2. 果たせなかった約束
「それでね、右京が助けてくれて……」
「うーん」
「あ、あと帰りはめちゃくちゃ星が綺麗だったんだ。流れ星も1個見つけたぞ!」
「……」
「母上、聞いてる?」
「多分……」
母親の寝所に忍び込み、一連の出来事を嬉々として報告する。
周りにはいつも兵や官がいるから、布団でこうしている時間が一番、心休まる時間だ。
「まあいいや。明日また話すもん」
夏真っ盛りの蒸し暑い夜だが、さすがは皇宮。
貴重な涼の術が施された間では、毛布にくるまり、母にピタッとくっついても暑くない。
本当は自分の殿も持っているが、珠子は未だ母と共に眠っていた。
「冒険するのはいいが、命が危ないことはするんじゃないぞ……」
そう言って珠子の頭を撫で、完全に夢の世界へ入る母。
しばらくその寝息を聞いていたが、いつの間にか珠子も眠りについてしまっていた。
息が苦しくて目が覚めると、母が上から覆いかぶさっていた。
「母上……?」
「珠子、逃げるぞ」
「え……」
窓から入る光は赤く、なぜか焦げ臭い匂いがした。
「火事?」
突然意識がはっきりしてきて、全身が粟立つ。
「きゃあああ」
轟音と共に建物が揺れ、珠子を抱きしめる母の腕により力が入る。
書物や装飾品が床に散らばり、天井が軋む音がする。
「翳たちの襲撃だ……」
都の端の方や地方での襲撃は、大小問わねば日に数回報告があがっている。だが都の中心部、それも皇宮まで狙われるなど前代未聞だ。
「皇后様?!ご無事ですか!!」
遠くから呼びかける声がするが、瓦礫でもあるのか進めずにいるようだ。
「私は無事だ!珠子もいる!私たちだけで逃げられるから、お前達も逃げろ!!」
母はそう言うと、布団をどけて手を床に置き、何やら唱え始めた。
「ウツシノサウヲバアラハセ」
すると何も無かったはずの床に、薄らと切れ目が現れた。
その隙間に指先を立てて板を外すと、下にはハシゴがかけられた狭い縦穴が続いていた。
「母上が先に行くから、安心して降りてこい」
「うん」
長い着物の裾をたくし上げ、母は下へと降りて行く。
5つほど降りたところで、上を見上げる。
「珠子、おいで」
小さく頷き、一段目に足をかけようとしたとき、窓の外に赤い翼が見えた。
「暁炎!」
死ぬときは一緒に。
窓の外、黒煙に包まれた都を見て、ふとそんな約束を思い出した。
「珠子?!」
母の呼び声を背に、窓へ駆け寄る。
広々とした露台に出ると、暁炎は背を曲げて待っていた。
「行こう」
その背に珠子が捕まったのを確認するやいなや、暁炎は地を蹴り空へと登る。
「待て!珠子!!」
母が、伸ばした手で空をつかみながら、叫ぶのが聞こえた。
「ごめんなさい……」
罪悪感を感じないほど子供ではないが、死の恐怖に従えるほど大人でもない。
広大な湖に浮かぶ皇宮は、あっという間に、視界に収まるほど小さくなった。
湖を囲み、豪奢に飾られていた建物たちは、無残に崩れて、大気が赤く夜の都を浮かび上がらせる。
「千影……」
いつもと暁炎の羽ばたき方が違うと思ったら、右の翼に穴が空いているのが見えた。その他にもあちこち体に欠けた部分がある。
翳と一括りにしているが、それらは個々に異なる性質を持ったものたちだ。理由があれば殺し合うし、翳の中にも狩るものと狩られるものがある。
「もうちょっとだ。頑張れ!」
主を守りきれず、最後の望みとして珠子を連れていこうとしているのだろう。
翳は痛みを感じない生き物だが、ボロボロになったその姿は、痛々しく悲しいものだった。
「ポロロロロ」
千影の家があったはずのあたりで暁炎が降下し始める。
そこに見知った建物はなく、散らばった木材や石が炎に包まれていた。
「千影!!!」
暁炎の背から飛び降り、瓦礫の中を探す。
「千影?……千影?!」
千影どころか、声に反応する気配はどこにもない。
柱に押しつぶされた者、腹の裂けた者、小さな片足、壁にこびり付いた血液。
まるで体から抜け出たかのように、それをかき分けて友人を探す自分を眺めていた。
「ちか……」
何十回とその名を呼んだ頃、やっと珠子は千影の姿を捉えた。
まず見つけたのは、短刀を握りしめた腕。
その数歩先に、右腕以外の彼の体はあった。
「珠子ー!珠子ー?!!」
どれほど立ち尽くしていたのだろう。
枯れた声で叫ぶ母を見て、張り詰めた空気が一気にゆらぎ出した。
「母上……千影が……!!」
駆け寄ってきた母の腕に飛びつき、その胸元に顔を押し当てる。
だが――
そこにいつものように身を任せることはできず、母の傾く体に為す術もなく押し倒された。
「っ母上……」
腰やら背中やらを打った痛みに悶えながら母の顔を見る。
目に映ったのは、いつもの優しく微笑む瞳ではなく、暗い穴だった。
瞬きを一度だけしたその時間が、永劫の時ように長く感じた。
その瞬間、みぞおちが締め付けられるように軋んで、胃の中にあったものを全て吐き出す。
「……かっ……っ…………!!」
震えが身体中に広がり、思考もはっきりしない。
その穴から溢れ出てきた血液を押し戻そうと、珠子は母の頭に手を当てる。
「…母上!!母上!!母上!!!」
自分の呼ぶ声が遠く聞こえた。
「すまない……」
頭上から掛けられた声に顔を上げる間もなく、体が壁に打ち付けられるのを感じた。
激しい痛みに身を構えたが、全身が重たいだけで不思議と何も感じなかった。
「君には一緒に来てもらう。怖いかもしれないけど、痛いことはしないから」
翳は痛みなど感じたこともないだろうに。
不思議と、その言葉に嘘はないように感じた。
(約束……守れないのか……)
人と変わらぬちっぽけな手が、閉じていく瞼の隙間を覆い、珠子は考えることをやめた。
「っ…!!!」
叫び声を飲み込みながら飛び起きる。
何十、何百と繰り返し見てきた夢。
夢など見ても、過去は変えられないというのに。
「んーんーんんーんー……」
小さい頃からよく聞かされた、母の故郷の子守唄。
「母上……」
その呼びかけに、母が応えることはない。
どこも見ていないような目、ただ開いているだけのような目を、珠子はしばらく眺めていた。