちょっとやってみようか」
「え、い、今ですか!?」
「今だよ。稽古だし」
ざわざわと周囲が小さく笑う。
七瀬は顔を真っ赤にして立ち上がった。
彼女の相手役はよりによって悠斗本人だ。
「……じゃあ、行くぞ。俺が台詞を言うから、七瀬は“止めて”の合図まで動かないでな」
「……はい」
七瀬は緊張で肩をすくめながらも前に出る。
悠斗が一歩、二歩と距離を詰め──
ふわり──と腕が彼女の肩を包み込んだ。
部屋の空気が静まる。
抱擁と呼ぶにはまだぎこちない。
それでも、確かに“そんな感じの温度”があった。
七瀬の心臓が速く打つのを自分でも感じていた。
演技だとわかっていても息が詰まる。
それが不思議なほど心地よかった。
「……あ、はい、ストップ!」
見ていられなくなった副部長の声で稽古は中断された。
ざわざわと笑いが広がり、七瀬は一歩下がって息を整える。
悠斗は腕を組んで何事もなかったように頷いた。
「悪くなかったな。……七瀬、もっと自然に寄りかかってみてもいいかも」
「む、無理です! ……演技なんですよね、これ!?」
「もちろん演技。でも“リアルな演技”ってどこまでリアルにしていいんだろうな。難しいよな」
七瀬は目を瞬かせる。
彼の言葉の調子は軽い、どこまでが本気なのかわからない。
「……それ、たとえば?」
「キスシーンとか。抱くとか。舞台上で、どこまで“本気”を出していいのか。演劇ってさ、“嘘を使って真実を描く”って言うだろ? でも、“本当に抱きしめる”のは嘘か真実かどっちだろうな」
そんなことを真顔で言うから、困る。
七瀬は俯きながら、耳まで熱くなっていくのを感じた。
稽古が終わったあと、二人は舞台セットの片付けをしながら再び話を続けていた。
「……さっきの、ほんとに必要なんですか?」
「抱擁? 演出上はギリギリ必要。だけど、ギリギリなんだよなあ。演劇って、倫理と感情のラインの上を歩いてる」
「倫理と感情……」
七瀬は考え込むように呟く。
演技として恋人のように抱きしめる。
でも、その一瞬に感じた鼓動や匂いまで演技で片づけていいのだろうか。
「……そういえば、“R指定”とかあるじゃないですか。映画とか小説とかでも」
「あるな。……ああ、R15とかR18とか?」
「はい。あれって“どこまで”がR15なんでしょうね」
七瀬の何気ない問いに悠斗は口元を緩める。
「面白いな、それ。……じゃあ、調べてみるか。どこまでがR15でどこからがアウトなのか」
「調べてどうするんですか?」
「“ギリギリを攻める演出”を考える。もしかしたら、それが俺たちの作品の鍵になるかも」
七瀬は半ば呆れ、半ば興味を惹かれて笑った。
「……じゃあ、次の稽古の前に“R15ライン研究会”開催……ですか?」
「いいネーミングだ。採用」
冗談のような会話。
でもその日から、二人の“創作の境界”を探す時間が始まった。
次章に続く。
──R15とは何か
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