5. 夜空に咲く ①
春にはまだ早いが、吹きつける風が心地よいと思えるくらいの、暖かい昼下がり。
風に揺らめく几帳が、小さく床と擦れる音をたてる中、それを遮る慌ただしい足音が迫ってきた。
「ねぇ様!」
「姉上!」
「あねうえ、あにうえ、まってぇ」
興奮した幼い声たちは、壁を通り抜けて響いている。
「珠子起きろ」
書物に顔を伏せてうたた寝している珠子を、ぶっきらぼうに青年が呼び起こした。
「兄上……?って、何勝手に入ってきてるんだ!」
入ってこられて困ることは何も無いが、とりあえず反発してしまう珠子。
ついこの間までの5年間、ほとんど顔も合わせずに過ごしていたと言うのに、ひとつ言葉を交わしてしまえば全て元通りとなっている。
家族とは不思議なものだ。
「母君にこいつらを頼まれたんだ」
母君とは、珠子や姉兄の母とは違う。
跡継ぎを確実に産むための側室。
つまり珠子の父のもう一人の妻のことだ。
特に理由はないが、自分たちの母を母上、腹違いの弟妹の母を母君と呼び分けていた。
「ねぇ様、俺、新しい翳鳥を見つけたんだ。今から後ろに乗せたげるよ。行こう!」
ひと息に言い切って、珠子の手を握り目を輝かせる少年は、多分文政だ。もうすぐ10になる頃だろうか。
「姉上、紋子のこと覚えてるよね?!」
「……いや。珠子がおんぶして寝かしつけてるときに漏らしたことなんて、覚えてないけど」
「それは私も覚えてない」
潤ませていた目を一瞬で暗くした紋子は、文政の双子の姉だ。
上の子たちはよく遊んでいたし、5年ぶりとは言えなんとなく分かるが、下の子には初めて会う子もいる。
「ねぇねぇ、あねうえ、このひとだれ?」
紋子の後ろに隠れ、珠子を指さすのは、歳の頃からして靖政だろう。
5年前の翳の襲撃で、ごたついていた最中に生まれた子だ。会ったことは一度もなかった。
「珠子ねぇ様だよ。俺たちのもう一人のねぇ様」
「あねうえなの?」
ちょこんとした綺麗な瞳で見つめられ、なぜか申し訳ない気持ちになる。
「そうだ。ずっと顔を見せられなくて、すまなかったな」
「なんであえなかったの?」
「えっと……」
返答に困っていると、今まで一言も言葉を発さなかった知政が、ふんと鼻を鳴らした。
「これからはいつでも会えるんだから、今までのことは許してやるよ。けどな」
そう言いつつ、手にした2つ木刀の片方を珠子の足元へ投げる。
「久しぶりだからって手加減はしないぞ」
知政は腹違いの兄弟の中では最年長だが、珠子よりは4つも年下だ。
それを毎回ボコボコにしていたツケが回ってきたようだ。
「全く許されてないじゃないか……」
だがあれは知政が手加減をするなと言ってきたからだ。
珠子は悪くない。
「じゃ、外行くぞ」
「うわーん。知ちゃんの反抗期ー」
「うるせぇ」
5年前は可愛らしいところもあったのに。
知政は、いつからこんなにツンツンするようになったのだろう。
紋子と文政は、いつから珠子と変わらぬ言葉を話すようになったのだろう。
靖政は、そもそもどういう赤子だったのだろう。
改めて5年という時の長さを感じ、底のないやり切れなさに駆られた。
「らぁっ!!!」
「いっ」
知政の攻撃をすんでのところで左へ逸らすが、久しぶりに感じる刀が空を切る音に、首の後ろあたりがこわばる。
「弱くなったな姉上っ」
「ったりめー……だわっ!!!」
技術としては、知政に食らい付いていけなくもない。
しかし体力に天と地ほどの開きがある。
1振り2振りでもう腕が重い。
「年上にっ……花をっ持たせろ!」
「情けないな」
「姉上……」
「頑張れー」
耳から入る兄や妹弟の声を、頭に届ける暇もない。
左から迫る刀に、なんとか自分のものを当てるが、力で押し負けそうになる。
「もう……無理!」
悔しいが、弟の成長と自分の衰えを認めるしかないと思った刹那、三度の空砲が皇居のどこかから鳴り響いた。
そしてそれに重なり、知政の木刀がなんの前触れもなく粉砕する。
「なにっ?!」
靖政が怯えて紋子の袖を掴む。
「……」
訝しげにこちらを見つめる知政に、珠子は大きく首を振った。
「ごめん。マジでわざとじゃない」
「珠子、お前……」
兄が何か言いかけるが、言葉を選び取れずに無言になる。
「あれは今日、母上や父上が行ってる式典の、始まりの合図だよ。貴族の3歳の子がやるやつ」
「靖政も去年やったでしょ?」
その沈黙の理由を分かっているのか、分かっていないのか。
とにかく気まずい空気を断ち切るように、文政と紋子が先程の空砲について晴政に説明する。
「て、あらうやつ!」
帝自らが神泉で汲んできた水で、幼児らの手を清め、疫病を追い払うという儀式。
3つを迎えた貴族の子らを集め、毎年執り行われる。
「よるははなび?」
「そうだよ」
そして夜、色とりどりの花火をあげて、無病息災を祈る儀は幕を閉じる。
「みんなで見ようか」
珠子の提案に、弟妹たちはやったー!と歓声をあげた。
「最近漏れてきてるっぽいんだよな」
花火の話に花を咲かせる弟妹たちに背を向け、兄にぼそりと珠子は呟く。
「そろそろちゃんと働けって、天がお怒りなのかも」
へらへらと笑ってみる。
それを横目で見ながら、時政は言った。
「それなら、それを見過ごしてる俺たちも同罪だな」
「兄上……。愛、重すぎだぞ」
口の端を上げようとする筋肉を必死で押さえつけながら、茶化す。
そして、しっかり頭に拳を振り下ろされ、涙目になってしまう珠子であった。
「なんこくらいあるかな、はなび!」
「100はあるよなぁ」
「1000は?!」
「さぁ」
肌を冷たく撫でる風に身を寄せあい、珠子たちは空を見上げる。
貴族たちが並んで座る、手広い庭の端の楼閣。その屋根の無い最上階で、多数の兵たちに周りを囲まれながら、弟や妹がはしゃぐのを聞く。
ゴーンと夜を告げる鐘の音が響き、いよいよ最初の光線が空へと登っていった。
「……あれぇ?」
いつ開くのかと息を止めて見守っていた見物人たちが、空から目を離し、周りのものとざわつき始める。
「失敗か?」
「しっぱい!!」
それはそれで楽しくなる子供たちと引き換えに、ある程度歳を重ねたものは顔を強ばらせる。
兵たちの間にも緊張が走るのを感じた。
人が行うことだから、もちろん失敗することもあるだろう。
だが貴族たちの宴でそれが起こる場合、誰かの作為を疑わない訳にはいかないのだ。
珠子はふと、ある者の言葉を思い出して空を見上げた。
「新月……」
張り詰めた空気を切り裂き、誰かの叫び声が響いた。
それを皮切りに、混乱が庭中を包み込む。
「翳だ!!!」
夜空に咲く大輪を楽しむため、できる限り明かりをなくした広場では、目の前に迫るまで敵の刃は見えない。
「明かりを灯せ!」
「人もいるぞ!」
「手を組んでいるのか?」
「そんな馬鹿な!」
暗闇から聞こえる罵声や叫び声に、珠子は飲み込まれてしまいそうになる。
「っっっ……ははうえ!ははうえ!!」
靖政の泣き叫ぶ声で、我に返った。
兵の一人が靖政を抱き上げ、楼閣の中へ避難するように呼びかける。
「こちらへ!!」
紋子と文政も難なく担ぎ上げられ、階下へ向かう階段の中へと連れ込まれる。
「俺はいい!」
手を伸ばしてきた兵を振り払い、知政も、連れられていく弟たちの後を追う。
「姫様、若様も」
残りの兵は珠子と時政を囲み、中へと誘導する。
しかし――
頭の上を覆った何かに、5人ほどの兵もろとも為す術もなく吹き飛ばされた。
「兄上……。っっ血が!」
その腕の中で見上げた時政の顔からは、赤黒い血液が流れ落ちていた。
「……大丈夫だ。伏せてろ!」
楼閣の中へと繋がる扉は、先程の攻撃で崩されてしまった。
「おい!そっちは無事か!」
崩れた扉の向こうへ時政は叫ぶ。
「みんな無事だ!そっちは?」
こもった知政の声が答えた。
「珠子も俺も無事だ!にしてもまずいな……飛び降りるか?」
下を覗き込み、どこか緩衝材になりそうな場所はないかと時政は探す。
とは言え、ここは5階だ。
「窓から中に入れないか」
珠子も恐る恐る下を覗くと、このひと時のうちに、庭は大量の死体で埋まっていた。
貴族、その従者、兵士、その中には顔を知っているものも多くいた。
「また……」
行かなくては。
やらなくては。
この状況を少しでもマシにできる力が、自分にはあるはずだ。
分かっているのに、あの日からの父や姉、兄の声が耳から離れない。
悲しみが。
苦しみが。
憎しみが、こちらを見つけるのを、ずっと恐れている。
「珠子!!!」
時政の叫び声に反応する間もなく、突風のようなものに体を持ち上げられた。
そしてすぐにその感触は消え、火が燃え広がり始めた庭へと体は落ち始める。
感じたのは死への恐怖ではなく、選択を先延ばしにし続けたことへの後悔だった。