表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

一輪の薔薇と三つの蕾

作者: 朱市望


 外から戻ったオフェリアは女官の制服に黒の外套を羽織って、居室の外へ出た。このまま部屋に留まってゆっくり座りこむか、明日の準備をして休む事ができればどれほど楽だろうと思いつつも、既に約束を取り付けてしまっている。


「あら、オフェリア。今晩はご両親のところに泊まると聞いていたのに」


 どうかお気遣いなく、とオフェリアは先に主人の下へ顔を出した。他の女官達に囲まれ寝支度を進めていた十三歳のウィスタリア王女殿下は目を丸くして、けれど安堵したような笑みを浮かべた。元々は彼女の遊び相手だったのが、長く務めるうちに側仕えという扱いになって久しい。


「明日は一日中、雨と耳にして。慌てて戻ったところです」

「そうよね、濡れてオフェリアまで風邪を引いたら大変ですもの。きっと生家でゆっくりしたかったでしょうけれど」


 他の者が引き上げた後もオフェリアは残って話し相手を引き継いだ。主人はこちらの行動を不審に思う事なく素直に受け取ったらしい。やがて横になった彼女と他愛のない話をしながら、眠りにつくのを見届けた。


 そうして、もう少しで日付が変わる未明の頃。既に降りはじめた雨の音が、気配を隠してくれていたのかもしれない。王女殿下から離れた後は誰とも行き会わず見咎められず、オフェリアは目的の場所まで辿り着く事ができた。

 夜はまだ少し冷えるけれど、立っていられないほど寒いわけでもない。冬季は雪に閉ざされる国だが、季節は夏に近づいている。オフェリアは柱の影に身を潜めて、目的の人物が現れるのを待った。


 それなりの年数を王城で過ごしているが、あまり足を向けた事がない区画である。物置や空き部屋が並んでいるとばかり思っていた。おまけに確か、幽霊がでるという話もある。職務中に急死した兵士の亡霊だそうで、後ろから肩を掴まれたり暗がりから呼びかけられたりという噂のためか、昼間でも近づく者は少ないとされている。

 そうでなくとも王城はここ数年、常に憂鬱な気配に覆われていた。高貴な人々が暮らす場所であるという緊張感とは違う、陰鬱で気が塞ぎこんでしまう出来事によって、人々は狼狽えている。


 そのような噂話をとりとめもなく思い出しているうちに、やがて微かな音を耳が拾った。靴音と共に、微かに金属が擦れる硬質な音がする。相手が王城の内部で帯剣を許されているためだろう。

 迷いのない足取りで現れた若い男は明かりと何か軽食らしきものを盆に載せて、腰には装飾の施された細身の剣をさげている。鍵を開け扉の持ち手を握ったまま周囲を見回した。


「……オフェリア?」

「スレイン殿、このような時間にお手を煩わせて」


 名前を呼ばれ、オフェリアは柱の影から姿を見せた。相手は真夜中に呼び出されたわりには不機嫌な様子はない。彼は先に部屋に入って、ランタンの明かりと手荷物を小机に並べるのが見えた。オフェリアは

後ろ手に扉を閉めて鍵を下ろした。


「誰かに見咎められなかった?」

「それほど長い時間いたわけではありません。貴殿がいらっしゃる頃合いを見計らっていましたから」


 暗い部屋で二人は向き合い、後は微かな雨の音ばかりである。中は暖炉やくつろぐための長椅子の他、書き物ができるようなしっかりとした造りの机まで置かれている。定期的に管理されているのは明らかだった。

 ここまできてようやく他人の部屋、それも未婚の者が異性の部屋をこのような時間に訪ねるべきではないという認識が罪悪感のように押し寄せたものの、オフェリアは無理やり頭の隅へ追いやった。


「ここは何のための部屋なのですか? 個人の執務室?」


 本来、スレインのような王の側近くに侍る近衛ともなれば宿舎の良い場所に部屋が与えられ、共用の仮眠室も用意されている。由緒正しき名家の次男である。人当たりの良さとそつのない仕事ぶりから、若い騎士達の中心人物と目されていた。


 オフェリアと彼の生家とは昔から付き合いがあった。幼少期の交流が今日まで続いていて、何かあれば協力は惜しまないという協定が事前に結ばれている。

 彼は士官学校を出てすぐ騎士団として、オフェリアは王女殿下の遊び相手として、王宮へ入ったのはほぼ同時期だった。正確に言えば数か月、こちらが先んじている。


『……何かあれば、遠慮なく頼って欲しい』


 王城内でたまたますれ違った時の囁きと目線との合図は、同じ場所で違う職種に就いたもの同士で自然な約束事に思えた。当時のオフェリアには見知った顔の相手がいてくれる安心感と、先にいたのはこちらであるという複雑な気持ちが同時に押し寄せたのを覚えている。しかし年齢は向こうが上なのでそんなものかと納得して、自分の仕事ぶりをいつかは認めてもらわなければ、という決意をしたのだった。


 それがまさか、このような場面で頼る事になるとは思わなかった。内容的に、それぞれの生家へ出向くわけにはいかず、誰かに目撃されれば注目は避けられない。


「その通り。もちろん許可は得てあるとも。宿舎まで戻る暇がない日に、こちらで仮眠をとったりしてね。幽霊だと思い込んでいる者もいるようだけれど、その方が誰も近寄らなくて都合がいい。ところで、何か食べた? せっかく来てくれたのだから何か淹れよう」

「……私は平気です。今日は勤めがなかったので、生家に」


 スレインに尋ねられて、オフェリアは実家での夕食を断ってしまったのを思い出した。父と言い合いになり、制止を振り切って王城へ戻った。そうした経緯上、彼の申し出が魅力的であったものの、食ベ物を目当てに来たわけではない。


「父が、王宮での仕事を辞してなるべく早く私の婚姻をまとめると言ってきかなくて、困り果てているところです」


 余計な感情が顔を出す前に、オフェリアは一息に事情を口に出した。スレインの反応は薄く、ランタンが頼りの暗がりで目に見える変化はない。


「これまでも実家に何度か催促されているのですけれど、今回の相手は無下にできないのです」

「……なるほどね」

「他人事ではありませんよ、スレイン殿」


 彼はこちらの苛立ちに気がつかないふりを通す気のようで、とにかく座るようにと長椅子を示して見せた。

 あくまで淡々と応じるスレインに、オフェリアは顔をしかめた。父が名前を挙げた相手が、目の前で取り澄ました顔をしているためだった。


 




 二つの家、ガルランド公爵家とナイセル伯爵家は、元々父親同士、母親同士がそれぞれ結婚前から友人として繋がりの深い間柄であった。スレインの母君がガルランド公の後妻におさまった後、顔を合わせる機会が増えた事でオフェリアの両親は知り合い、結婚に至ったのだと聞いている。


「お行儀よくね、オフェリア」

「はい、そのようにいたします。お父様、お母様」


 とはいえ、屋敷を訪ねるのは社交の一環である。まだ子供だとしてもきちんと礼儀正しく振舞うように言い含められたオフェリアも、それなりの緊張感を以て臨んでいた。まだ小さい弟は祖母に預けられて留守番なので、尚更である。

 往路の馬車で念押しされつつ到着したガルランド公爵家には、男の子が二人いた。


「スレイン、年上としてよく面倒を見てやらなくては。オフェリア嬢を退屈させるものではないよ」

「はい、兄上」


 少年は、オフェリアが母に応答するのと似たような口調で、兄君のからかいにむっとするわけでもなく、素直に応じている。この頃から既に随分と大人しい子供だった。


「よし早速、馬のところへ行くとしようか。調子がよかったら、次は速足の練習をはじめられるかもしれないぞ」

「スレインにはまだ早いから、大人しくしているように」

 

 兄君は父親の言葉にはしゃいだ後、したり顔でスレインに話を振った。ここ最近は男親二人が協力し、兄君をおだてて馬へ乗る練習を繰り返している。一方で、弟にはまだ体格や年齢的に許されないらしい。しかしスレインはその差に不満を露わにするでもなく、いつもどこか冷めた目つきだった。

 軽い挑発めいたからかいに応じない反応に、兄君の方が面白くなさそうな目で弟を見ているのを、オフェリアはそれとなく気が付いていた。


「では、こちらへおいで」


 男三人が揚々と行ってしまった後、オフェリアはスレインに続く。母親二人も最近はそれぞれ話があるようなので、二つの家族は三手に分かれる組み合わせだ。

 彼の部屋へ立ち寄ると、どうぞ、と一抱え程の大きさがあるウサギのぬいぐるみがやって来た。彼の叔父君が外国へ立ち寄った際の手土産にもらったのだという、白うさぎのピエトロである。ふわふわで可愛いのが好きだと彼は知っていて、滞在中は貸してくれていた。


 お茶に呼ばれるまでは、長椅子に並んで思い思いの本を手にして目を通す。オフェリアはぬいぐるみを膝上に抱えた。自分の屋敷であればお人形や、刺繍をはじめとした遊びはあるものの、男の子とはあまり相いれない。こうして本を読むか、庭園へ花を観に行く程度である。

 大人しくて手が掛からないと評される子供二人の、これが一番丸く収まる過ごし方であった。


「……いつも悪いね」

「いえ、おかまいなく」


 オフェリアは自分の屋敷にある書斎とは違う本の並びや集め方が面白いのだけれど、スレインの方は居心地が悪いらしい。この屋敷には女児がいないので、遊びに使えそうな玩具も置いていない。静かで穏やかな交流をそれなりに楽しんでいたのだけれど、彼の方もいつも申し訳なさそうな表情を浮かべていた。


 本を何冊か読み終えると、彼はオフェリアを庭園へ誘った。天気が良くて、薔薇の花がちょうど見頃らしい。スレインの母君が健勝であれば庭園を案内してくれるけれど、今は安静が必要な時期だった。

 

「……仲良くして欲しいのだけれど、こればかりは私から強く言えなくて」

「どちらも聡い子ですから、いつか必ずわかってくださるでしょう」

「そうかしら、そうだといいのだけれど」


 薔薇を観るために近道すると、母親たちが過ごしている客間の窓から、会話が途切れ途切れに聞こえて来た。足を止めかけたオフェリアを、スレインがさりげなく先へ進ませた。


「もし、この屋敷に女の子がいるとしたら、何があると良いと思う?」

「お人形からはじめてみてはいかがでしょうか。もちろん、ある程度の年齢は必要ですけれど。それまではきっと、ピエトロが活躍してくれるでしょう」


 生家に同年代の少女達を呼ぶ日の様子を思い浮かべながら、オフェリアは応じた。赤子が何でも口に入れてしまう時期を過ぎてしまえば、人形だけでなく、衣装や小物の収集と披露は常に人気がある。

 

「わかった、覚えておく。さあ、とにかく薔薇が綺麗だよ。赤も白もピンクも黄色もね」

 

 自慢して連れて来てくれるだけあって、色や形、大きさも様々な種類が豊富で、一画には素敵な景色が広がっていた。オフェリアが目を輝かせる様子を、スレインも穏やかに見守っている。

 

「……薔薇が一輪、蕾が三つ」

「何か、特別な意味合いが込められているというわけ?」

「それは『二人だけの永遠に秘密』、というわけです」


 オフェリアはあちこちで足を止めながら、蕾を数えた。花言葉という秘密の合図のようなやりとりが、少女達の話題によく挙げられる。種類だけでなく、特に薔薇には様々な意味合いが込めて贈り合うやりとりがあると聞いて、当時のオフェリアも思わずどきどきしてしまうのだった。


「……そもそも薔薇に、その意味があるのだけれどね。神話に出て来る美しい愛の女神様が『私の秘密を守って』、と手渡し掲げたのがはじまりだそうだよ」

「それは初めて聞きました」


 少女達の間では、薔薇の花が持つ情熱的かつ愛情の象徴のような言葉が話題の中心だった。色や本数で意味合いが変わってしまうので要注意で、けれどやはり華やかで美しい花は人気が高い。


 遠くでは馬のいななきや、蹄の音。それから兄君の楽しそうな声が聞こえた。スレインも思わず耳をすませている様子で、本音ではあちらに混ざりたいのはないかと、オフェリアは思っている。 


「今日は機嫌が良さそうだっただろう? 私が近々遊学に出されると知って、以来気味が悪いほど親切でね」


 こちらを振り返ったスレインが、珍しく皮肉っぽい笑みを浮かべる。彼は時折、大人が教えてくれない話題にオフェリアを混ぜてくれた。

 名前こそ直接を出さなかったが、オフェリアもガルランド公爵家の兄弟仲が近頃険悪であると、薄々感づいている。

 彼の言う通り、この頃の兄君は常に気難しそうな顔でむすっとしているのが、今日はいつになく饒舌だった。何か相当に面白い事があったのだと推測できたほどだった。


「……遊学?」


 兄君の話題より、さらりと明かされた話に、オフェリアは面食らった。スレインの説明によると、ガルランド公爵家も資金面等で支援し、優秀な学生や子息を集めて、異国の優れた教育機関へ派遣するのである。現地には同じような留学生が集まっていて、積極的な交流が広く行われているのだそうだ。


 もっともらしい理由をつけて兄弟を一時的に引き離し、兄に長子としての自覚と自信を促したいらしい。しばらく家を空ける、とスレインは言った。


「あちらには伝手があるから、生活は心配ないそうだ。次男は早いうちから各所に誼を結んでおくべきだそうだよ。それから母に心労を掛けたくないというのが父の意向。今は普通の身体ではない。私が帰国する頃には、男女のどちらかはまだわからないけれど、もう一人子供が増えているはず」


 どこの家でも、基本的には財産を引き継がない長男以下の子供には、早めに将来のための道筋をつけられるような教育が行われている。彼は淡々とした口調で説明した。


「そうですか……」


 しばらく顔を合わせないのは、それなりに切ない心境ではある。しかし彼の話し方からして、前々から決まっている事なのだろう。駄々を捏ねたところでどうしようもないと、せめて相手が困らないような殊勝な振る舞いを装っておく。

 それで、とオフェリアは思い当たった。抱えているぬいぐるみの事が気になった。


「ピエトロは一緒に行くのですか?」

「ピエトロは屋敷で留守番だ。勉強に不必要なものは持ち込まないという規定だからね」

「……では、私にお預け願えませんか? ピエトロも遊び相手がいなくて退屈でしょうから。定期的に日光浴もさせて、夜は枕元へ置いておきます。可愛いお洋服を見繕って遊びに加わってもらったら、きっと寂しい思いも少なくて済むでしょう」


 オフェリアが行くと、ピエトロが登場するのは一番高い棚の奥や、寝台下の隠れた引き出しからだった。持ち主曰くかくれんぼが好き、という冗談交じりの理由付けである。

 しかしこの穏やかで几帳面な少年が時折所持品を無くしたり、また兄君が誤って壊したりという事件が度々ナイセル家側でも話題に上がる。実際に何が起きているのか、想像はついていた。


「……薔薇は一輪、蕾が三つというわけだね?」

「はい、誰にも言いませんから」

「君は見た目に似合わず大人だね、オフェリア。ピエトロもその方がずっと安心して過ごせるだろう」

 

 相手は薔薇の花に見入っているふりをしたまま喋っているため、表情は窺えなかった。それに倣って振舞うオフェリアは、薔薇の花と蕾を数えながらぬいぐるみをきゅっと抱きしめた。






 ほどなくして、スレインは使節団の一員として異国の地へ辿り着いた。最初はそれなりの家出身かつ最年少の子供に対し、周囲がそれとなく気遣ってくれていた。しかし現地に着くとそれぞれの専門分野を最大限学ぶのに忙しくなって、一人でぽつんと過ごす事が多くなった。

 事前に学んでいたとはいえ、全ての言葉や文化を理解できているわけではない。意図が上手く伝わらない場面が想定以上に多く、がっかりするような情けないような気分で過ごす事も多かった。行けばなんとかなる、と両親や先生が励ましてくれた言葉が、今は虚しい。


 スレインは気おくれして一人で過ごしていたのが、ある時声を掛けて来る者がいた。

 

「ねえ、そこの君。ちょっといいかな?」


 発音は拙いものの、既に懐かしい故郷の言語にはっと振り返ると、いくつか年上の少年が立っている。ちょうど自分の兄と同じ年くらいで、一瞬身構えたものの、相手は敵意を抱かせない友好的な笑みを浮かべている。手に持っている背丈の倍はありそうな長い棒に細い糸、よく見てみればそれは釣竿だった。


「僕はルイス。よろしくね」


 彼は同じくここでは異邦人であるからして、仲良くしようという主旨の自己紹介をした。ルイスは文法の本を二、三冊読みこなして、おかしいところを訂正して、とも続けた。

 スレインでも聞いた事のないような古い言い回しやとんでもない間違いは最初だけで、後は意思の疎通に不自由がなくなるのに、時間はいくらもかからなかった。

 友人になってくれた相手の誠意に応じなければ、とスレインもようやく熱心に勉強するようになった。

 それ以来、ルイスは趣味であるという釣りの仕方を懇切丁寧に講義してくれて、やがて学院でも行動を共にするようになった。慣れない異国の地に四苦八苦しつつも、失敗を笑い飛ばして対策を練ってくれる相手がいるだけで気持ちは楽だった。そうして遊学の日々は急に慌ただしく、楽しく興味深い時間へ変わりつつあった。


 彼の国とは昔から行き来がある。土地が豊かで大きな国だが、古いしきたりも大事にしているらしい。ルイスと仲良くしておくのはきっと良い事だと思って、スレインは彼と積極的につるんで過ごすのに、抵抗はなかった。



「よし、じゃあ早速」

 

 今日も学院での講義が終わると、二人はさっそく釣竿を手にして水辺に来ていた。街の中を流れる川べりで彼がいそいそと準備する横で、スレインも釣りをしたり指定された本に目を通したりして、静かに過ごしている。

 オフェリアといた時と立場が逆転したようなものだが、少なくとも居心地の悪さはない。彼女の方もせめてそう思ってくれたらいいと、遠い故郷での時間を思い出した。

 水が流れるせせらぎの音、淡く眩しい水面。異国でも変わらないものはたくさんある。それに気が付くと、スレインは不思議なくらい安堵するのだった。


「今日のスレインは詩人のような顔をしているじゃないか」

「詩人じゃないよ。……あのさ、ルイスはきっと生まれた国へ戻ったら、高貴な立場にあるでしょう?」


 彼は優しくてかっこよくて面白くて、いつも朗らかでいてくれる。理想がそのまま形になったような少年だった。良家の子息であるというのは、薄々感づいていた。学院の講義に対する姿勢は真摯なものの、今後の人生や生活がかかっているような必死さは見られない。義務として淡々とこなす姿は、ただの留学生とは思えなかった。


「……君がそう感じるとするならば、それは同じ匂いを嗅ぎつけているという事だ。魚と一緒で、人間は同じ属性で固まる習性があるからね。ご不満であるならばスレイン様とお呼びしましょうか?」

「やめてよ」


 足元の水面でも、ちょうど魚が群れを作っている。餌をつけて竿を向けると簡単に食いつくのは目当ての魚ではない。狙いはもっと用心深くて川の奥深い場所にいるらしい。川底の深くなっているらしい不透明な境界に大きな影がゆらぐのを、スレインもたびたび目撃していた。

 

 しかし今日は先に、スレインは家から届いた手紙の束へ手を付けた。両親、特に父が近況を事細かに伝えてくれている。たまにオフェリアやナイセル卿がくれる事もあった。兄からは一度もない。こちらへ立つ前の関係を鑑みれば、妥当ではある。


 年齢が近すぎる兄弟姉妹は多かれ少なかれ、反発し合いながら育つと世間では言われている。元々は仲の良い兄弟のはずが、いつの頃からか物をだめにされたり、貸したものがあると言って、勝手に部屋に入って来たり。一度は母親の布切り鋏を手に持っていて、その時は使用人が居合わせたせいか、特に何もせずに部屋を出て行った。

 兄がどうして自分を嫌っているかといえば、実は母親が違う、というのが一番大きな理由であるらしい。それを知った時、スレインは愕然とした。この先どれだけ機嫌をとろうとも、どうする事もできない経緯である。それとも、これまで表に出さなかっただけで、兄はずっと異母弟を疎ましく思っていたのかもしれない。


 兄は実母を亡くし、継母に加えて弟が生まれ、またもう一人加わろうとしている事実に上手く適応できていない。複雑な心境は、スレインにもおぼろげだが理解はできた。継母であるスレインの母には表立っては懐いているのに対し、弟には隠せないほど心理的な抵抗が生じているらしい。

 父はその鬱屈を、どうにか晴らそうと苦心していた。少しの間、経験を積む時期だと思って、少し離れてみないか。母と生まれて来る赤子は必ず守る。時間やほんの少しのきっかけで解決できる物事は多いのだと、医者の先生と父の説得を受け、スレインはこうして異国の地で過ごしているのだった。

 

「……」


 スレインは震える手で父からの手紙を広げた。妹が無事に生まれ、母も元気にしていると書いてあるのを何度も確認した。何故かそれだけで泣きそうだったけれど、深呼吸してやり過ごした。

 しかしちょうどその時、ルイスは竿と糸を引き上げた。今日は調子が悪い、とスレインの横に腰を落ち着ける。


「……顔色がよくないよ。今日は早く帰ろうか?」

「ううん、大丈夫。心配していた事があったけれど、無事に済んだみたいだ」


 平気平気、とスレインは安心してもらえるように返事をした。彼もきっと困るだろうと思い、気を紛らわそうとして、別の事を頭に思い浮かべようと努力する。

 

「僕も兄になったみたい、妹だって。どんな赤ちゃんなんだろう……。どうしたら、ルイスみたいな優しい人になれる?」

「私が釣り以外に教えるような事は何もないよ。十二分に君は良い奴じゃないか」


 彼はそう慰めたけれど、スレインは考え込んだ。故郷では妹のような立ち位置のオフェリアに、散々気を遣われていた節がある。彼女は大人しく、手を焼かされるような出来事は一切なかった。兄弟の仲の悪さに、素知らぬ顔で手を貸してくれた事もある。


 スレインは後で読み直すため、手紙を綺麗に折りたたみながら、故郷に思いを馳せた。両親や兄との確執、それから気を遣って大事な可愛いぬいぐるみを預かってくれたオフェリアのやりとりも、ありありと思い出せる。


 実は将来、彼女の家に婿入りという話があった。やたらとオフェリアと一緒に行動させられていたのはそのような理由である。結局はナイセル伯の家に元気な男の子が第二子として生まれたので、その話は立ち消えになった。オフェリアはおそらく何も知らないまま、秘密のように消えてしまった。

 スレインは両親から愛情をかけて育てられているけれど、家の利益が優先の面もある。今は子供だとしても大人になった時どうなるのか、複雑な思いだった。



「スレイン、君は大変な時にこちらへ来たわけだ。頭が下がるね」

「先に予定が決まっていたから。一応正式な使節団の一員として、行かないというわけにはいかなくて」


 良家に生まれた者の責任と誇りは、自分を励ますためでもある。しんみりとしているスレインに対し、似たような境遇と推測されるルイスは大袈裟なため息をついた。


「やれやれ。私もたまには、父さんの手紙にしっかりと目を通してみるかな」

「ルイスも手紙をたくさんもらうね」

「まあね、これでも人気者だ」


 彼はにやりと笑う。ルイスも大量の手紙に返事を書き付けているが、相手によって随分な温度差があった。一番優先するべきであろう父親からのものは、内容を一瞥して返事を数分で書き上げおしまい、と封蝋を施す始末である。反対に婚約者だという少女からだと何度も読み込み、文章を推敲する念の入れようだった。押し花などを学業の合間に仕込んでいたりするようで、可愛らしい気遣いを便せんと一緒に贈っている。ははあ、とスレインが感心していると、分けてくれた事もあった。


「私の父はね、一人息子が大して優秀でない事実を未だに認められないでいる。大人も決して完璧でない見本として、教本に載せてやりたいくらいだ」

「……僕はあなたが優秀でないとはとても思えないけどね。一緒にいて楽しいし、明るくて釣りにも詳しくて、それから……」


 スレインは彼が気を遣ってくれているお返し、と褒め言葉を重ねる。率直な意見を口にしたつもりだが、彼は肩を竦めた。


「とにかく、血縁があろうと同じ屋敷に住んでいようとも、所詮は他人でしかないと理解するのが肝要だ」

「……そこまでいさぎよく割り切れたら、楽なのだけど」


 スレインは家族の詳しい事情を話した覚えはないが、こちらの内心を見透かしたような台詞と眼差しに言葉が詰まる。そして意外と冷淡な事を言うものだとも感じた。


「親を含めて周囲は口を出すだろうけれど、最後は自分が納得して決めなければね。大丈夫、君ならどうとでも生きていけるさ」

「……うん、できる限り頑張ってみる」



 このように良くしてくれた彼だが、期限が迫れば二人とも帰国しなければならない。その数日前に、ルイスは改まった様子で話を切り出した。


「正直に言って、私も最初は慣れない土地へ送られ憂鬱だったのだ。それでも君とこうして友人として過ごして、有意義で良い経験になった。それで、滞在中によくわかったと思うが、私は出来のよろしくない人間であるから、周囲を動員して物事を解決していくつもりだ。スレイン、君もどうかよろしく。私を忘れないでくれよ」

「……」


 いくらスレインでも、それが言葉通りの意味ではないというのは理解できた。以前は故郷を離れる寂しさだったのが、帰国する時にはルイスと水辺でふざけ合いが二度とできないという切ない気持ちに変わっている。


「ルイス、君に手紙を書いてもいい? 教えてくれた釣りをする度に、きっと思い出してしまうから」

「ああ、もちろんだとも。私も書くよ。そして、これは私の国の古めかしい慣習だ。この時計は私の一番のお気に入り。魔除けのお守りとして、できる事なら肌身離さず、よかったら使ってくれると嬉しい」


 彼が餞別と共に渡してくれた手紙の宛先を大事にしまいこみながら帰国すると、ガルランド公爵家は小さな女の子の著しい成長が中心になっていた。

 肝心の兄はどうしたのかと思いきや、意外にも生まれたばかりの赤ん坊に敵愾心を抱くどころか、率先して可愛がっているらしい。妹の誕生は良い方向に作用したようで、スレインに対してもこれまでの態度が嘘のように軟化して、周囲は顔を見合わせたほどだった。


「……」


 結局その程度だったのか、と今度はスレインの方が自分でも説明のできない憤りを抱く羽目になった。しかしほどなく寄宿学校へ入学して生家を離れ、似通った生い立ちの少年達に混じって過ごすようになった。同じく次男三男という立場の子供と交流するようになり、視野が広がった。どこの家でも大抵は得意分野を磨き、生活手段の確立を目指して将来に備えるのである。

 それに何より、離れていようとも優しくしてくれる相手が別にいる。以前のように冷たくされて悲しい気持ちと、今度は関係を修復しようとする気配を前に、スレインは一歩引いた態度をとるようになった。


「その、……スレイン、以前は本当にすまなかった……」

「……いえ別に、気にする程の事でもないですよ」


 兄弟は和解した、という事になった。しかし遊学先でできた友人の名前を聞かれても適当に誤魔化して決して明かさず、別れ際に贈られた銀の懐中時計も絶対に見せなかった。兄もこちらの真意は察したらしく、けれど波風を立てない事にしたらしい。

 妹だけが、顔を合わせるとぎこちない空気が漂う二人の兄に、首を傾げるばかりである。






「まあ、君が話をしに来るだろうとは思っていたが、これほど早いとは思わなかった。一晩くらい、たまには生家でゆっくり息抜きをしてきてもよかったのに」

「……弟の話では、私の王城での仕事について、父の前で饒舌に褒め称えていたそうですね」

「食事を振舞われながら娘はどうだと尋ねられたら、そのように説明するほかなかった。与えられた職務を忠実にこなし、優雅な立ち振る舞いが多くの者から羨望と尊敬の眼差しを集めているのだとね」

「……」


 オフェリアが苦々しい表情を浮かべる前で、スレインは一分の隙も無く身に着けた制服の上着を脱ぎ、しかしシャツの釦を緩める事はしなかった。

 二人は長椅子に並んで腰かけている。彼の方は少々行儀の悪い座り方で、こちらの様子と、話の方向性を窺っているらしい。明かりは手元の小机に置かれた小さなランタンだけだった。


「……父が」


 たまには顔を見せなさい、と催促が続くので、オフェリアは休みを取って会いに行った。すると、そろそろ王宮での仕事に見切りをつけて婚姻を結ぶ時期である。相手方にも目星はついていて、それはオフェリアもよく知っている相手である、とも続けた。


「というわけですから、昔馴染みの誼でお手を煩わせて申し訳ないのですけれど。あなたの方から断っていただけませんか」

「……」


 オフェリアの言い分を前に、婚約者候補として名前の挙がったスレインは、話の切り出し方を逡巡しているらしい。しばらく沈黙があった。


「……私が嫌だと言ったらどうする? オフェリア」

「すぐにでも私と結婚するしかなくなりますよ。それは本意ではないでしょう」

「……そう決めつけられるのは不本意だな。君のように誠実で魅力的な、秘密を守ってくれる伴侶を得て静かに穏やかに暮らすのも、ひどく魅力的に思える」

「意地の悪い事を言わないでください」


 こちらの切り返しに、彼が肩を竦める気配がした。


「そうは言っても、ここはかつてのように安全ではない。それはあなたもよくわかっているはず。大事な可愛い娘が危険に晒されている状況を前にしたナイセル卿のご懸念は、私にも一定の理解ができるものだ」


 それは、とオフェリアも口ごもるしかない。

 現在、王宮は閉塞感から抜け出せないでいる。王太子殿下はここ二年近く、寝台を離れられないほど、状態が悪かった。

 医官が手を尽くしているものの、原因が未だにはっきりしておらず、症状がよくなる兆しはない。病気ではなく何か盛られたのではないかと、側近くに侍る者達の間では疑心暗鬼が広がっている。


 弟君がその様子では、オフェリアの主人であり王女殿下でもあるウィスタリアも、沈んだ表情で静かに過ごすほかなかった。本来は少々お転婆気味の愛らしい少女だが、今は息が詰まるような生活を強いられている。

 もし王太子殿下が本当に危害を加えられていたとしたら、間違いなく殿下の身も危うい。

 

「父君だけではなくウィスタリア殿下も、君を案じていたよ。最近は以前のように笑ってくれないとね」

「……殿下が」


 無理もない事だ、とスレインは言う。再び沈黙が下りた。

 主人だけではなく。家族もまたオフェリアを案じているのはよくわかっている。すぐそばに控えているオフェリアまで被害が及ぶのではないかと危惧して、どうにか穏便に王城を辞すように言って来ている。

 元々定められていた出仕期間は既に終えているが、王太子殿下の一件で延期したまま二年近く経ってしまった。


「……私は今、殿下のおそばを離れるわけにはまいりません」


 オフェリアは本心を述べた。これだけは絶対に譲れない。不透明な情勢の中、主人も不安定になっている。ずっと前から仕えていた相手が、子供らしからぬ暗い面持ちで過ごしている中、オフェリアはそばを離れる決断ができないでいる。


「どうか、お願いですから。なんとかあなたの評判に傷がつかない形で、私との縁談を断って下さい」 


 貴族の娘に生まれた以上は、責任と役割がある。家の繁栄と存続のために結婚する義務。しかし今、離れるのは得策ではない。

 これまでオフェリアは、家の意向に逆らった事がなかった。指示された通りの相手と友人として親しく付き合い、王城で女官として出仕までしている。そのため、両親からすれば突然反旗を翻したように見えるらしい。父はオフェリアが撥ねつけないような理由をこじつけようとしている。


「そうは言ってもね。私が断ったところで、そちらの父君は次の話を持ってくるだろう。その男が君の意向を汲んでくれる可能性は低い。結ばれる二人が気持ちを育てる始まりや過程はそれぞれだが、あなたが不本意を飲み込む形になるのを、私は冷静に見ていられない」


 スレインの声には、先ほどとは打って変わって、相手に面白がる様子はない。彼は指一本触れはしないものの、こちらへ向けられる眼差しと声が、微かに熱を帯びているようにも感じられた。

 小さな明かりの下で、二人はただじっと見つめ合う事になった。


「それでは、まるで……」

「本心を隠すために、私はそれなりに修練を積んでいるつもりだ」

「……」

「普通の人間が、思い出の中に整理して片付ける感情を、私はいつまでもどうしようもなく抱えたままでいる性分でね」


 ある時に、父がオフェリアの今後について言及した事があった。最低でも爵位や領地を有する青年を結婚相手に据えるのだと。まるで、オフェリアを試しているかのような口調だった。

 ふわふわとした夢の話ではなく、今の自分と地続きの話として持ち出された時、オフェリアが思い浮かべたのは、確かに目の前にいる相手だった。子供の頃から穏やかな交流があり、同じ場所で職務に就いてからは二人だけで共有する話題も増えていた。


 先が見えない情勢の中、確実に信頼できる人が近くにいてくれて、どれほど心強いと思っていることか。


「『……彼は近衛として勤めているものの、領地や爵位を持つ者には見劣りしてしまう。せめて時には他の者を出し抜いてでも、という気概があるかどうか……』 ナイセル卿の思惑はこんなところだろう。それから次期当主である兄と未だに確執を解消できていないのは要注意だ、ともね」


 スレインが自嘲めいた笑みを浮かべる前で、こちらは押し黙るしかない。彼が騎士団に入隊すると聞いた時、彼はこうも言っていた。いつまでも父や兄の影響下にいては、これからも振り回されるだけだと。


 どこかの時点で、オフェリアは諦めたのだ。結ばれないのだと。祝福されない関係に、相手を巻き込みたくなかった。これは誰にも知られてはいけない秘密である。王城に仕える道を選んだ彼の決意も、そして自分の気持ちも。そうして波風を立てないようにしていれば、いつかは忘れられるはずだった。


『スレイン君がね、やはりオフェリアが王城で仕事をする姿が好ましいと言って、満更でもない様子で……。昔はよく懐いて、慕っていたじゃないか。ガルランド卿は財産や所有する領地の一部を、次男である彼にも譲る話もある事だ』


 これまで、家の義務として最善を尽くすのだと折を見て釘を刺しておきながら、一番繊細な場所へ言及されたオフェリアは平静ではいられなかった。知られているとは思わなかった。知っていたのなら、せめて蒸し返さないでほしかった。

 そして、餌を目の前にぶら下げれば態度を翻すだろうという、その程度の覚悟であると見做されていた事実が腹立たしいのか悲しいのか、オフェリア自身もよくわからない。とにかく屋敷を飛び出して、こうして彼の前まで来てしまった。自分がどうしたかったのか、スレインにどうして欲しいのかも今の自分では結論を出す事ができないでいる。


 気持ちに蓋をして秘密を隠しおおせていればどれほどよかっただろうと、オフェリアは思う。


「全てご存じなのでしたら、お願いですから、……意地悪しないで」

「そう、結局あなたが嫌だと訴えている以上は、ね」


 彼は身じろぎをして、視線を外しながら姿勢を正した。

 次に口を開いた時、スレインの口調はいつもの調子に戻っていた。オフェリアが知らない彼ではない。あくまで穏やかな、まるで兄が弟妹に向けるような話し方。

 

「というわけで結局、一番有効なのは話をできるだけ引き延ばす事に違いない」

「……父が納得するでしょうか」

「今、余裕がある人の方が少ない。そちらの家の父君も、それからオフェリア、あなたもだ。そのような状況下で重要な決断は避けるべきだと、先日の時点で私は説得したのだが。とりあえず今一度、じっくりと話をする必要がありそうだ。……それから」


 彼は話を一度前置いた。今からする話は内密に、続けて口にする。二人だけしかいない部屋で、スレインは用心深く声を潜めるようにした。


「私がしてあげられる事は少ない。……しばらく王城を離れる事になる。これは賭けだ。この状況で持ち場を離れたくはなかったが、他に方法がない。国王陛下は私の話を信用なさって、内々に正式な辞令も下りている。上手く行けば閉塞を打ち破って、機を窺う者を炙り出せる」


 スレインが淡々と説明するところによると、一度仕事を休んで生家に戻り、ガルランド公の引退に伴って発生する様々な役割、財産の引継ぎをするのだという。次男であるスレインにも一定の財産を残す意向を公にしているが、しかしそれは表向きであると。実際は兄君を含めた家族の全面的な協力で身代わりを立てて、スレイン自身は隣国へ密かに向かうのだと言う。


「隣国……」 

「知り合いが中枢にいるようだ。こちらへ入ってくる情報は限られているが、状況が大きく動く局面であるらしい。手紙や伝言で済ませられる話ではないから」


 隣国は大きく豊かな土地を持つものの、現在あまり良い話は流れて来ない。二人の兄弟王子の間で継承争いが勃発し、現状巻き込まれるのを防ぐため距離を置いて静観している。このまま決着まで機を窺う意見もあれば、早急にどちらかの陣営に与して有利な立場を得るべきだという者も多い。

 この状況下で隣国に使者を出すというのがどのような結果を王城にもたらすのか、オフェリアにはわからない。


 ただかつて、遊学から帰国したスレインは向こうで仲の良い友人ができたのだと、何かの折に教えてくれた。銀の時計をもらったのだと見せてくれた事もある。手紙のやりとりを定期的に行っているのも知っていた。

 秘密にしておいて、と頼まれた当時のオフェリアは素直に応じた。


「全て首尾よく運ぶ事を。オフェリア、どうか祈っていて欲しい」


 彼は多くを語らなかったが、しばらくの間、ここを離れるらしい。生家を巻き込んでまで細工するという事は、危険や妨害が予想される事態が予想されているということだ。


「私はウィスタリア殿下のおそばにいます。……以前に旅立った時も、私が心配していたより帰国後は溌溂としたご様子で、きっと良い時間を過ごす事ができたのだと。此度もそうであるように。私には祈る事しかできませんけれど、どうかご無事でいてくださいまし」


 前回もオフェリアにはせめて穏やかに過ごせるようにと、それしかできなかった。あの時は案外元気に帰って来て、とてもよくしてくれた人がいたという話をこっそり教えてくれた。今回もそうであると願うほかない。


「ああ、たしかにそうだった。あなたは私との秘密と約束を守り、変わらず待っていてくれた」


 彼は何度か頷いた。オフェリアはその表情を目に焼き付けるように、明かりの下でじっと見つめていた。そうしているうちに彼は、何か口に入れようと提案してゆっくりと立ち上がった。


「私はまだ少し起きているが、あなたは目だけでも閉じていなさい、明日も殿下のそばにいなくてはならないのだから。もう少し経って、人目につかない頃合いを見計らって送るよ。この時間にこれ以上、外をうろつくのは感心しない。どんな危険があるかわかったものではないからね」


 無事だったからよかったものの、伝言を受け取った時には肝を冷やしたとやんわりと諫められ、オフェリアはばつの悪い思いである。反論せず、黙って小言を受け取った。

 その間に彼がごそごそと缶を開け、陶器を動かす微かな音が聞こえた。やがてどうぞ、とオフェリアに渡して来た陶器のカップには温めたミルクが入っている。眠らない子供に飲ませるものだ。


「……そちらのお茶を少しだけいただけませんか。ほんの少しだけ」


 好きにしてくれ、と笑っているスレインのカップから、小さな陶器のぶつかる音と共にほんのりとした風味が加わった。明るい場所でなら、まるで焼き目がついたような色に変わったのが見て取れただろう。独特の風味がまろやかに、けれど不思議な事にかえって甘さが際立つのが、オフェリアは好きだった。

 香りと温度、指先や身体の内側を温める飲み物。温かな匂いが五感をくすぐるようだった。生家を出てからずっと張りつめて過ごしていたらしい。


「……下の兄は陰湿だと、妹が呆れていてね。自分が生まれぬ昔のことをいつまで持ち出すのだと。あの兄が庇う側に回る始末なので、相当だ」

「妹君は生まれる前のお話ですからね」


 スレインの妹は、自分の兄二人が顔を合わせると微妙な空気が漂うのを不自然に感じて、あれこれと聞きまわったようだ。原因が子供の頃の諍いに起因するのだとわかると、どちらにも小言が延々と続くらしい。スレインが沈黙するのに対し兄君は、自分はともかく弟を諫める必要はない、と庇い立てするのだという。自分が全面的に悪かった、それ以外にはないと。


 兄の方が器は大きい、と大人になったスレインが複雑そうな思いを口にするのを聞いた。

 やけに饒舌に喋ると思っていると、どうやら身体が温まって眠くなるのを待っていたようだ。彼の方はまだお茶の香りを楽しんでいる。そっとカップが取り上げられて、目を閉じるように視線で促された。

 眠るものかと目を閉じたまま固く誓っていたにも拘わらず、揺り起こされて時計を確認すると何時間も過ぎている。いつの間にか掛けられていた毛布を手にオフェリアが慌てていると、スレインがこちらに何か差し出した。


「良い夢が見られる贈り物を渡そう。隣国では悪いものを遠ざけるおまじないとして、よくある風習だそうだ」


 半ば押し付けるように渡されたのは、彼がいつも身に着けている銀の懐中時計である。何か気の利いた台詞を返す暇もなく、部屋を出た二人は幸い誰にも見咎められず、それぞれの場所へと戻る事ができた。






 何事もなかったかのように仕事に戻ったオフェリアには、いくらもしないうちに父から手紙があった。各方面、つまり家族やスレインの父君などから諭されたらしい。拙速な話をしてしまった謝罪と、それからガルランド家の動向をしばらく注視するため、もうしばらく王城で仕事に励むようにという内容だった。


 スレインの方は予告した通り三月ほど、王宮から離れて生家へと戻った。父君の引退に伴って発生する諸々の手続きが必要なためであるという話が、王城内で広まった。

 このような大切な時期に、という冷ややかな意見も、次男三男以下の者には何より重要な話とするどちらの声もオフェリアの耳に届いた。


 それは張りつめた王城で少しの間、無責任にささやく事を許された話題だった。


 ほどなくして本人は戻ってきたが、隣国の噂などは全くでなかった。父公爵の引退に伴って、複数所有する爵位や領地の分配で兄と揉めているのだと、そのような噂を小耳に挟んだ。


「おいどうなんだ、条件の良いものはもらえそうなのか?」

「それが、当たり前だが兄は本来長男として独り占めが許される立場にあるわけで、さっぱり折り合いがつかなかった」


 結局これからも交渉が続くという本人の報告で、興味津々な者ほど拍子抜けである。

 スレインの期待外れな話題はすぐに、国王陛下からの重要な報せによってかき消された。隣国の第一王子殿下が、近々こちらを訪問するのだという。今まで避けて来た隣国の継承争いに巻き込まれるのではないかと危ぶむ声が多く上がったが、それも含めて直接見極めるのだという陛下の意思も揺らぐ事はなく、オフェリアの仕えるウィスタリア殿下も参加する形で会談の予定が決まった。


 主人は隣国の王族という特別な相手と初めての顔合わせに、いつになくそわそわとしている様子が、オフェリアにも見て取れた。


「お会いして何の話をしたらいいと思う? 一体どんなお方なのかしら」

「……とにかく、お優しい方だと嬉しいですね」


 

 そうして秋の終わり頃、雪が降る前に日程が調整され、国境近くにある王族所有の施設内に、隣国の王子殿下を招いての会談が行われた。


 今回こちらへ赴いたのは二人いるうちの兄王子の方であった。弟王子とただならぬ空気の中に身を置くという話ではあるものの、暗い側面は感じさせない凛とした振る舞いである。それにつられたのか、公式の場で緊張しているウィスタリア殿下も徐々に明るい表情をのぞかせた。


 オフェリアはその様子を見守りつつ、二人が敷地内を散策するのを、後ろから護衛の騎士達共に見守った。

 スレインも近衛兵として終始配置についている。張り詰めた表情を浮かべ、忙しく立ち回っている。隣国からの使節団の中にスレインの長年の友人とやらがいるのか確認する暇もなかった。



「……オフェリアも見て。あちらの国では、銀の贈り物を交換する慣習があるのだとか」


 初日の会談を終え、ウィスタリア殿下は銀の髪飾り、それから今回は出席できなかった弟君へ、ということで銀の時計を贈り物として受け取った。見事な装飾は特別な品であるのは間違いないようで、手に取ってじっと見入っている。


「さあ殿下、まだ明日も交流の場がありますから」


 オフェリアは主人を急かして寝支度を進めた。ちょうど気候が移り変わる時で、万が一でも体調を崩さないようにとあれこれと世話を焼く。寝台に毛布を足して温かさを確かめていると、就寝前の定時連絡らしい声が掛かった。


「はい、殿下はお変わりなく過ごされています」

「何よりです。それから今夜はどうか、居室から出られませんよう」


 これまで特段変わりはなし、とだけ報告し合っていた顔見知りの兵士が、さりげなくオフェリアの目を見て口にした。


「オフェリア? どうかしたの」

「いえ、何もありませんよ」


 報告が終わったオフェリアは何事もなかったように振舞った。主人と共に彼女が受け取ったばかりの装飾品をじっくりと眺め、やがて早めに部屋の明かりを消す。

 素直に寝付いた主人とは対照的に、オフェリアは寝台のそばの暗がりで、部屋の外の気配を探ろうと試みた。しかしどうやら自分達が滞在している場所は、できる限り危険が遠ざけられていたらしい。結局夜明けの頃まで、異変が知らされる事はなかった。


 その夜に、敷地内では大変な騒ぎがあった。武器を集めて国王陛下やウィスタリア殿下、隣国の使節を害そうと目論む者達がいたらしい。しかしこれはある程度予想されていた動きのようで、密かに集められていた手勢によって速やかに鎮圧したようだった。首謀者はスレインが取り押さえて捕縛し、その鮮やかな手腕は後々まで長く語られる事となった。


 早朝には事態が明るみになり、青い顔をして右往左往する者が多い中、ウィスタリア殿下もその一人であった。彼女の身柄を押さえる計画まであったと聞けばオフェリアも平静でいるのは難しかったが、なんとか宥めているうちに父陛下が顔を出した。主だった者も無事であるという報告と、しかしこのような事件があった後では、流石に隣国の使節団との会談は取りやめである。


「お二方とも、ご無事で何よりです」


 巻き込まれた形になった隣国の王子はこの場では騒ぎ立てない事で、今後の交渉を円滑に進められるような決着を望んだようだ。ほとんど寝耳に水の事態に呆然としているウィスタリアを安心させるような別れの言葉を残し、帰国していった。

 その落ち着きを目の当たりにした彼女はようやく、今は王族の一員として冷静な行動が求められていると悟ったらしい。表面上は落ち着いて、側近くに侍る者達を安心させるような言葉を選んだ。


 厳重な警備の中で一行は王宮へと戻り、その間に捕らえた者達から尋問が行われたようだ。今回の企ては、隣国とは距離を置くべきだと再三主張していた一派の仕業だと断定された。

 そうして王太子を害していた手段も排されて治療が施されたおかげなのか、ほどなく起き上がれるようになった。


 二年近く寝付いていた王太子殿下に、オフェリアの主人も献身的に寄り添った。その甲斐もあって少しずつ回復し、ウィスタリア殿下はついに明るい日常を取り戻し、ようやくオフェリアは一息つく事ができた。



 ちょうどその頃合いを見計らうように、国王陛下がオフェリアと両親を呼び出した。生家の後ろ盾も借りながら王城に留まっていたのは英断で、何より心強い振る舞いであったと、陛下自ら場を設けて労りつつ、献身に見合う贈り物を必ず、と書面に残してくれた。


 お褒めの言葉をいただいて、親子三人でほっとして帰路につこうとした時、馬車を停めていた場所から進み出た者がいた。相手はいかにも偶然行き会ったかのような表情を浮かべている。


「ああ、スレイン君か。君の噂も、最近はよく耳に入る」


 スレインは改まった態度で、ナイセル家の主家への献身と功績を褒め称えた。父も彼が見事な機転で、王族に仇なそうとした者達を捕縛した一件を持ち出して賞賛した。


「……」


 一通り口にした後で父はやはり、オフェリアとスレインを見比べるようにして複雑そうな表情を浮かべたままでいる。母が咳ばらいして、やや強引に背中を押した。こちらに向かって近いうちに生家にも顔を出すようにと言い残し、馬車へと戻っていた。


「……スレイン殿」


 周囲を見回し、ようやく二人きりになったのを確かめてから、オフェリアは口を開く。時間も季節も違うけれど、あの夜の事を思い出さないわけにはいかなかった。随分と時間が経ったような気がした。賭けのようなものだとスレインは言っていて、そしてどうやら上手く勝ち取ったらしい。

 オフェリアも主人を含めた周囲はようやく活気と安穏とした空気を取り戻しつつある。


「これは大事なものでしょう」

「そう。やはり使い慣れたものでないと落ち着かない。預かっていてくれて、ありがとう」


 オフェリアはあの夜、慌ただしく受け取ったスレインの持ち物を取り出した。使い込まれた銀の懐中時計の秒針の微かな感触が、まるで名残惜しむかのように感じられた。

 彼が時計をしまい込んだ代わりに、手のひらに収まる大きさの小箱を取り出す。


「私も君に渡そうと思って。今回はようやく預かってもらうのではなく、正式な贈り物として、大手を振って渡す事ができる」


 これまでスレインから手渡されて来たのはたった今返却した懐中時計や、遠い昔には絵本や可愛いうさぎのぬいぐるみだった。それとはまた違った意味合いを持つ特別な贈り物を、彼はオフェリアに差し出した。


「……せっかく大勢の方に認められるような功績を挙げたのに」


 相手は今や、時の人といって差し支えない。たくさんの注目を集めている。それが王宮の隅でわざわざオフェリアを捕まえ、こうして二人だけで顔を合わせていた。


「他の誰でもない、オフェリア、どうかあなたに受け取って欲しい。ここまで待たせてしまって申し訳なかったが」

「……ありがとうございます。思えば、ずっとお待ちしてたように思います。受け取るのが、夢でした」


 このような場面では、気の利いた台詞を返すのがお決まりである。しかしオフェリアの返事は恥ずかしいくらいにたどたどしい内容でしかなかった。ありがたい事に相手はどうやら、こちらの返答にある程度満足したらしい。

 小箱に入っていた指輪には、薔薇の刻印がある。手の中で、指輪が繊細な意匠を淡く輝かせるのを眺めた。


「ちょうど、薔薇が見頃の時期ですね」

「……薔薇が一輪と蕾が三つだったね」


 他愛のない話をよく覚えているものだ、とオフェリアは思う。近いうちに自分達の経緯は秘密ではなく、多くの人々が知るところになるはずだ。

 けれど今は少しだけ、これまでの時間を懐かしみ、そしてこれから先の未来に思いを馳せる事が、好きなだけ許されているらしかった。


 





 周囲はようやく落ちついて、スレインは国王陛下が特別にと提案した爵位と領地の件を正式に受けつつも、当面は近衛騎士としての仕事を続けている。拙速な振る舞いは余計な恨み妬みを買い、足を掬われかねない、という。堅実なやり方を好む彼らしい立ち回りであった。

 

「……指輪が見たいのですけれど」


 オフェリアが一輪の薔薇を刻印した指輪を受け取った時、スレインも揃いで指輪を作らせていた。にも拘わらず、有事には剣を握る仕事であるためか、彼は普段指につけていない。

 傷がついたり変形したりしてしまっては困るとして、細い鎖に通して首から掛けて身に着けていた。


「……どうぞお好きなように」 


 そのあたりは個人の判断であるためこちらは口を出さないが、指輪を二つ並べて眺めたい夜もあった。

 王城での勤めを終えて屋敷へ戻ったスレインにお願いすると、一応応じてくれる。しかし何故か毎回オフェリアが首に手を回して、引っ張りだすところから始めなくてはならない。ぜひして欲しいのだと恥ずかしげもなく口にするので、渋々金具を外しながら、手のひらへ転がった一回り大きな指輪を眺めた。スレインの指輪に刻まれている三つの薔薇の蕾は、わざわざ裏側に彫り込まれているという念の入れようである。


「……裏側に刻んだら嵌めた時に見えないのに」

「それは私の好みなので」

 

 変なの、と口に出しつつも彼の指に嵌めてから手を重ね、指輪同士が静かに触れ合うのを、彼は満足そうに見つめている。


 一日の終わりにその表情を眺めるのが、オフェリアは好きだった。 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ