4. 月夜の邂逅 後編
(気まずい……)
だいぶ落ち着いてきたところで、二人は棟に腰掛け餅を食べ始める。
外側は涙でしょっぱく、内側はほんのり甘かった。
珠子は鼻をすすりながら、チラッと女の方を見る。
「さっきはすまなかった。対応に困っただろ、あれは」
「いえ」
人前で涙を流すなんていつぶりだろう。
思い返してみて、恥ずかしさで餅を握り潰しそうになったが、不思議と嫌な気分ではなかった。
「私は珠子と言うのだが、お前の名はなんだ?」
「……一応咎人なので、名乗るのは避けたいのですけれど」
それもそうかと頷くと、女は眉間に皺を寄せた。
「というか、あなたこそ名乗ってはいけないのでは?」
「あえ?」
皇族や貴族の名は公文書などには記載されるし、庶民にも知る術はある。
だが普通は、雲上人同士であったとしても役職名で呼び合うし、家族以外が実の名を口に出すなどありえない。
だから皇族が、それも庶民相手に名乗るなんて、友好の証しどころか、あの世に送る前の手土産に名を教えてやるぜみたいな状況に取られかねない。というのはさすがに言い過ぎかもしれない。
「盗人の癖に、右京みたいなこと言うんだな」
面白がりつつ、珠子は両手を合わせる。
「でも今だけは、普通の町娘扱いしてくれないか。皇女からのお願い♡」
普通の人扱いしろと、権力をチラつかせながら言うところが、ワガママな姫らしい。
「……分かりました」
女は呆れつつも、もう涙がこぼれる様子のない珠子に、胸をなでおろした。
きっと彼女には、皇族という重しから逃れられる場所が必要なのだろう。
「珠子……さんは、なぜここに?」
呼び捨てはさすがに気が引けて、さん付けで呼んでみる。
珠子は、それなりに満足そうに口を開く。
「ちょっと、嫌な夢を見てな。そういう時は、いつもここに来るんだ」
ポンと叩いた屋根の下、橙色の光が漏れ出る宴会場からは、口笛と共にバラバラな歌声が聞こえ始めた。
こういっためでたい宴でいつも歌われる唄。
「いい子守唄だろ?大の大人たちが、酒にやられて馬鹿みたいにはしゃいでくれてるから、悪夢なんて寄りつけやしない」
ここでだけは、難しいことは何も考えなくていい。
風に乗って聞こえる笑い声たちに、そう言って貰える気がしていた。
「お前は、過去に戻りたいと思ったことはないか?」
唐突に、珠子は問う。
女は目線を下に逸らし、そしてもう一度珠子の顔を見た後、苦笑しながら答える。
「……ありません」
想定していたものとは真逆の答えが返ってきて、珠子は目を見開いた。
女は、遠い記憶を見つめるように言葉を繋ぐ。
「取り返しのつかないことを、たくさんしてきましたから。あんな思いは一度で十分です」
取り返しのつかないこと。
だからこそ、戻りたいとは思うのではないのだろうか。
「今の記憶を持ったまま過去に戻れたとしても、同じ選択をするのか?」
何かを諦めたような顔で、女は頷いた。
「ええ」
冷たい風が吹き付け、暁炎が羽を震わせる。
「……お前は強いんだな」
先程よりも高い位置に登った月を眺めながら、珠子は呟く。
「時は戻らないけど、止まりはするみたいだ。あの日から、珠子は一歩も進めていない」
女は首を振った。
「振り返る勇気がないから、進むしかないんです」
そう言うと、女は何か吹っ切れたように立ち上がった。
「では、これで」
暁炎を一撫でして背を向ける女に、珠子は咄嗟に手を伸ばす。
「まっ……また会うことはできないか?」
女の着物の袖を掴み、切実に問いかける。
女は驚いたように振り返ったが、すぐに優しい笑みを浮かべて首を振った。
「できません」
「なぜだ……」
「皇女様と咎人が仲良くする訳にはいかないでしょう」
もっともだが、珠子は引き下がらない。
「バレなきゃいいだろ!珠子はただ……」
隣にいてくれる人が欲しかった。
母のことも、何も知らない。
罪悪感なんて感じなくていい相手が。
「ごめん……珠子の勝手すぎたな」
袖を離し、自分に呆れたように笑う。
「友達との約束も守れなくて、家族もめちゃくちゃにして、助けられる人もたくさん見捨てて……」
力が抜けたようにその場に腰をおろして、珠子は体を丸める。
「ずっと逃げたかったんだ。珠子の過去なんて何も知らない人との、新しい人生が欲しい。全部……忘れてしまいたいたかった」
楽になりたい。
言ってしまっては、全てがそれに囚われてしまう。
そう思って鎖をかけていたものを、さらけ出す。
膝を抱えて下を向いた珠子に、女は反射的に口を開き、そのまま何も言えずに大きく息を吐いた。
屋根下から聞こえる歌は、いよいよ最後の盛り上がりをみせるところだ。
「過去は忘れられないし、変えられもしません」
女は、ようやく言葉を見つけて話し出す。
「過去が変えられるものなら、幸せだった思い出すら、不確かなものになってしまう」
再び女は珠子の元へ寄り、身を屈めてその顔を見た。
「でも……本当のことを言うと、私はずっと、誰かに代わってほしかった」
自分が立つには、誰かが倒れなければならない。
そんな世界にしか、自分の生きる道はないのだと考えたときの、地面が大きくうねる感覚。
「だから今日、あなたと話せて良かった。これから悩む度に、あなたのことを思い出せる。だから――」
珠子の頬に手を添えて、女は微笑んだ。今までの淑やかな微笑みではなく、子供のような、眩しいだけの笑み。
「これからも、共にどこかで生きていきましょう」
抱えるものは違えど、同じ絶望を足元に、生きている誰かがいる。
そう思うだけで、胸のどこかが軽くなる気がした。
珠子は思わず、潤んだ目に力を入れる。
「うん……」
女は、安心したように一息ついて、立ち上がる。
「では」
何の躊躇もなく3階の高さから飛び降り、暗い路地に降り立つ。
珠子は暁炎と下を覗き込みながら、女を見送る。
「それから」
ふと思い出したように、女が立ち止まった。
「新月の夜は出歩かない方が良いですよ」
5年前のあの日のような、新月の夜。
「闇夜は翳の力を増大させる。そこのおじい様にも対応できるとは限りませんから」
女が視線を向けた先を見ると、右京が物陰の中から出てきた。
付けてきてはいるだろうと思っていたが、女はいつから気が付いていたのだろうか。
「では、さようなら」
「ああ、またな」
また、は来ないとしても、そう言っておきたかった。
小さく微笑んだ女が消えて行った角を眺めながら、珠子は大きく息を吸った。