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3. 月夜の邂逅 前編

「んーんーんんーんー」

 冬の夜は静かだ。

 薄く月明かりの差し込む部屋に、母のおぼつかない歌だけが響く。

 小さい頃からよく聞かされた、母の故郷の子守唄。

「母上……」

 その呼びかけに、母が応えることはない。

「ずっと歌っていたのか?喉渇くぞ」

 珠子(みこ)は困ったように笑いながら、机に置かれた急須から湯のみに茶を入れ、母の口につけた。


 母は自分から水や飯はとらないが、口元に運べば食んでくれる。

 初めのうちは水を口に入れてもむせるだけだったから、嚥下してくれるだけで物凄くありがたい。

 湯のみの半分くらいまで飲ませたところで、立ち上がる。

「外行ってくるな」

「……」


 もしあの時、一緒に逃げていれば。

 飛び出した珠子を追いかけて来ていなければ。

 気をつけてね、そう言ってくれただろうか。それとも、夜中に外へ出るなと怒ってくれただろうか。

 考えても、答えは浮かんでこない。

 ただ、母をあんな姿にした自分への呪いが、湧き上がってくるだけだった。




 都随一の繁華街。

 新しい年を迎えて十日ほどが過ぎ、あちこちで成人を迎えた者たちの宴が催されている。

 その中でも一際騒がしい宴会場の屋根の上に、珠子は降り立った。

 遠くには、湖に浮かぶ自分の家も見える。

 都が翳に襲われて5年。もうその痕跡は、皇宮や都の中心部には残っていない。


 あの夢を見た日は、暁炎(ぎょうえん)といつもここに来る。

 笑い声や歌う声、懐かしいような切ないような空気に触れているうちは、きっと大丈夫だと思えるから。


 ここ(みず)(その)では、18で成人だ。

 珠子にはあと3年先の話だが、先のことなど考える気にはなれない。

「このまま何も変わらなかったら……どうしようか」

 キュルルと喉を鳴らした暁炎の、柔らかな羽毛に顔を埋める。

 そのゆっくりと波打つ鼓動を聞いているうちに、眠気が忍び寄ってきた。

 

 途切れ途切れの意識の中で、長い髪が冷たい夜風に揺れているのを感じる。

 心地よく眠れそうだと安心したそのとき、屋根の端の方からコツッと音がした。

 鳥か鼠か。

 暁炎をギュッと抱きしめ音のした方に目を向けると、月影を背に、軒先を軽々と飛び越えてきた女と目が合った。


「え……」

 屋根の上で人と出くわすとは思ってもいなかったし、ここ最近は人とほとんど喋っていなかったから、上手く言葉が出てこない。

「どこ行きやがった……。くそっ」

「こっちには居やせんねぇ」

 下の道で、それなりに身なりの良い男たちが騒いでいる。どこかの貴族のお付きの者たちのようだ。


「あ……」

 女の方を見ると、気まずそうに目を逸らした。

 珠子は、どうすべきか迷った末、小さく暁炎を呼ぶ。

「暁炎、これを」

 懐から取り出した袋を暁炎の嘴に挟ませる。

「しばらくしたら戻ってこい」

 暁炎は音もなく羽ばたき、下の男たちの元へ飛んでいく。

「うおっ」

 驚いた男たちの足元に袋を落とし、そのまま空高く登って見えなくなった。


(かげ)に化かされたとでも思ってくれ」

 ふふふと笑う珠子の下で、男の一人が訝しみながら袋を手に取り、中を覗いてひゅっと息を飲む。

 そして何やらコソコソと仲間たちに耳打ちし、引き返して行った。


 彼らの姿が完全に見えなくなった後、女は口を開いた。

「いいのですか?」

「良くはないな」

 悪びれもせずに即答する。

「けど、人から恨まれるのは好きじゃないから。どちらにもいい顔をできる選択をしたんだ」

 珠子はムフンと得意げに笑ってみせるが、威張れる要素はひとつも無い。


「咎人に加担する皇女(ひめみこ)など、前代未聞ですね」

「なぜ分かったんだ!!!?」

 驚愕する珠子に、女も驚きを隠せない。

「冗談のつもりだったのですが」

 あ……と、気まずい沈黙が流れる。

「まあ、それほど上質な衣に、あの大金を投げ捨てられる財力を持つ者は、雲上人以外の何者でもないでしょう」

 何より、冬の装いにもかかわらず分かるその体の薄さ。今にも消えてしまいそうな青白い肌に、闇に溶ける長い黒髪。

 5年前の翳の襲撃で皇后が倒れてからというもの、2番目の皇女も気を病み、ほとんど部屋から出ずに過ごしているらしい。というのは民の間でもよく知られていた。

 だが本人は、そういった噂が流れているのを知りたくないだろう。


「あ……。手、怪我してるぞ」

 女の腕を掴み、手のひらにある傷を確認する。

「さっき壁を登ってくるときに、角で擦っただけです」

「でも痛そー」

 女の手には、その傷だけでなくタコや小さな擦り傷がチラホラとある。

 珠子の汚れひとつない白い手とは違う。誰にも守られずに生きる者の手だ。

 ぎこちなく笑みを浮かべて、珠子は呟いた。

「きれい……」


 つかの間の静寂を突き破り、舞い戻ってきた暁炎が二人の間に降り立つ。

「暁炎!早かったな」

 撫でようとする珠子には目もくれず、暁炎は女の肩に擦り寄った。

 暁炎は確かに人馴れしているが、珠子以外にこんなに甘えるのは初めて見た。

「何だお前、お姉さん好きか?」

 困惑していると、ふと思い当たることが浮かんだ。

「そうだ。千影(ちかげ)の……昔こいつを飼っていた友達の母上に似てるんだ」

 時折夕餉を作ってくれた、子供ながらに美しい人だと思っていた、あの。

 記憶を辿ろうとしたが、せり上がる胸の拍動に、思いとどまった。


 そして、そんなことを見ず知らずの人に言ってもしょうがないかと思い、すぐ話題を逸らす。

「そうだ、小腹空いてないか?」

 そう言って、父に貰った餅を懐から取り出す。

 母がああなってからというもの、珠子はほとんどの時間を母の隣で過ごしていた。外にも出ないから、腹も空かず、食事は出された物の半分も食べきれない。

 それだけが理由ではないが、どんどん線の細くなる珠子を見かねて、菓子なら食べられないかと父や姉兄たちが送ってくるのだった。

 けれど、その優しさが珠子には痛かった。

「はい」

「ありがとうございま……」

 女が言葉の途中で、自分の手を凝視し、固まる。

 珠子もその視線につられ、女の手のひらを見ると、先程の傷口がどこにも見当たらなくなっていた。


「凄い……。癒しの術が使えるのですか?」

 顔を輝かせる女とは反対に、珠子の顔は青くなっていく。

「そんなはずは……」

 ハッと胸に手を当てて後ずさると、屋根の急斜面に足を取られ、体勢を大きく崩した。

「大丈夫ですか?!」

 女は、とっさに珠子の腕と腰を引き寄せる。

 転がり落ちた菓子袋は、暁炎が足で止めた。


「ごめん……なさい……」

 珠子を抱き抱えた女にすら聞こえないような掠れた声が、喉を震わせた。

「姫様……?」

「ごめんなさい…………。ごめんなさいっ」

 心に貯めてきた言葉が、堰を切ったように溢れだしてくる。

「ごめんなさい」

 驚きつつも優しく背を撫でてくれる女にもたれかかり、珠子の5年分の悔恨は続く。


 母、父、姉兄、顔も知らない民、そして千影。

 許しを乞う弱さを、許して欲しかった。

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