1. 交わされた約束
ぽつ――。
鼻先で雫が弾けたのを感じて、珠子は目を開く。
いつの間にか空は薄暗い雲に包まれ、蝶や小鳥の姿も見えなくなっていた。
「危な……眠るところだったぞ」
木々が立ちこめ、光の入らない渓流の半ば。白く糸を吐き出す滝つぼの周囲だけは、開けた空から痛いほどの日差しが降り注ぐ。晴れていれば。
一日中森を駆け回って火照った体に、ひんやりとした水が心地よく、ぷかぷかしながらうたた寝していたようだ。
「寝たら沈むのか見てたのに」
「見てないで起こせ!」
残念そうに言った千影の顔めがけて、渾身の力で水をかける。
「うぁ……」
「おりゃぁぁあ!」
反応の薄い千影に、もう一度水を叩きつける。
「わー……」
「やー!!」
「……おらー」
千影は、面倒くさそうに珠子の遊びにのってやる。
そんな水の掛け合いを3往復くらいして、珠子はついに吹き出した。
「ぁはははははっ!!」
やっと満足したかと、千影は手を止める。
「ふっふぁー――……っっ??!」
ぬるい何かが足元を掠め、珠子は思わず千影に飛びついた。
「なんかキモいのがい゛だ!!!」
「魚?」
しばらく水底を見つめていると、先程まで珠子が暴れ散らかしていたせいで舞い上がった砂が沈み、チラッと鱗が光ったのが見えた。
「金色の魚だ……。きれー」
絵に描いたように優雅に尾を揺らす魚に、珠子は思わず手を伸ばした。
「翳だけど」
静かに、しかし、できるだけ素早く水を掻き分けて、河岸に上がる。
「帰ろうか……」
服を投げ捨ててきた低木へと、一切振り返らず進む。
「害はないけどね」
のんびり追いかけてきた千影が後ろから言う。
「小さな子供とかを滝つぼに誘い込んで溺死させるんだ。今どき引っかかるやつなんていないよ」
露骨な煽りには乗る気がしなかった。
低木の下で、放り投げた服に腕を通す。
幾重にも重なった葉が雨粒を弾く中で、ぶつかり1つとなった大粒の雫が、時折苔をトンと叩く。外へと垂れ下がった枝は、蔦を絡ませ風に軋んでいる。
いよいよ本降りになってきたようだ。
「雨よ、止め!」
手を空に掲げ、得意げに言ってみるが、雨音は変わらぬ調子で森を包む。
「……父上だったら、こんな雨すぐかき消せるのに」
不貞腐れて小石を蹴り飛ばすと、千影が軽く珠子の肩を叩いた。
「帝だって、魔法を使えるようになったのは11の頃だったんだろ?」
「珠子だってもうすぐ11だ」
最近、ふとした瞬間に珠子の顔が曇るのが、千影は好きではなかった。
「今までで一番ぶっ飛んでる帝と比べるなんて、珠子、自分を高く評価しすぎじゃないか?」
露骨な励ましはしたくなかったから、少し強い言葉を選んでしまう。
案の定珠子は、千影に顔を向けて、思いっきり眉間に皺を寄せた。
しかし、すぐに不服そうに目線をそらし、吐き捨てるように呟いた。
「だって。……みんな、珠子は何でもできるねって言うだろ」
要領がいいと言うのだろうか。
確かに珠子は、何でもそつなくこなせる人間だった。
翳力が花開けば、帝と同等の力を身につけるのではないか。
そして、国をもっと豊かにしてくれるのではないか。
人からの期待は、隣にいる千影にもひしひしと伝わっていた。
珠子は、それに応えられないのが怖かった。
「それは学校での話だろ?珠子にできないことなんていっぱいあるよ。例えば……」
千影は珠子の手をとる。
「ここから無事に逃げることとか」
衝撃と共に足が地面を離れる。体勢を戻せないまま、濡れた地面が急速に迫ってくるのが見えた。
「ぼふぇっ……!!!」
「立て!」
手を引かれるがまま、走り出す。
「何……?!また翳?!!」
振り向く余裕もなく、叫ぶ。
「なんかでかいヤギっぽいやつ!!顔はひとだ!!あと……角がかっこいい!!!」
「角かっこいいはまずくないか?!!」
先程は運良く、その格好良い角は当たらなかったが、貫かれれば死は避けられまい。
翳は、野に生きるものなら不自然なほどに長い体毛を雨に濡らし、微かに口角を上げて追いかけてくる。
絡まりそうな足を必死で動かすが、後ろから聞こえる泥を弾く足音は、着実に近くなっていくように感じた。
「暁炎!!」
千影は空へ向かって叫ぶ。
雨音と足音、そして自分の激しい息だけが鼓膜に響く。時間がほとんど止まってしまったかのような、恐ろしい数秒。
天からポロロロロとよく響く声が返した。
「神たまぁ〜!」
珠子は、歓声を上げる。
その視線の先で、先程の声の主が滑空してくる。鳥と呼ぶにはあまりに大きく、しかし鳥以外に形容する言葉が思いつかないほど完璧な鳥。
「先に乗って」
千影は腰に下げた短刀を取り出し、人面の翳に向けた。
そこに翳が、遊んでいるように軽々と飛び込んでくる。
「っ!!」
すんでの所で切っ先に翳力を込め、翳の頭に突き立てる。
刃に施された、翳の体にとって毒となる術は、流し込む翳力が大きいほどその毒を強める。
短刀の刺さった場所から翳力が飛散しだし、翳はさっと距離をとった。
しかし、数秒もせぬうちに傷口は塞がり、次の攻撃の機会を窺ってくる。
珠子は、震える手で少しモタモタしながら、何とか暁炎の背によじ登り叫んだ。
「千影!」
「暁炎行け!」
それを合図に、巨大な赤翼が空をかく。
「え……」
言葉の意味がわからず、数秒固まる。
揺れる視線の先で、どんどん千影が小さくなっていく。
「暁炎、戻れ!戻って!!」
叫んだが、暁炎は止まる気配はない。
それまで遊んでいるようだった翳が、初めて怒りのようなものを発した。
もうその顔すら見えないほど遠くにいるのに、その空間全てがそれに支配されているかのような、重しが腹に響く。
どす黒い煙を纏い、翳は一蹴りで千影の首元に迫る。
「ああ……!」
伸ばした手は虚しく空を掴み、瞼を閉じることもできず、友に迫る死を見つめていた。
「ポロロロ」
暁炎が急に方向を変え、千影の元へと飛ぶ。
遠のいていた視界や音が戻ってきて、翳が2つの人影の前で倒れているのが見えた。
後ろにいるのは千影だ。笑顔で手を振っている。
もう一人、千影より幾分か大きい人影。
長い刀を鞘に収めて振り返ったその男は、目元にシワをいくつも作り、微笑んだ。
「右京!!!」
「ふぉふぉふぉ、おふたりともまだまだでございますなあ」
「すみません」
「うるちゃーい!」
暁炎の背でうなだれる千影とは対極に、珠子は右京の後ろで暴れる。二人を乗せた銀の鳥は、それを咎めるようにキュッキュと鳴く。
「というか、右京なんで来てくれたんだ?」
「皇女とその友だけで森に遊びに行かせる阿呆がどこの国におりますか」
「ストーカーじゃないか!聞かれたくないこととか!見られたくないこととかあるかもしれないのに!!」
珠子は憤慨する。
「聞かれたくないことって、例えば翳術が使えないこととか?」
「お前!」
千影を指さし、腕をブンブン振って抗議する。
「ペラペラ人の悩み事を話すな!!」
ふぉふぉふぉと右京は笑う。
「皇族は平民より翳力が高いですからな。扱えるようになるのはかなり難しいのですじゃ」
「何度も聞いた!でもこいつが使えるのに!珠子が使えないのはやだ!」
千影を指さす。
「俺もまだ戦闘で使えるレベルじゃないけど。さっきだって……」
助かった安堵ですっかり忘れていたが、自分たちが死にかけたことを珠子は思い出した。
途端に胸がきゅっとなる。
「そんな顔をせんでください。姫様も千影殿もまだ子供。子供とは大人に守られるべきものなのです」
大人が子供を守る。それは当たり前のことで、珠子も理解している。
だが、自分が子供として守られているとは、珠子には思えなかった。
「……大人になれば、珠子は守られるべき存在ではなくなるのか?」
生まれてからずっと、他人と自分の命の重みを見せつけられてきたから。
「父上のように翳術が使えなければ、珠子は守られる存在のままだ。そうすれば珠子は生きられるかもしれないけど、周りの人が死んでしまう」
そう言って視線を千影に向ける。
「焦って今日のようなことをすれば、それこそ、友達を危険に晒してしまうのですぞ。……ああ、だから……」
翳術は、危機的状況で突然使えるようになることがあるという。だから無理を言って護衛も付けずに森へ来たのだ。
「ごめんなさい……。千影もごめんな。珠子のために、死ぬようなことさせて」
それまで真剣に珠子の話を聞いていた千影が吹き出した。
「俺は珠子より先に死ぬつもりはないよ」
そう言われても、あの翳と対峙したときの行動は、命をかける以外の何物でもなかったはずだ。
首を傾げて、千影を見つめる。
「俺が死んだら、珠子、泣くだろ?」
「……泣いてやらんこともない」
否定するのは逆に恥ずかしい気がして、珠子は渋々肯定した。
3人を見下ろす、高い高い空には雲ひとつない。
もうすっかり日も落ち、藍色を背景に隅から隅まで星屑が敷き詰められている。
「だから――」
千影は拳を握り、それを珠子に向ける。
「死ぬときは一緒に」
「……っ」
焦りなのか、恐れなのか、何かが1つ、珠子の頭の中から消えた気がした。
自分だけが友人だと思っている、そんな可能性を捨てきれず。
対等ぶっても、結局は自分だけ守られて、なんの苦労もせず生きるのだろう。そう思われていても仕方ないと、割り切ったつもりでいて。
けれど――
珠子は左の拳を、千影の右の拳に合わせた。
「うん……」
たとえ対等な命でなくとも、きっと、ずっと、一緒にいよう。
「それに、誰かが付いてきてくれてるだろうと思ってたしね」
雰囲気をぶち壊して千影は言う。
「えー、気付いてたんなら言えよ」
いつものように軽口を叩き合う二人を見て、内心右京はほっとする。
子供同士とはいえ、あんなことを言い合う二人の間にいるのはなかなか気まずかった。
「でも見たこともない強力な翳だし、襲われても全然助けてくれないし、結構死ぬかと思った」
「いやぁ、護衛がいなくなった瞬間あんな大物に襲われるとは、姫様は余程美味らしい」
「ひっ」
夜空に響く笑い声に引き寄せられるかのように、小さな一筋の光が流れ落ちた。
ここまで読んでいただけたとは……神か??!!