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あっと言う間に全ての魚肉がギョニクゾンビから切り離されてしまい、元の魚に戻った。今クリーティアたちの前にいるのは、意識があるのかないのか判らない顔で突っ立っている魚屋一人。そしてその体を繭のように包んでいる、ドス黒い煙のようなモノたち。
ギョニクゾンビが吸い集めた生霊、フラれ怨念たちだ。
「よし、トドメにゃクリーティア!」
「はいっ!」
クリーティアが、リキを入れて青い小瓶を振り被る。
と、魚屋を包んでいた怨念たちが一斉に、クリーティアめがけて襲いかかってきた!
「あ……っ!」
その様は毒蛇の群れのよう、あるいは食虫植物の触手のよう。怨念たちはクリーティアに絡みつき縛り上げ、身動きできなくしてしまう。
怨念たちの根元である魚屋が笑みを浮かべた。そして分厚く重なった何十人もの声で言う。
「俺の、俺たちの恨み、そう易々と消せはしない……こうなったらお前を取り込んで……お前の肉体を、魚肉の代わりにしてやる!」
どうやら吸い集められた怨念たちが、逆に魚屋を操っているらしい。
クリーティアは瓶を振り上げた姿勢のまま、栓を抜くこともできずに固まっている。ポチは何とか助けようとするのだが、怨念たちの臭い立つような瘴気に阻まれて近づけない。
「よくも、俺の傷口に塩を塗りこんでくれた……こ、このボクっ子め、ボクっ子め! 俺の理想だったんだ、あの子はああぁぁ!」
「サラサラキラキラの、金髪……うおぉ金髪! 思い出させるなっっ! 人の悲しみと無念を、抉るのが、そ、そんなに楽しいかっ!」
「セ、セェラァ服……っ! ちくしょう、俺の何が悪いってんだ! 生きて動く人体より、その温もりが残る衣装に心奪われるのは、断じて異常な嗜好などではないっっ!」
暗く黒い瘴気(か?)が、障壁となってポチを阻む。怨念たちの声が、耳だけではなく心にも、音だけではなく意志として、染み込んでくる。これ以上踏み込めない、というか踏み込みたくない、濃密過ぎる不快空間ができてしまっている。
クリーティアはそんな怨念たちの、ど真ん中に捕らわれているのだ。怨念たちに縛られて身動きできず、その手に持ったクリートの薬を使うこともできずに。
「クリーティア! クリーティアっっ!」
「……うぁうっ……っ」
叫ぶポチの声も、おそらく届いていないだろう。いまやクリーティアは、無数のアリにたかられた飴玉のような状態だ。埋もれ、侵食され、もがいている。
どんどん、どんどん、クリーティアの小さな細い体が、怨念たちの中に消えていく。
「ク、クリーティ……にゃっ?」
その時。底知れぬ暗黒の塊である怨念たちの一部が、何かによって内側から切り裂かれた。一筋の光が、怨念たちの間から漏れている。そしてその光が、少しずつ広がっていく。
クリートの薬か? 違う。怨念たちが割れて徐々に見えてきたクリーティアの体は、さっきの縛られポーズで固められたままだ。薬の栓は抜かれていない。
違うのは一つ、クリーティアの頬。その頬を、一筋の涙が伝っている。
「……あなたたちも……だったんですね……」
クリーティアの涙が光となって、怨念たちをみるみる退けていく。
ポチは目を丸くしている。魚屋は困惑している。その二人の目の前で、クリーティアを縛り上げていた怨念たちは全て、クリーティアから離れてしまった。
クリーティアは、自分からゆっくりと、怨念に包まれている魚屋に向かって歩き出す。
「お、お前は一体、何だ? 何なんだ?」
魚屋はまだ身に纏って残していた怨念たちの一部を、クリーティアに向かって放った。が、その怨念たちも、クリーティアの涙に触れると溶けるように霧散してしまう。
魚屋の目の前にクリーティアが立った。潤んだその瞳で、魚屋と怨念たちをじっと見上げる。
「伝わってきました。あなたたちの辛い記憶と哀しい想い。あなたたちも恋をして、けれども叶わず、こころ破れて……苦しんでいたんですね」
クリーティアが魚屋の胸に顔を近づけた。そしてその鼓動を聴くように耳を、頬を、そっと触れさせる。
魚屋と怨念たちは、そんなクリーティアを見下ろして、身動きできずにいた。
「僕も同じです。大好きな人に、愛してもらうことができなくて。そのことに耐えられず、その人の前から逃げてしまった。だから解ります、あなたたちの心の痛みが」
クリートのことを思い出して、クリーティアはその大きな目から涙を溢れさせた。
その涙が魚屋の胸を濡らし、その熱さが怨念たちに伝わっていく。
「辛いですよね、片想いって。僕も……悲しいけど、今はどんなに頑張っても愛して貰えないんです。僕は、僕はこんなにご主人様のこと、愛しているのに……」
クリーティアの涙声が、苦しそうに詰まって途切れた。魚屋の胸に顔を埋めて肩を震わせる。
やがて、涙を拭ったクリーティアは、
「……でも僕は諦めません。だから、あなたたちも諦めないで。こんなところで、こんなことをしていても、想い人は遠くなるだけですよ。頑張りましょう。僕も、あなたたちと一緒に、頑張りますから」
怨念たちの核である魚屋の顔を見上げた。優しさと決意、慈愛と強さに満ちた目で。
その視線と声が、魚屋と怨念たちを射抜き、そして包み込む。
すると魚屋が身を震わせて、その口から、いや全身の怨念たちから、オオオオオオオオォォォォ……と地の底から這い出してくるような、長く低く重い雄叫びが溢れ出た。その雄叫びが消えていくのと一緒に、怨念たちが根こそぎ残らず、溶けていく。まるで、春を迎えた大地の雪のように。
溶けた怨念たちは蒸発するように空へと上り、そして四方八方へ散っていった。
ポチはその様子を、呆然とした顔で見ている。
「お、怨念が怨念でなくなった上で、本人の元へと帰っているんだにゃ……こんなの、高位の僧侶ですら滅多にできないはずなのに」
ギョニクゾンビが消え、その力の源であったフラれ怨念たちも消えた。
後に残ったのは、魚屋を見上げて涙を溢れさせているクリーティアと、そのクリーティア以上に涙を溢れさせている魚屋。そして、ぼむ! と音がして、
「っ……こ、これは」
焼き魚にされていたナデモが元に戻った。
時を同じくして、街中でぼむ! ぼむ! と音が響いた。どうやらナデモと同じく、焼き魚にされたみんなが元に戻っているらしい。
ポチは心配そうにナデモに駆け寄った。
「ほんとにちゃんと戻ったのかにゃ? どこか痛かったりしないかにゃ?」
「はい、大丈夫です。何ともありません。……つまり、呪いが完全に解けたわけですよね。術をかけた者の念が、単に途絶えたのではなく、きちんと浄化されたということ」
ナデモがクリーティアを見た。クリーティアはまだ魚屋と見つめ合っている。
「聞こえていましたが、あの子が説得して改心させた……ようですね」
「そうみたいにゃ。あの子の言葉と涙が、怨念たちに通じたんだにゃ」
危うく、怨念たちに取り込まれて、魚肉代わりにゾンビの素材にされるところだったクリーティア。そのクリーティアの、嘘偽りの無い真心が、失恋に狂う怨念たちを鎮め、ギョニクゾンビを見事に浄化した。
クリーティア自身も同じ傷を負っていたからこそ、できたことであろう。
「何と言いましょうか。あの子ってまるで、英雄伝説か何かに出てくる、お姫様みたいですね」
「アタシもそう思うにゃ」
「……でもあの子、失恋して逃げたって言いましたよね。もしかしてクリートさんが?」
「ああ、そのことかにゃ。実はあの子は」
「おぉ~い!」
街外れの方から、クリートが駆けて来た。
「効いたみたいだな、俺の薬! しかも呪いまで解けちまうなんて、やっぱり俺は天才……」
「ぅおにゃああぁぁっ!」
ポチが大きく背面ジャンプして後方縦回転、クリートの脳天に蹴り降ろしを喰らわせた。必殺・肉球オーバーヘッドキックである。
駆けて来たクリートはそのままの勢いで前方にべちゃっ、と潰れ伏す。
「そもそもアンタのせいで、今! クリーティアがメチャクチャ危険な目にあったんだにゃ!」