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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

人生に疲れた最強魔術師関連

時を呪われた少女は気怠げな魔術師と同じ時を刻みたい

 

 アルバイト先で最後の出勤を終え、一人暮らしのアパートに戻ってきたルシアは、洗面所で手を洗いながら目の前の鏡をじっと見つめた。


 肩より短い銀色の髪に色白の肌、赤紫色の瞳の10歳ほどの少女がそこには映っている。

 いつもと変わらない姿は、何年もずっと変わらない、変えられない姿だ。


「私、今何歳だったっけ……」


 いつからか歳を数えるのが虚しくなって自然と止めた。

 そのせいで自分の正確な歳が分からない。

 分かったところで意味がなく、同年代の子たちを羨んでしまうだけだから。


 それでも、ある日ふと自分は何歳だっただろうかと考えてしまう瞬間が訪れるので、その度に気持ちが沈んでいった。


「……さて、荷造りをしないと」


 気持ちを切り替えるために、鏡の中の自分に笑顔で話しかける。


 うん、可愛いぞルシア。大丈夫、次の場所でも上手くやれる。

 自分を精一杯励ましてから部屋に戻った。


 部屋の荷物は少ない。

 いつでも旅立てるよう資金を貯めながら、人間らしく生きられる最低限の生活をずっとしてきたからだ。


 子供に任せてもらえる仕事など限られているため、元々給与はさほど貰えていない。

 資金を貯めるとなると質素な生活をせざるを得なかった。


 食費のかからない体でよかったなとしみじみ思い、そもそもそんな体でなかったら、もっと給与を貰える職に就けるのだったと思い至り、落ち込んだ。


「はぁ……次はどこに行こうかな」


 ここエルシダ王国の王都での暮らしは、質素ながらも楽しく充実していた。

 まだここに住んでいたかったが、自分を知る人のいない遠くへ行かなければならない。


 本日何度目かの溜め息を吐きながら、二週間前に聞いてしまった、勤め先の人たちの会話が頭をよぎった。


『あの子、全然成長しないよね』

『可愛いけどさすがに不気味になってきた』

『あー分かる。明るくていい子なんだけど、ちょっとね……』


 いつも気さくに接してくれて、休憩時間にはお菓子やジュースをくれた優しい人たち。

 大好きだったけれど、自分のことをそんなふうに言っていたと知った。


 直接言われたわけではなく、コソコソと噂をしているところを偶然知ってしまったのだが、どちらにせよ悲しい。

 しかしそろそろ潮時だと思っていたところだったので、いいきっかけになったとポジティブに考える。


 家具や寝具はアパートの備品なため、衣類や最低限の日用品を大きな鞄に詰めていった。

 何とか鞄一つに収まり、お金はころんと丸いポシェットに入れて首から下げる。


 大家さんに部屋の鍵を返却して、お礼とお別れの言葉を告げた。



 ルシアはアパートを後にして歩き出した。

 今から乗合馬車を乗り継いで遠くに行く予定だ。

 どこまで行くかはまだ決めていないが、町の郊外まで歩き、そこから乗り心地が悪いと噂の質の悪い馬車に乗るつもりでいる。

 移動にかかる費用はできるだけ節約するにこしたことはない。


 大通りを抜けて、人気のない道をとぼとぼと歩く。

 空はどんよりと分厚い雲に覆われていて、今すぐにでも雪が降ってきそうだ。

 頬に当たる風はとにかく冷たい。


 旅立ちの日はせめていい天気がよかったのになと、震えながら空を見上げていると、急に目の前に大男が現れた。


「え!?」


 誰? 何か用ですか?

 そう口を開く前に、男は前屈みになってルシアの首に何かをガチャリとつけた。

 そして彼女の脇下に手をかける。


「────!?」


 いきなりの挙動に、思わず『ほわっ!?』とおかしな声が出た。

 出たはずなのだが、自分の口からは何も言葉が発せられていない。


 ルシアはひょいと持ち上げられて、男の右肩に担がれた。その勢いで、首にかけていたポシェットは地面に落ちた。



「────! ────!?」


 ちょっと! 何するんですか!?

 狼狽えながらも大声で抗議しているはずなのに、やはり声はでない。


(え? 何これ? どういう状況?)


 わけが分からない。しかし悪い状況であることは確かだ。

 ルシアは精一杯の抵抗をしようとバタバタと足を動かし、男の背中をバシバシと叩いた。


「っくっそ、暴れるなガキ」


 男は苛立ちの声をあげた。

 空いていた左手でルシアの両足を強く押さえつけて、そのまま早足で路地裏へと入っていく。

 路地裏には人相の悪い男たちが待ち構えていて、傍らには大人二人が乗れそうな大きさの台車が一台置かれていた。


 待っていた男たちの中で一番大柄な人物が、ルシアの顔を確認しようと彼女の顎をくいと持ち上げた。

 一目でこの中で一番身分が高いと分かる男の手からは、微かに煙草と酒の臭いがして、ルシアは顔を歪めた。


「へぇ、かなりの上玉じゃねぇか。高く売れるぞ」

「この子マジで俺好みっす。少しくらい楽しませてくださいよ、ボス」

「しょうがねぇヤツだな……少しだけだぞ」


 隣から別の男が顔を覗き込んできたかと思えば、ルシアをまじまじと見る。

 その目はいやらしく、中年男性が10歳前後の少女を見る目ではない。


(ちょっ……売れるって何? 楽しむって何?)


 抽象的な会話が繰り広げられているが、絶対に自分にとっていいことではない。

 ルシアは自分の顔に近づいてくるいやらしい顔を両手で押しのけ、全力で拒絶した。


 しかし両手首を掴まれて拘束されてしまった。

 両足に続いて両手の自由も奪われては為すすべがない。


「へへ、強気なのも俺好み……」


(いやーー! 気持ち悪い!)


 荒い鼻息が顔にかかり、心の中で叫んだ。

 どれだけ暴れても力では到底敵わない。助けを呼ぼうにも声は出ない。

 どうにもできず、涙目になった。

 諦めかけたその時、目の前の男の顔を水の玉が襲った。



「────おいガキ、その男どもは家族か知り合いか?」


 不意に頭上から間に割って入ってきた低い声。

 ルシアが見上げると、屋根の上に立ち、こちらを見下ろす男がいた。

 二十代前半に見える、長い前髪を横に分けた黒髪の男性は、目つきこそ悪いがその身にまとっているのは深緑色のローブ。

 国に認められた優れた魔術師である者の証だ。


(うわぁ……宮廷魔術師だ!)


 ルシアは興奮して頬を紅潮させた。

 魔術師というのは極めて優れた者しか就けない職業である。

 昔から憧れていた存在がすぐ近くにいて、興奮しないわけがない。


 魔力というものは生きとし生けるもの全てに備わっているが、誰でも簡単に魔術が使えるわけではない。


 頭の中で複雑な魔術式を構築し、そこに魔力を上手くかけ合わせないと魔術は発動しない。

 魔術書をいくら暗記しようが、実際に魔術を発動させることは容易ではなく、一般人はせいぜい指先から小さな炎を出したり、水を少し出したりということで精一杯だ。


 一度でいいから間近ですごい魔術を見てみたいと思っていたルシアは大興奮だ。


 いや、興奮している場合ではない。

 返事をして助けてくださいと言わなければいけないと思い出した。

 しかし声は出ないので、ルシアはとにかく意思表示をしようと大きく首を横に振った。


「……声が出せないんだな。助けてほしかったら首を縦に振れ」


 黒髪の魔術師はすぐに状況を理解してくれた。

 感動しながらルシアは首を大きく縦に振った。


 魔術師はそれを確認すると、屋根から地上に降り立った。

 そして、隣り合う者とヒソヒソと相談し合う男たちの顔をじっと見ながら、彼はなぜか呆れ顔になった。


「……ちょっと待て。大男のハゲにケツアゴ眼鏡、赤キャップ帽のチビに、チリチリ頭のモヤシ……」


 魔術師は男たちを一人ひとり指差しながら、ブツブツと呟いていく。

 全員を指差し終えると、鼻で笑った。


「っは、手配書のまんまじゃねぇか、マジうける。オマエらお尋ね者なんだからちったぁ変装しろよな」


 魔術師は心から馬鹿にしたようにくつくつと笑う。


 男たちは顔に苛立ちを見せ、懐からナイフを取り出した。

 相手は魔術師といえどたった一人。魔術を放たれる前に一斉にかかれば勝てると判断した。


(宮廷魔術師の魔術が目の前で見られるなんて……最高!)


 ルシアはその場に残った男に両腕を後ろで拘束されて身動きがとれない。

 そんな状態だというのに、胸を躍らせた。


 この魔術師は先ほど男の顔に水の玉をぶつけていた。だから水の魔術を極めているのだろう。

 水の渦や水弾、高難度と言われている氷の魔術も使えるかもしれない。

 もしかしたら違う属性の魔術も使えるなんてこともあり得る。


 多数相手だろうと、宮廷魔術師がこんな低俗な男たちに負けるはずがない。

 貴重な光景を焼き付けようと、ルシアは赤紫色の瞳を爛々とさせた。


 しかし魔術師は襲いくるナイフを軽々と躱して、男を殴りとばした。


(あれ? 殴った……)


 別のナイフもひらりと躱すと、やはり殴り飛ばした。

 目の前では期待していたものとは違う肉弾戦が繰り広げられている。

 顔面に膝蹴りをくらわせ、大男の拳を軽々と避けて後頭部に回し蹴りをお見舞している。


(あれ? 魔術は……)


 おかしいな。魔術師って何だっけ。

 そう思っているうちに、男たちは地面に倒れて動かなくなっていた。

 残ったのはルシアを拘束している男だけだ。


「っ、来るな! こいつがどうなってもいいのか!?」


 男は左腕でルシアの体を拘束し、右手に持ったナイフを彼女の首に向けながら、追い詰められた者が言うお決まりのような台詞を吐いた。


(うわ……これって人質ってやつだ……初体験)


 人さらいに引き続き、また貴重な体験をしている。何だか感慨深くなった。

 だけど酒臭い中年男に後ろから抱きしめられているのは不快だ。

 気持ち悪いからもう少し離れてくれないかなと思っていると、首にチクッと何かが刺さった。


 男の手が震え、ルシアの首に当たるナイフが小刻みに動いている。

 人質なのに傷つけてしまったら意味がないのでは……

 ルシアが呆れていると、目の前の魔術師も呆れたように目を細めた。


「おいおい。そいつは人質なんだろ。傷つけてどうすんだよ。バカかオマエは」

「なんっ────」


 男はカチンとなって手に持っていたナイフを振り上げた。

 次の瞬間、ルシアの後ろから鈍い音が聞こえた。

 何かが何かにぶつかったような音だ。

 そして地面に何かが落ちた音も聞こえ、ルシアの体を拘束している手が緩んだ。


 男は横にグラリと傾き、地面に倒れた。

 ルシアが後ろを振り向くと、倒れた男の横には氷の塊がいくつも落ちていた。


(氷……?)


 はて、こんなところに氷があっただろうかと、ルシアは首を傾げた。

 まるで一つの大きな丸い氷が空から落ちてきて、割れたかのように散らばっている。

 しかしいくら寒いといえど、こんなものが空から落ちてくることなど有り得ない。


 疑問に思いながら見上げると、淡く光る何かが空中に浮かんでいた。

 何かはすぐに消えてしまったため一瞬しか見えなかったが、いくつもの紋様が描かれた円形のものだった。


 今のは魔法陣だ。


 自身の魔力を使って空中に紋様を描き、遠隔で魔術を発動させる高等技術、それが魔法陣を用いた魔術。

 つまり目の前に転がっている氷は、魔術で出したものだという可能性が極めて高い。


 氷を出すことができるなんて本当にすごいこと。感動すべきところなのだが、ルシアの顔はスンとしている。


(何か……期待してたのと違う)


 もっと派手で格好いい魔術を拝めると期待していたのに、ほとんど素手で相手を倒して終わってしまった。

 お目にかかれたのは、いつの間にか男の顔面にぶつかっていた水と、いつの間にか地面に落ちていた氷だけ。


 肩を落としてあからさまにがっかりしているところへ、魔術師の男が近づいてきた。


「あ? オマエ首の怪我どこいった?」


 真っ先に怪我の確認をした男は、怪訝な顔をルシアに向けた。

 ナイフを突きつけられた首からは確かに血が流れていた。それなのに傷口が見当たらないから当然だ。


 しまった。

 ルシアは慌てて誤魔化そうと口を開いた。しかし声が出ない。

 パクパクと口を動かして何かを伝えようとしているルシアを前に、男は顎に手を当てて考えだした。


「あー……その呪具を外さないと声が出ないんだったな。俺でも簡単に外せるとは思うんだが、万一があるから一応呪印士に外してもらった方がいいんだよな……めんどくせぇが」


 男は本当に面倒くさそうに気怠げに言った。


 呪具は取り扱いが困難なものだ。

 使い方を間違えると大変なことになってしまう恐れがあり、外し方を間違えて一生声が出なくなってしまうなんて可能性はゼロではない。


(そっか。首につけられたこれって呪具なんだ)


 人さらいの危機から脱したことにより、ルシアの頭はようやくまともな思考ができるようになった。

 今まで呪具をお目にかかったことはなかったが、存在は知っていた。

 言われてみると確かに、喉の方へ黒い魔力が流れてきている感覚がある。


 それなら自分でどうにかできそうだと、ルシアは両手で首輪に触れて、自身が持つ黒い魔力を首に流した。

 この力を扱うことには慣れていないが、自分の魔力で呪具を無効化するくらいなら造作もない。


「……あー、あーあー、よし、上手くいった」

「あ?」


 目の前の少女の手から黒い魔力が放たれ、呪具によって封じられていたはずの声が戻った。

 男は眉をひそめて低い声を漏らしたが、すぐに言葉を続けた。


「オマエ、呪力を持ってるのか?」

「あ、はい。そうです」

「はは、何だそれ。それなのに呪具で声を封じられていたとか間抜けすぎんだろ」

「む……失礼ですね。呪具だと気付かないくらい混乱していたのだから仕方ないでしょう」

「あー……まぁそうか。怖かったな」


 男は意地悪そうに笑ったかと思えば、ルシアの頭を手で優しくポンとして、発動を止めた呪具を首から手早く外した。


「で、首の怪我はどうしたんだ?」


 首輪がついていた下の方、ナイフを当てられた部分を指差されたルシアはにっこり笑い、右手のひらを上に向けた。


「それはこれです。私、治癒の力も使えるんですよ」


 手のひらから瞬時に白い光を出して説明すると、男は光をまじまじと見ながら驚きの表情を浮かべた。


「はー、すごいなオマエ。どっちか片方だけでも珍しいってのに」

「えへへ。そうでしょう」


 ルシアは腰に手を当てて、鼻高々ににんまりと笑う。


 治癒魔力、呪力というのはどちらも極めて希少な存在である。

 素質を持っていないと使えないものだが、ルシアは両親からそれぞれ力を受け継いだ。


 特に治癒の力はその有用性から人さらいに遭う危険が多いため、ルシアは力を隠して過ごしてきた。

 まさか能力関係なしに攫われるとは思っていなかったが。


 しかしもうこの町とは今日でお別れで、目の前の男は国から認められた宮廷魔術師という信用できる人物なため、隠すことなく話した。


「でもオマエさっき治癒の力は使ってないだろうが」

「う……」


 誤魔化せると思っていたが、目の前の男は鋭く指摘してきた。

 あまり深入りしてほしくないのに。

 ルシアは一刻も早くこの場から立ち去ることに決めた。


「そっ、それはもう見えないくらいの早業で癒したからです。ほら、こうやってサッとね。では私は急いでいるのでこれで失礼しますね! 助けてくださってありがとうございました。さようならっ」


 ルシアは素早く指先に白い光を出して見せ、矢継ぎ早に言い終えると、返事も待たずに背を向けてダッシュした。


「っ、おいっ」


 後ろから聞こえる声は聞こえないふりをして、とにかく急いでこの場から離れる。

 ろくに前を確認することなく、路地裏からメイン通りに飛び出した。

 瞬間、目の前に現れたのは馬の蹄。正確に言えば走る馬車の目前に飛び出していったのはルシアの方だ。


 あ、と声を出すことすら叶わない。


 ────ガンッ

 胸部に強い衝撃が走り、ルシアの体は吹っ飛んだ。

 そのまま後頭部から勢いよく地面に叩きつけられる。

 口から大量の血を吐き、内臓がやられたんだなと至って冷静に考えた。

 頭からもけっこうな量の血が出ていそうだ。地面に触れている箇所が生ぬるくて気持ちが悪い。


 仰向けで脱力しながら空を見上げた。

 分厚い雲から落ちてくる雪が頬に当たり、はらはらと落ちてくる雪をぼーっと見ていたら、緑色の双眼が心配そうに見下ろしてきた。


「おい! 意識はあるな。手が動くか確認しろ。どうにか自分を治癒する余裕はあるか? ないなら目を閉じてろ。すぐに治癒士を呼んできてやるから」


 ああ、この人は鋭いだけでなく頭の回転も速い。

 血だらけで倒れている少女に自分を治癒しろだなんて、普通言わないだろう。

 しかしそれが一番効率的な手段なのは確かで、それが可能か冷静に確認している。


 ルシアは感心し、そして観念した。


「大丈夫ですよ」


 そう言って、ゆっくりと上半身を起こした。


「おい、動かすのは手だけでいいんだっての」

「大丈夫です。もう全て治っていますから」


 ルシアはにっこり笑って見せた。

 大丈夫と言われても何が大丈夫なのか分からず、男は彼女の後頭部を確認した。

 銀色の髪は血に濡れているが、確かに傷口はどこにも見当たらない。


「あっ、あの……! 早く治癒士を呼んだ方がいいですよね!? 私が呼んできましょうか?」


 ルシアがぶつかった馬車の御者が二人に慌てて駆け寄ってきて、青ざめながら魔術師に話しかけた。


「……あぁ、大丈夫だ。もう治癒は今済ませたから問題ない。アンタたちは怪我はないか? ないならもう行って構わない。後は俺に任せてくれ」

「ええ?」


 心配そうにオロオロしていた馬車の御者は怪訝な顔をしたが、馬に蹴られたはずの少女は笑っていて、確かにどこも痛くはなさそうに見える。


 宮廷魔術師の言葉なのだから真実なのだろうと、信じることにした。

 御者は馬車へ戻っていき、乗せていた客の怪我の有無を確認した。

 そうして馬車は去っていった。


「さて、と。本当に全部治ったんだな?」


 魔術師に顔を覗き込まれ、ルシアはにっこり笑って立ち上がった。


「はい。どこも痛くありま────っっ!?」


 最後まで言い終わっていないのに、ルシアの頭上からは大量の水が降ってきた。

 ひとしきり降り終わると、男はルシアの頭に手をかざし、水を払い除けるような仕草をする。

 ずぶ濡れの体からは何もなかったように水が消えた。


「よし、綺麗になったな。怪我は……本当にどこにもないな。よし」


 男はルシアの体を確認すると、満足そうに口角を上げる。そして持っていた通信魔道具で町の詰所に連絡を入れた。

 人さらいの男たちを騎士団に引き渡すため、二人は男たちが地面に転がっている路地裏まで戻ってきた。


「……で、なんなんだオマエは」

「何って、見ての通り普通の子供ですよ…………怪我をしてもすぐに治る呪い付きの」


 ルシアが投げやりにそう言うと、男は『はぁ?』と驚きの声をあげた。


「何だそれ。怪我がすぐ治るって、呪いじゃなくて祝福じゃねぇのか」

「まぁそれだけならそうですけど……歳をとらないんですよ、この体。怪我が治るのはその副産物みたいなものです」

「オマエ、呪力があるのに呪われすぎだろ……」


 男は眉をひそめて、呆れたように息を吐いた。


「力になってやろうか?」


 そのまま嘲笑うかと思いきや、男はすぐに真剣な表情でルシアに向き合った。


「……無理ですよ。どんなにすごい呪印士だろうと解けなかったんですから」

「それは最近の話か?」

「いえ、一番最近だと二年前ですけど。ここよりも呪術が栄えている国で一番と言われている人にお手上げだと言われたんですから、もう誰にも解けっこないです」


 他国に比べて呪力を持つ者が多く存在し、様々な呪具が流通しているような国でさえ自分の呪いを解いてもらうことが不可能だった。

 もう諦める他ない。


「そういう思い込みは捨てたほうがいいぞ。優れた呪印士がどこにいるかなんて分からねぇだろうが」

「まぁ確かにそうですけど……って、もしかして……」


 そんなふうに言うということは、解呪できる呪印士に心当たりがあるということだろう。


「絶対とは言い切れないがな。『オレに解けない呪いなんてない』ってヘラヘラしながらいつも言ってるヤツが身近にいるから試してみる価値はあると思うぞ」

「それってただの自意識過剰な人なんじゃ……」

「それもあるが腕は確かなヤツなんだよ。もし解けなくてもその時はソイツを嘲笑ってやれるしな」


 男はニヤリと口角を上げた。

 そっちが本命で、呪いを解くことは二の次なのではと思えるほど悪い笑みだが、ダメ元で試してみる価値はある。


 宮廷魔術師と知り合えただけでも貴重な経験なのに、その知り合いである呪印士とも関われるなんてすごいことだ。


「それでしたら、お願いしてもいいですか?」


 結果はどうあれ、せっかくの機会は無駄にしないことにした。


「よし、それじゃまずは飯に行くか」

「は?」


 男は現場に到着した騎士たちに人さらい集団の身柄を引き渡すと、町の大通りに向かって歩き出した。

 ルシアは怪訝そうに後をついていく。


「あの、お兄さん。なぜご飯に行くのでしょう?」

「お兄さんってのはやめてくれ。俺はグレアムだ。なぜって腹が減ってるからに決まってんだろが。ほら行くぞ」

「いや……あのですね、実は攫われる時に荷物を落としてしまいまして……」

「あ? それなら拾ってから行くぞ。案内しろ」

「いえ、一人で拾ってきますから後で合流をですね……」

「そういうのはいいんだよ。腹減ってんだから早く案内しろ」


 グレアムは苛立ちながら低い声で言い放つ。

 お腹が空いているのなら、先に一人で食事に行けばいいのにと思ったが、言っても無駄そうなのでルシアは素直に従った。


 二人はルシアが大男に担がれた場所まで戻ってきた。

 ルシアの鞄は落ちたままだったので無事拾うことができたが、ポシェットは見当たらない。


「わたしの、ぜん、ざいさん……」


 ルシアは膝から崩れ落ちた。

 なぜ……なぜ全財産をポシェットに入れたのだと自分を責めながらブツブツ呟く。


「何オマエ、金落としたのか? ……いや、誰かに持っていかれたのか。じゃなきゃその鞄と一緒に落とし物として拾われてないとおかしいからな」

「うっ……」


 遺失物として届けられているかもしれないという僅かな希望は、抱きかけたところで握りつぶされた。

 ルシアは項垂れる。


「諦めろ。それよりずいぶんな荷物だな。どっか行くところだったのか?」

「……この町から出ていこうとしていました。歳を取らない不気味な子供は一箇所に留まれないんです」


 眉尻を下げながら静かに答えると、グレアムは眉をひそめた。


「……話は後で聞くとして、飯行くぞ────ってかオマエ名前なんて言うんだ」

「ルシアです」

「よし、行くぞルシア。荷物よこせ」


 気だるげに前にぶらんと出された手に鞄を差し出すと、グレアムはすぐにひょいと持ち上げて肩に担ぎ、スタスタと歩き出した。


 町の中心地までやってくると、二人は大衆食堂に入った。

 二人用のテーブル席の椅子にドカッと座ると、グレアムはメニュー表をルシアに差し出した。


「今月カツカツだからあんま高いやつはダメだぞ。このページ以外から好きなもん選べ」

「それなら何も食べなくていいですよ。私は空腹にならないので、食べなくても大丈夫なんです」

「あ? 何オマエ、何も食べらんねぇのか?」

「いえ、食べることは可能ですが必要ないんです。お金が勿体ないだけなのでいいですよ」

「食べ物を美味しいと感じるのか?」

「あ、はい。味覚を失ったわけではありませんので」

「なら食え。食べる必要がなくても美味しく感じるならそれでいいんだよ。デザートでも何でもいいから食え」


 グレアムは早く選べと鋭い目つきで圧をかけてくる。

 ルシアは渋々トマトソースのパスタを選んだ。


 運ばれてきた料理を一口食べると、ルシアは何だかホッとした気分になった。

 久しぶりに温かい料理を口にしたけれど、やっぱり美味しい。


 グレアムは嬉しそうに食べているルシアを見て満足げに笑い、思い出したように口を開いた。


「そういえば、さっき言ったうちの呪印士は今この国にいないんだよな」

「──!? ……騙しましたね?」


 ルシアは口に含んだパスタを飲み込むと、グレアムをじとっと睨んだ。


「騙してねぇよ。すぐに解呪にとりかかれるなんて一言も言ってないだろが」

「む……確かにそうですね。でもそうなると、それまでの間はどうすれば……」


 ルシアは全財産を失ったばかりである。馬車に乗って遠くへ行くどころか、宿屋に泊まることすらできない状況だ。


「それなんだけどな、オマエ今いくつだ?」

「え? そうですね、20歳は過ぎている気がします。正確な歳は分かりません」

「何でそんなアバウトなんだよ……まぁそれなら問題ないな。オマエうちの治癒士になれよ」


 グレアムはルシアを食事に誘った時と同じように、どこまでも軽い口調で誘った。

 それはルシアにとってすごく魅力的な誘いだった。そのはずなのに、あまりに軽すぎて全く心に響かない。


「そんな簡単に言わないでくださいよ。それに、呪いが解ければの話ですよね」

「今回解けなくても、うちで働きながら解く方法を探せばいい」

「……ずっと成長しない子供だと知って雇ってくれるはずありませんよ」


 ルシアは今までのことを思い出して俯いた。

 呪われていると素直に告げて、受け入れてもらえた経験がない。


「そんな湿気た面すんな。うちにはそんなこと気にするヤツはいない。オマエが合わないと思って嫌になったら、そん時はさっさとやめればいいだけだ」

「またそんな簡単に……そもそも能力不足で見習いにすらなれない可能性だってありますよ」

「あ? オマエは治癒士として十分な力を持ってるだろうが」


 グレアムはルシアの後ろ向きな考えにうんざりしながら目を細め、当たり前だと言わんばかりに言い切った。


「どうしてそう言い切れるんですか?」

「どうしてって、確認済みだからに決まってんだろ。あんなに早く正確に発動できるなんて普通じゃねぇんだよ。オマエが何年も努力したことは分かってる」


 彼はルシアが手のひらと指先からそれぞれ一度ずつ出した治癒の光を見て確信している。

 幼い頃から治癒魔術の習得に励み、努力してきたのだと。


 グレアムは真剣な表情でルシアに向き合う。


「ルシア。嫌じゃないならうちに来い。オマエの居場所はちゃんとあるから心配すんな」


 優しい声で言い終えると、彼は柔らかな笑みを浮かべる。

 労るようにそっと、彼女の頭に手を置いた。


 ルシアは顔を赤くして固まった。

 胸がキュッと締め付けられ、息をすること忘れる。

 心臓が一瞬止まった感覚になり、すぐに動き出したかと思えば早鐘を打つように鼓動が早くなる。


 出会ってまだ一時間と少し。ルシアが恋に落ちた瞬間である。




 ***




「よし、それじゃ行くか」

「はいっ」


 昼食を終えた二人は店から出て歩き出した。


 そうしてやってきたのは王城前。

 目の前にそびえ立つ立派な白い建物に、ルシアは口をポカンと開けて立ち尽くした。


 まずはどこかの事務所で面接や適性判断が行われると思っていた。

 いきなりこんな厳かな場所に連れてこられるなんて想定外である。


「ちょっとグレアムさん、部外者をこんな場所に連れてきちゃダメですよ」

「いいんだよ、今はある程度の権限があるからな」

「今は?」

「俺は今は第一魔術師団の団長代理なんだ。だからある程度のことなら自己判断だけで済むんだよ」

「それって職権乱用……」

「有効活用と言え。それにきちんと連絡済みだから大丈夫だっての。ほら、行くぞ」


 確かに、彼が歩きながら通信魔道具で誰かに連絡を入れているところを隣で見ていた。

 ルシアははぁと息を吐くと、差し出された手を取る。

 呆れながらも嬉しいので、頬をほんのり赤く染めて口元に笑みを浮かべた。


 手を引かれて王城内に足を踏み入れた。

 中は白い壁が続いていて、突き抜けた高い天井を見上げながらホールを抜け、階段を上る。

 長い廊下を進むと、『宮廷治癒士、詰所』と書かれた木製プレートがかかった扉の前に着いた。


「グレアムだ。連れてきたぞ」


 扉をノックして声をかけると、中からすぐに『はーい』と陽気な声が聞こえてきた。


「いらっしゃい。ふふふ、待ってたわよ〜」


 開いた扉から出てきた男性をルシアは見上げた。

 三十代に見える男性はずいぶん背が高く、羽織った白いローブから覗く手足はスラリと長い。

 肩より少し長めの深緑色の髪、垂れぎみの黒い目は優しげに細められている。


「まぁ可愛いお嬢さんね。こんにちは、さぁさぁ中に入って」


 ニコニコしながら右手をすっと室内に向け、ルシアに入るよう促す。

 男性にしてはやたらと可愛らしい口調だが、どう見ても優しそうな人に出迎えられてルシアはホッとした。


 部屋にはこの男性以外は誰も見当たらない。

 室内の真ん中に設置されたソファーに座ると、隣にグレアム、机を挟んだ反対側に白いローブの男が座った。


「私はここの所長をしているエリオットよ。よろしくね」

「ルシアと申します。よろしくお願いいたします」


 両手を膝の上で揃え背筋をピンと伸ばして座り、丁寧に自己紹介して頭を深く下げた。


「礼儀正しいお嬢さんね。ふふ、グレアム君とは大違い」

「うるせぇよ」


 語尾にハートでも付いていそうな言葉を向けられ、グレアムはエリオットを睨みつけた。

 そんな視線はおかまいなしで、エリオットは笑顔のままルシアに向き合った。


「それじゃさっそくだけど、どの程度治癒魔術が使えるか見せてもらえるかしら?」

「はい、分かりました」


 ルシアはエリオットの指示通りに、指先や手のひらから治癒の光を出す。

 軽症を癒す程度のものから、致命傷を癒せるほどの高難度のものまで、言われた通りに正確に光を出していった。


 ルシアがエリオットに治癒魔術を見せている間、グレアムはソファーにダラリともたれかかって寛いでいた。

 エリオットに感心されっぱなしで照れているルシアの様子を見ながら、口元に笑みを浮かべた。


(大丈夫そうだな)


 ルシアの魔術を一度見ただけで大丈夫だという確信はあったが、宮廷治癒士を取りまとめている所長であるエリオットにきちんと認められているのをその目で確認し、胸を撫で下ろした。


 一通りの確認を終えると、瞳を輝かせたエリオットはグレアムに顔を向けた。


「すごいわねこの子。今すぐに宮廷治癒士と遜色ない活躍をしてもらえそうよ」

「だろうな」

「15歳になるまでは学業を優先してもらわないといけないから、宮廷治癒士の地位はまだ与えてあげられないけどね」


 この国では、正式な雇用を受けられるのは15歳からと法で決まっている。

 それまでは学業優先を義務付けられているため労働時間に制限があり、小遣い稼ぎ程度の労働しかできない。


 この国の人間ではないルシアには学校に通う義務はないが、孤児院を訪れて保護してもらうことは可能だった。

 しかし成長することのない体を気味悪がられるのはもうこりごりだと思い、一人暮らしという道を選んだ。


(どうしよう……今、本当のことを言うべきだよね……)


 呪印士に解呪を依頼するとなれば、遅かれ早かれ判明すること。だけど過去のトラウマからどうしても躊躇ってしまう。

 皆が皆、グレアムのような反応をするとは限らない。


「ああソイツな、本当はとっくに成人してるみたいだぞ。呪いのせいで成長しないんだと」

「っなっ……グレアムさんっ」


 デリカシーの欠片もない言葉に、ルシアはグレアムに膨れっ面を向けた。

 しかしエリオットは少し驚いただけで、変わらず穏やかに会話を続ける。


「まぁ、それは災難だったわね。ルーク君に解けるといいのだけれど、今丁度留守なのよね」

「仮にアイツに解けなかったとしても、精神年齢は大人とみなして正式な宮廷治癒士として雇ってあげられねぇか?」

「そうね。それは陛下に相談しないことには何とも言えないけれど、あの方のことだし多分大丈夫じゃないかしら」

「だよな。あの方がダメって言うところは想像できないからな」


 本人そっちのけで話が進んでいる。

 陛下という畏れ多すぎる人物が会話の中に登場しながら、二人は世間話でもしているかのように平然と話し続けている。


「あの……私のこと気味悪くありませんか?」

「そんなわけないに決まっているでしょ。ちょうど人手不足の時に来てくれた可愛い救世主にしか見えないわ」

「その男、優しそうに見えて人使いが荒いからな。子供扱いしてもらえるなんて思わない方がいいぞ」

「ふふふ」


 エリオットは否定することなく微笑んでいる。


 まさかこんなにすんなり受け入れてもらえるだなんて思わず、ルシアはただただ啞然とした。

 その後も本人そっちのけで話が進み、ルシアは魔術師の宿舎に住むことに決まった。


「それじゃ俺はソイツの部屋を手配してくるから、後頼むわ」

「はーい。任せて」


 グレアムの言葉にエリオットは明るい声で返し、片目をパチンと閉じた。

 ルシアはこんなにも自然な成人男性のウィンクを初めて見た。

 全く違和感なくむしろ可愛く思えたことに、すごいなこの人と感心する。


 ルシアはエリオットが机の引き出しから出してきた契約書にサインして、あっさりと治癒士見習いという立場になった。



「さて、それじゃ業務内容について説明するわね」

「っっはいっ。よろしくお願いします」


 この部屋に来たばかりの時のように背筋をピンと伸ばすと、ふわりと笑みを向けられた。


 治癒士の仕事はその名の通り、治癒すること。

 訓練や任務で怪我を負った騎士や魔術師を治癒魔術で癒すことが日々の務めだ。


「あなたはまだ見習いだから、魔術師や騎士の任務に同行してもらうことはないわ。しばらくはこの部屋を訪れる怪我人の治癒や、演習場に赴いて治癒担当として待機する程度の仕事からね」

「はいっ! 精一杯務めたいと思います」

「ふふ」


 ルシアが全ての受け答えにやる気を滲ませるので、エリオットはずっと穏やかな顔で見ていた。


 ここで働く治癒士は全員で十人。

 そのうち三人は現在他国に赴いているため、今は七人で仕事を回している。

 二人で話をしていると、一仕事終えた治癒士が部屋に戻ってきた。


「あれれ? お客さんですか?」

「所長〜、誰ですかそのめっちゃ可愛い子は」


 ルシアをちらりと見た後、エリオットに疑問を投げかけたのは二十代前半ほどの若い二人組。共に白いローブを身に着けている。

 一人はさっぱりとした短い青髪の男性、もう一人はミルクティーブラウンの髪を頭頂部で大きなお団子にした女性だ。


「お疲れさま。この子はね、今日からうちの見習いになったルシアちゃんよ。グレアム君が連れてきたの」

「ほえ。それ大丈夫ですか?」

「いやまぁ、でもあの人って口と素行以外は優秀だしな……」

「確かにそうですけど……」


 二人はボソボソと言葉を発した後、複雑そうな表情で顔を見合わせた。

 歓迎されていない雰囲気を感じ取りながらも、ルシアは立ち上がって二人の方を向いた。


「はじめまして。今日からここの見習いとして働かせていただくことになりましたルシアと申します。精一杯頑張りますのでよろしくお願いいたします」


 ハキハキと挨拶を述べてペコリと頭を下げる。すぐに姿勢を戻して二人に顔を向けると、彼らは瞳を輝かせていた。


「うわわ、ものすごくちゃんとした子だぁ……!」

「礼儀正しいな〜。俺はユーグっていうんだ。よろしく」

「私はミラベルよ。よろしくねルシアちゃん」

「はいっ、よろしくお願いいたします」


 二人から気さくに話しかけられて、嬉しくなったルシアが満面の笑みで答えると、ユーグの頬が赤く染まった。


「おっかしいな〜……俺のストライクゾーンは十五歳以上なはずなんだけど……」

「いやいや、今のはしょうがないですって」


 二人は小声でヒソヒソと話す。


 エリオットはふふふと笑いながら、さっそくルシアの呪いについて二人に説明した。

 二人からもすんなりと受け入れられ、ルシアは驚きながらも嬉しくなる。


 自分の居場所は本当にあったんだ。

 グレアムからもらった大切な言葉を思い浮かべた。




 ***




 ルシアが宮廷治癒士見習いとなって二日経った。

 今日はルシアとエリオット以外の人員は屋外に出ているため、詰所内では二人で怪我人の治癒にあたった。


「それじゃルシアちゃんここの片付けよろしくね」

「はいっ」


 魔物討伐任務から戻ってきた騎士数人の治癒を終えて一息つくと、エリオットは書類仕事のため窓際にある大きな執務机に向かった。


 ルシアは長机の上に散乱している汚れた包帯やタオルを袋に集め、床や机についた砂や血痕を雑巾で拭いていく。

 怪我人は皆、汚れと血がついた体でこの部屋を訪れるため、どれだけ掃除してもすぐに汚れてしまうのが難点だ。

 せっせと掃除していると、ココンッと部屋の扉をリズムよく叩く音が響いた。


 エリオットはそのリズムで誰が来たか察したようで、『あぁ、またね……』と小さく零し、ルシアに客人を部屋に招き入れるよう命じた。


「どうぞお入りくだ──……あれ、グレアムさん」

「よう。どうだ? ここでは上手くやってけそうか?」

「はい。皆さんとても親切で仕事も楽しいです。それよりその腕はどうかしましたか?」


 私服姿のグレアムはやや左に傾いていて、ぶらんと脱力した左腕を右手で支えている。

 どうみても不自然な格好に疑問を投げかけてみると、彼は口の端を持ち上げた。


「肩の脱臼と手首骨折な。よろしく頼むわ」


 まるで仕事を用意してやったぜと言いたげな笑みにルシアは呆れつつ、会えたことはすごく嬉しい。

 グレアムを部屋の中に招き入れ、椅子に腰掛けてもらおうとしたところで、掃除の途中だったことを思い出した。


「すみません。椅子と机がまだ汚れているんです。すぐに拭くので少しだけ待ってくださいね」


 とにかく椅子だけでも綺麗にしなければと、先ほどまで使っていた雑巾を手に取ったところで、グレアムは右手を前に出した。


「今日はなかなか大変だったみたいだな。手伝ってやるよ」


 グレアムはそう言うとすぐに手のひらから大量の水を出した。

 大きな水の玉ができたかと思えば、それは渦を巻きながら汚れた机や椅子、床の上をなめらかな動きで移動していく。

 水は汚れを集めながらどんどんと濁っていき、全ての汚れを集め終わると、渦は再び玉に戻った。


 どんどんと小さくなっていき、汚れた水が凝縮されていく。

 手のひらサイズにまで縮んだ玉は、水を張ったバケツの中にボチャンと落ちた。


「すごい……」


 ルシアは赤黒く染まったバケツの水を眺めながら、感嘆の声を漏らした。

 派手さはないが、ここまでコントロールし尽くされた魔術操作を間近で見るのは初めてだった。


 椅子やその周辺が綺麗になると、グレアムは椅子にどかっと座った。


「んじゃ頼むわ」


 その一声でルシアはハッと我に返る。

 そういえばこの人は怪我の治癒をしにきたのだと思いだし、すぐに治癒にとりかかる。

 彼の肩に右手を乗せ、手首に左手を添える。両手から出した白い癒しの光で患部を包み込み、数秒で治癒を終えた。


 ルシアは光を出すことをやめ、前に出していた両手を戻す。

 グレアムは左肩を大きく回し、手首を前後に動かして具合を見る。難なく動くことを確認すると、そのままルシアの頭に手を載せた。


「助かった」


 そう言って向けられたのは優しい笑みだ。

 彼女がここで活躍できていることを喜ぶ気持ちが滲み出ていた。


「……どういたしまして」


 ルシアは顔を赤くして俯いた。


「それじゃ俺は戻るわ」

「こらこら待ちなさいグレアム君」


 立ち上がって扉に向かおうとしたグレアムは、すぐにエリオットに止められた。


「今回の怪我はケンカでできたものでしょ? ちゃんと治癒証明書にサインしなきゃダメよ」

「……チッ」


 グレアムは、手に持つペンを見せつけるように諭してくるエリオットをひと睨みすると、視線を横にずらして舌打ちした。


 ルシアは治癒証明書という言葉を初めて聞き、首を傾げた。


「あの、もしかして治癒を施した人たち全員からサインをもらわないといけなかったのでしょうか?」

「いえ、それは必要ないから大丈夫。グレアム君だけ特別なのよ。と、く、べ、つ」


 エリオットはハートがついていそうな口調で4文字を強調した。

 なぜ彼だけが『特別』なのか聞いていいのか分からないため、ルシアはグレアムの顔をじっと見る。


 彼は視線に込められた意味を理解したが、横目でちらりと見るとすぐに目を逸らした。

 無言でエリオットの執務机に向かい、手渡された紙に手早くサインする。

 そしてさっさと部屋から出ていった。


 グレアムの姿がなくなると、エリオットは頬杖をつきながらルシアに笑顔を向けた。


「彼はね、とにかく喧嘩っ早いからすぐ怪我をしてここに来るの。気をつけるよう何度言っても聞きやしないから、任務や訓練以外で怪我を負った時は治癒費を自費で支払わせているのよ」


 本来なら、魔術師は仕事に支障が出ないよう、いかなる理由があろうとも無償で治癒を受けられる立場である。

 しかしグレアムは任務や訓練ではあまり怪我をしないのに、それ以外でやたらと怪我を負ってくる。

 あまりの頻繁さに彼だけ特別措置となり、治癒費を給与から天引きすることになった。


「確かにあの人、私を助ける時も何だか楽しそうに素手で闘っていました」

「でしょ。魔術を使えばすぐ終わることでも、とりあえず殴る蹴るで済まそうとするのよね」

「はは……」


 憧れていた宮廷魔術師の残念すぎる現実に、ルシアは乾いた笑いで返した。




 ***




 ルシアが治癒士見習いとなって五日経った。

 本日は演習場にて、第一魔術師団の訓練での治癒係として待機することになった。


 ルシアは魔術師が本気で対戦している様子を興奮気味に観戦した。

 ここでの自分の役割はすでに半分忘れている。


 深緑色のローブを羽織った魔術師たちは、それぞれが得意とする属性の魔術を巧みに操っており、魔法陣も用いた攻防も目の前で繰り広げられている。


(うっわぁぁ……! 格好いい)


 属性によって魔術式の組み合わせが全く異なるため、二種類以上の属性を習得することは魔術師といえど容易なことではない。

 それなのに、目の前ではまだ十代半ばに見える少女が三種類の魔術を扱っている。


 ルシアはその様子を食い入るように観戦した。

 ここでの自分の役割はすっかり忘れている。


「あの子すごすぎませんか! めちゃくちゃ格好いいですね!」


 ルシアは隣のグレアムに興奮気味に話しかけた。


「アイツは四属性を扱える希少な魔術師だからな」

「四つも……! あと一つは? あと一つは何ですか!?」


 ルシアは食い気味にグレアムに詰め寄った。

 彼は呆れて目を細めながら、楽しそうなルシアの鼻をむぎゅっと摘んだ。


「あと一つは楽しみにとっておけ。それじゃ行ってくるわ」


 ルシアは摘まれた鼻を押さえながら、対戦場へと歩いていく背中を見送った。


 グレアムは巧みに水の魔術を操り、相手の土の魔術は持ち前の身軽さで躱していった。

 彼が出した水は光を反射しながらキラキラ輝いている。


(綺麗……格好いい……)


 興奮することも忘れて静かに見とれているうちに、対戦はグレアムの圧勝で終わった。


 魔術師は戦闘時は自分の体を守るように魔術障壁を張るため、今回の訓練では誰も怪我をしなかった。


 この後は一時間の自由時間となっているので、ルシアは宿舎の一階にある食堂へ行った。


 呪われてからというもの、疲れを感じない体になり、そもそも今回は観戦していただけなので休憩などいらないが、せっかくなので食堂で優雅にティータイムを楽しむことにする。


 窓際の席でパウンドケーキと紅茶を美味しくいただきながら、雲一つない青空を見上げた。


 ほんの一週間前はまだ、治癒の力を隠しながら商店の雑用係として働いていたなんて嘘のようだ。


(お父さん……私も治癒士になれたよ。まだ見習いだけど)


 ルシアは空の向こうの大好きな人へ話しかけるように、心の中でそっと呟いた。



 ***



 ティータイムを終えたルシアは詰所へと戻った。

 室内にはエリオットと四十代の男性治癒士がいて、二人で何やら相談をしている最中だった。


「ただいま戻りました」

「ルシアちゃんお帰りなさい。ちょっと今からジルさんと外出してくるから、ここの留守番を頼めるかしら?」

「はいっ。お任せください」


 ルシアは力強く答えた。

 エリオットとジルが部屋から出ていくと、彼女は本棚や机の上の整理を始めた。

 しばらくすると、ココンッとリズムよく扉をノックする音がした。


 扉を開けて中に入ってきたのは、青く腫れた瞼から血を流し、口の端が切れて血を滲ませた不機嫌そうな男性だ。


「グレアムさん……また喧嘩ですか……」


 ルシアは呆れた目を向けた。

 彼に会えたことは嬉しいが、素直に喜んでいいのか分からない微妙な状況だ。

 複雑な気持ちになりながら疑問を投げかける。


「喧嘩では魔術を使わないのですか?」

「素手の相手とは素手でやり合わないとな」

「何ですかそれ」


 よく分からない理屈に更に呆れて目を細めながら、ささっと彼の怪我を癒した。


「助かった。本当にオマエの治癒魔術はすごいな」

「えへへ、そうでしょう、そうでしょう」

「治癒魔術はどこで習ったんだ? 独学か?」

「父からですよ。私の父は治癒士だったんです」


 ルシアは柔らかな表情で答えた。

 過去形な表現から今はもうそうでないのだと窺えたが、ルシアは楽しそうに父の自慢話を始めたので、グレアムは静かに耳を傾けた。


 そうして話しているうちに、ルシアは胸の内を吐き出すように昔のことをさらけ出していた。



 ***


 ルシアはエルシダ王国から遠く離れた国で生まれた。

 彼女には呪力を持つ母と、治癒士として国に仕える父がいた。


 父は腕の立つ治癒士として名を馳せていたこともあり、王都の一等地に家を構えて何不自由なく暮らしていた。


 母は恵まれた容姿の持ち主で、手入れの行き届いた長い黒髪と長いまつ毛に縁取られた赤紫色の瞳を持つ美女だった。

 何でも自分の思い通りにならないと気がすまない自己中心的な人間だったが、温和な父はいつもニコニコしながら母の我儘を聞いていた。


 欲するものが手に入り、自身の美貌を保っていれば母が機嫌を損ねることはなかった。


 家事はあまり得意ではなく、娘であるルシアの世話も最低限のことしかしない人だった。

 それでもルシアのことは可愛がっていたし、ルシアも母からの愛情をしっかり感じながら育った。


 ルシアが4歳になると、父から治癒魔術を教わるようになった。

 幼い子供が魔術を扱うことは本来なら危険とされている。

 初等学校に通う年齢になるまでは魔術に触れさせないことが暗黙のルールだが、治癒魔術なら大丈夫だろうと特別に教えてもらえた。


 治癒魔術は攻撃性が皆無な癒しの力。

 誰かに向かって放ったとしても、誰も怪我をすることはない。


 幼いルシアは好奇心旺盛で何でも知りたがり、父から教えられたことをしっかりと吸収していった。


 魔術式を頭の中で構築してそこに魔力を流すといったことを毎日練習した。

 魔術を発動させることは容易でなく、どれだけ練習しても何も起こらなかった。


 つまらないことのように思えたが、ルシアは頭の中に描いた魔術式に魔力を流す感覚がすごく楽しかった。


 流し方によって、魔力が全て弾かれたり少し吸い込まれたりする。その時の感覚を覚え、だんだんとコツがつかめるようになる。

 治癒魔術を習い始めて二週間足らずで、一度の成功を納めた。


「わぁぁ……」


 上手く魔力を掛け合わせられ、自身の指先から光が出ている。

 まじまじと見つめると、近づけた鼻先がほんのりと温かくなった。


 これが治癒の光。

 これを極めれば、自分も父のように格好よくなれる。

 周りの人たちから尊敬されている父は、ルシアにとってとにかく格好よくて素敵な存在であった。


 彼女は一度の成功で感覚を掴み、その後は難なく治癒の光を出せるようになった。


「すごいねルシア。それなら今度はもっとすごい光を出せるようになってみるかい?」

「うんっ! なりたい」


 我が子の才能に喜びを抑えきれない父は、ルシアに更に治癒力が高い術式を教えた。


 父は彼女の魔術が向上するよう手助けしながらも、他人に口外しないよう、家の中以外では練習しないようにと何度も釘を刺した。


 治癒の光を出せる子供は珍しく、人さらいに遭う危険があるからだ。

 ルシアは治癒魔術を使うのは家の中だけだという約束をしっかり守り、外では決して使わないようにした。


 ルシアが7歳の頃には、すでに宮廷治癒士の見習いとして立派に働けるほどの力を身につけていた。


「今度、私の職場に見学にくるといい。遠隔操作や広範囲展開が得意な仲間の魔術を間近で見させてあげよう」

「本当? わぁ楽しみ……!」

「遠征から帰ったら連れて行ってあげるからね」

「うんっ。ありがとうお父さん」


 尊敬する父から魔術師のすごさをこれでもかと聞かされて育ったルシアにとって、魔術師は憧れの存在になっていた。


 ルシアの父は、魔物の大規模討伐遠征に治癒係として同行することになっていた。

 そこから帰ってきたら、宮廷治癒士や魔術師が働く職場へ連れて行ってあげるとルシアと約束し、父は辺境の地へと出向いていった。


 そうして、父は帰らぬ人となった。


 数十体に及ぶ大型の魔物の襲撃により、父が同行していた討伐部隊は全滅。

 後方で魔術師に守られながら治癒に専念していた父も、魔物の餌食となってしまったという。


「そんな……」


 家を訪れた使者の報せに、ルシアの母は膝から崩れ落ちた。

 夫がつけていた宮廷治癒士の証であるピンバッジを握りしめ、ルシアと抱き合って泣いた。


 ルシアの母は悲しみに暮れた。

 何もする気力がなく、ルシアを気にかけることもせず、一日中自室に閉じこもって過ごす日が続いた。


 国から多額の弔意金を受け取っていたので、働き手が不在となってからもお金に困ることがなかったのは不幸中の幸いだった。

 母方の祖母がしばらく一緒に同じ家で暮らしてくれたこともあり、ルシアは何不自由なく暮らすことができた。

 元々母の手伝いで家事に慣れていたため、寂しく思いながらも精一杯日々を過ごした。


 父の死から一年が過ぎた頃には、母は何とか元気を取り戻していた。

 ルシアとは普通に接するようになり、家事もするようになっていたため、祖母は夫と息子夫婦が暮らす家へと戻った。


 母は新たな幸せを得ようと、資産家が主催するパーティーなどに積極的に出向くようになった。

 自身の美しさをアピールでき、大勢の男性からちやほやされる。

 自尊心が満たされる久しぶりの感覚がたまらなく気持ちいいと、どっぷりハマっていった。


 数々の男性と交流を深め、そうして一人の男性と再婚することとなった。


 ルシアの母より五歳年上のその男性は、町一番の実業家だった。

 短い茶色の髪を後ろになでつけ、オーダーメイドの光沢のあるスーツを着こなす見た目は優しそうな男性。


 しかし子供があまり好きではないようで、ルシアには関心を持たなかった。

 美しい母には熱のこもった瞳を向けてやたらと触れ合っているのに、自分とは挨拶以外ろくに関わろうとしてこない。


 話しかけると優しげな顔で答えてくれるが、自分に興味がないのだと9歳のルシアでも理解できた。


 ルシアは新しい父を好きになれそうになかったが、母が幸せそうなので不満を持たないことにした。

 母と再婚して、その娘である自分の義父になってくれたありがたい人という感謝の気持ちもあったのは事実だ。


 自分は学校や外で友達と楽しく過ごせている。家では自室で本を読んだり、隠れて治癒魔術を極めたりと、それなりに楽しい毎日だった。


 そんな生活に変化が訪れてきたのはルシアが11歳の頃。

 義父から向けられる視線が明らかに異質なものに変わった。

 娘に向けるものではない感情が混ざった、ねっとりとした視線。


 それを感じ取っていたのはルシアだけでなかった。

 母も自分の夫が娘を見る目に変化が生じてきたことを感じ取っていた。


 ルシアの母は三十代になっても十年前のような若々しさを保っており美しかった。

 それでも自身の美貌が日々衰えていくのを感じていた。


 そんな時に気付いてしまった、若く美しい娘に注がれる視線。

 嫉妬を募らせるようになり、娘が可愛いと思えなくなる。


 ルシアは母のそっけない態度に最初こそ肩を落としていたが、仕方のないことだと割り切って諦めるようになった。


 いつの間にかルシアが家事全般を担うようになっていたこともあり、そんなことを気にしている暇はないと、学業に家事にと忙しなく日々を過ごした。


 いつからか義父はルシアの体にも触れるようになっていた。

 本人は自然を装っているつもりのようだが、あまりに不自然に触れてくる義父に嫌悪感は増す一方だった。


 そんな時、母が病に倒れた。

 特効薬のない重い病。持ってあと一年との余命宣告を受ける。

 ルシアが扱う治癒の力は体の損傷を癒すことはできても、病気を治すことはできない。


 ルシアは寝たきりになった母の世話に明け暮れた。

 義父は日中は家にいない。

 夕暮れ時に仕事から帰ってくると、母の寝室に顔を出し、数分会話をするとすぐ退室してしまう。


 その後は二人で一緒に夕食をとった。

 義父から向けられる体に絡みつくような視線が気持ち悪い。


(あと少しの我慢だ……)


 ルシアが生まれた国では成人は18歳だが、15歳になればしっかり働くことができるようになる。

 治癒士として正式に雇用してもらえるようになれば、一人で不自由なく生きていけるはずだ。


 その頃にはもう母はこの世にいないと考えると悲しくなるが、少しでも長生きしてもらえたならと、精一杯世話をした。


 しかし母の心は日に日に壊れていく。


 自慢だった艷やかな黑髪は病気の影響で灰色にくすみ、豊満だった胸は見る影もない。

 顔は変わらず美しいが、日に日に美しく成長していく娘には到底敵わない。


 愛する夫から自分へ向けられていた熱情は、今は目の前の娘へ注がれている。

 胸の奥底に湧いた憎悪は育ち続ける。


 そして────


「……あんたなんて居なければよかった」


 母の口から漏れ出た言葉にルシアの身は硬直する。

 そっけない態度には慣れていたが、言葉に表されたのは初めてだった。


「あんたが居なければあの人はまだ私を見てくれていた……あんたが居なければ……」


 瞳を濁らせてブツブツと呟く母の周りには、いつしか黒い靄が立ち込めていた。


 靄は母の体から発せられている。

 ルシアも同じものを持っているから分かる。これは呪印士が扱う黒い魔力だ。


「そうよ……居なければいいのよ……最初から居なかったことにすればいい」

「……っっ!」


 ギロリと濁った目を向けられたと同時に、母から発せられていた黒い靄がルシアの体に巻き付いた。

 身動きがとれない。


「やめて、お母さん」


 娘の悲痛な声は届かない。

 母は黒い靄にありったけの魔力と憎しみ、そして残りの命を注ぎ込んでいく。


 人が死の直前に深く強く心に刻む感情。

 恐怖、憎悪、恨み、悲しみ、未練。


 それらは呪詛となり、死に際に放った魔力に溶け込んで、呪いとなって人や物に宿る。

 そうやって、その感情の持ち主がこの世を去った後も、消えることなく現世に留まり続ける。


 呪力を扱える者が死に際に放つ呪詛は強大だ。

 元々持っている力により、本来なら成し得ないことすら可能になる。


「ぐっ……」


 黒い靄に包まれたルシアの体に激痛が走った。

 体の内側から焼かれ、全身の骨がバラバラになったかのような強い痛み。声すら出せず、呼吸もままならない。

 母が横たわるベッドに倒れ込んで、シーツを強く握りしめた。


「そう……そうよ。あんたなんて消えちゃえばいい」


 どこまでも低い声でそう言い、母は更に呪詛をのせた魔力をルシアに放った。

 自身に残る全ての魔力と命を呪いへと変えると、満足したように醜い笑みを浮かべる。


 そして、母は息を引き取った。



 ────体が縮んでいく。

 時が巻き戻っているのだと、痛みで何も考えられないはずの頭が理解する。


 このままでは消えてしまう。

 自分の存在そのものが、なかったことに。


 父との思い出も、優しかった頃の母との思い出も、治癒士となるために努力していた日々も、全てがなかったことになってしまう。


(……そんなの、嫌だ)


 強い憎しみに抗おうと、自身の体に宿る黒い魔力を奮い立たせる。

 一度も扱ったことのない、母と同じ黒い魔力。それをどうにか体から放出させる。


(負けるもんか。こんな理不尽なものになんて負けてやらない……!)


 呪いに打ち勝つ方法など知らない。

 だけど何もせず消えるなんて嫌だ。とにかくありったけの黒い魔力を放ち、体を守るように包み込んだ。


 やがて目の前の全てが黒く染まり、静寂に包まれた。


 全身の痛みは消えてなくなったのか、麻痺してしまっただけなのか分からない。

 体に感覚はない。

 自分は息をしているのだろうか。体がまだ存在しているのかすら分からない。


 だけどもう、何もできる気がしない。そうしてルシアの意識は途絶えた。




 ***



「────ルシア…………ルシア……!」


 誰かが自分の名を呼んでいるが、この声は嫌いだと脳が拒絶する。

 だけど目を覚まさないといけない気がして、ルシアはゆっくりと目を開けた。


 目に映ったのは、やはり嫌いな人物。


「ルシア! 大丈夫か?」

「……うん。大丈夫だから離して、義父さん」


 静かな声でそう返すと、義父はルシアの肩から手を離した。

 ルシアはゆっくりと上半身を起こす。

 横に目をやると、ベッドの上で母が永遠の眠りについていた。

 自分がいる場所は母のベッド横の床のままだと、頭が冷静に理解する。


(……生きてる)


 思い通りに指が動く両手を見つめながら、まだ体が存在していることを確かめる。

 しかし、目に映る自身の手はほんの少し小さく感じた。


「……義父さん、私は何歳に見える?」


 少しも動揺することなく、呆然と立ちながらルシアを見つめている男に問う。


「10歳前後……といったところだ」

「そう……」


 それなら、母の呪いに四年の時を奪われ、そこで食い止めることができたということだろう。


「ふっ……ふふふ……」


 おかしくもないのに、口からは笑い声が漏れた。

 母の呪いに勝つことができたからといって、嬉しくも楽しくもない。

 呪いをかけられるほど憎まれていたと知り、悲しいはずなのに。

 不思議と涙は出てこない。


「……ルシア、君はなぜそんな体に……」


 眉をひそめた義父が、悲痛な声で疑問を投げかけてきた。


「お母さんに呪われちゃったんだ」


 ルシアは日常の何気ない会話のように、事実だけを軽く言い放つ。


 義父はどう答えればいいのか分からず黙りこみ、ベッドに横たわる妻に視線を移した。

 ルシアは義父が母の口に耳を近づけ、首や手首に指を当てているのをじっと見ていた。


「息をしていないし、脈もないな……ルシア、母さんはもう……」

「うん。分かってる」

「そうか……」


 義父はそれ以上は何も言わず、しばらくすると部屋から出ていった。その後、外出したかと思えば、人を連れて戻ってきた。

 どうやら葬儀の準備をするために人手を借りてきたようだ。


 14歳から10歳前後まで若返ってしまったルシアは姿を晒せないため、黒い外套を羽織ってフードを目深に被り、離れたところから様子を伺った。

 母が細長い箱に花と共に入り、その箱の蓋が閉められる様子を静かに眺めていた。


 翌日、曇り空の下で葬儀が執り行われた。

 ルシアはずっと外套で顔を隠したままだったが、親を亡くしたばかりのルシアを憐れみはすれど、責め立てる者は誰もいなかった。


 数日後、ルシアは義父に連れられて聖教会にやってきた。

 国一番の呪印士だという老人に呪いを解いてもらうためだ。


 しかし呪印士はルシアの胸元に手を当ててしばらく魔力を流した後、苦虫を噛み潰したような顔で静かに言葉を発した。


「……私にはこの呪いを解くことはできません」

「そんな……!」


 義父は悲痛な声で叫んだ。


 ルシアの母は特別強い魔力を有していた。

 それだけでも強力な呪いを作り出せるのに、死に際に放たれた呪詛と注がれた残りの命によって、解くことが不可能なものになってしまっているという。


 更に呪印士は言葉を続けた。

 恐らく、この先も体が成長することはないだろう、どれだけ傷付いても自己修復し、そのままの姿を維持し続けるだろう、と。


 まさかの宣告に、二人は聖教会から肩を落としながら出てきた。

 無言で家路を歩いていると、義父がルシアに笑いかけた。


「大丈夫。探せばきっと方法はあるはずだ」

「……そう、だね……」

「すぐにまた成長できるようになる。父さんがついてるから大丈夫だ」

「うん……」


 ルシアの目には、義父は娘を励まそうとしているのではなく、自分自身に言い聞かせているように見えた。


 その後は母の両親と親戚、義父の両親が集まり、話し合いが始まった。

 どうやら自分のことを相談しているようだと、ルシアは離れたところから聞き耳をたてる。


 自分の娘が孫を呪ったと知ったらショックを受けるだろうと、ルシアの体のことを親族はまだ知らない。


「大丈夫です。血の繋がりなんてなくても、ルシアは僕の大切な娘なので、成人するまで責任を持ってしっかり面倒を見ます」


 誠実さが感じ取れる義父の力強い言葉に、親族たちは誰も反対しなかった。


 ルシアは青ざめて、急いでその場から離れた。

 自室に戻って勢いよく扉を閉め、扉にもたれかかる。


(……逃げなきゃ)


 いつからか義父から向けられるようになった気持ち悪いもの。


 彼は娘が健やかに成長することを親として喜んでいたのではない。

 異性として、自分好みの女性に育っていくことを喜んでいた。


 あのまま成長していればきっと、あと一、二年で手を出されていたに違いない。


 ルシアは義父に隠れて荷物をまとめた。

 そして翌日の朝、彼が仕事に出かけるのを見送ると、金庫からお金を取り出して、机の上に手紙を置いた。


 持ち出したのは実の父が残してくれたお金だけだったが、お金を持ち出す詫びと、今まで育ててくれた感謝の気持ち、別れの言葉を綴った手紙だ。


 彼のことは嫌いでたまらなかったけれど、血の繋がらない自分の親になってくれたことだけは本当に感謝している。


 だから家を出る本当の理由は書かなかった。


『私は遠い国に行って、どうにか呪いを解いて幸せになります。さようなら』


 そう締めくくった手紙を残して、ルシアは14年間過ごしてきた家に別れを告げた。



「さてと……まずはうんと遠くに行かなきゃ」


 手紙に気付いた義父はしばらく自分を探すだろう。絶対に見つからないくらい遠くへ行かなければ。

 馬車を乗り継いで、いくつかの国を越えられるだけのお金は持ってきた。


 まずは何日かかけて移動して、それから身を寄せられる場所を探すことに決めた。


 右も左も分からない土地だろうと、人を頼って頑張って探せば、身寄りのない10歳の子供を保護してくれる施設がどこかにあるはずだと前向きに考える。


(きっといい場所が見つかるはず……大丈夫、人付き合いは得意だもん……大丈夫)


 今までだって、恵まれた容姿と持ち前の明るさで上手く人付き合いができていた。

 だから大丈夫。


 乗り合い馬車に揺られながら大きな鞄を抱きしめて、不安を押し込むように自分に言い聞かせた。



 ***



「結局、どこに行っても気味悪がられて、誰にも受け入れてもらえなかったんですけどね」


 グレアムに昔のことを話しているうちに、今までのことを全て話していた。

 長々と話してしまい悪かったなと思いながらも、何だかスッキリした気分だった。


 ずっと静かに聞き続けていたグレアムは、清々しそうな顔で笑うルシアの頭を軽く撫でた。


「早く解けるといいな」

「はいっ」


 ルシアは元気よく答えた。

 今はもう後ろ向きな考えなどするつもりはない。

 もうすぐ呪いが解けるはずだと、楽しみな気持ちでいっぱいだから。




 ***




 ルシアが治癒士見習いになって七日目の朝。

 本日は休みをもらった。

 しかし自分の力を存分に使える仕事が楽しくて楽しくて、とにかく楽しすぎてたまらないルシアは今日も働きたい。


 呪われた体には疲れが蓄積することはないため、休みがなくても平気だ。

 食堂で朝食をとりながら、何とも優雅に紅茶を飲む斜め前の席のエリオットに話しかける。


「給金はいらないので働いちゃダメですか?」

「ダメよ」

「せめて半日だけでも」

「ダメよ」

「それじゃニ時間だけでも」

「うふふ、ダメよ」


 両手を顔の前で揃えて可愛らしくお願いしてみても、エリオットは笑顔で優しい声で、断固として拒絶の姿勢を崩さない。

 むむむとなるルシアの後ろには、食事を終えてトレーを手に持つグレアムがいつの間にか立っていた。


「よし、それなら俺に付き合え。30分後に食堂前に来いよ」


 グレアムはルシアの肩に左手をのせると、彼女の耳元で低い声を放った。

 ルシアは後ろを見上げて怪訝な顔をした。


「は? え? グレアムさん?」

「働きたいんだろオマエ。思う存分働かせてやるよ」


 グレアムはそう言って、返事を待たずに食器の返却台の方へ歩いていった。


「??」


 よく分からないが、仕事がもらえるということだけ理解したルシアは、彼の申し出に従うことにした。

 そして30分後、一旦部屋に戻ってから言われた通りに食堂前に向かうと、グレアムは大股を開いて地べたに座り込んで待っていた。


「よし、行くか」

「どこに行くんですか?」

「町だよ、町。ちゃんと仕事を与えてやっから安心しろ」

「はぁ……」


 私服姿の気怠げな男のどこをどう安心したらいいのだろうと思いながらも、ルシアはふっと笑った。

 楽しみな気持ちと、嬉しい気持ちを抱きながらグレアムの後をついていった。


 どこに行くとも何をするとも教えてもらえず、スタスタ歩くグレアムの後をついていく。

 歩いて十数分、到着した場所は三角屋根の木の建物だ。


「ここは……孤児院ですか?」

「そうだ」


 そう言ってグレアムは可愛らしいプレートが掛かった白塗りの大きな扉を開けて中に入った。ルシアもすぐ後ろをついていくと、すぐに管理者である神父が出迎えた。


「よお、グレアム。今度はガキか。さすがに犯罪臭がするぞ」


 白い神父服を着たゴツくて背の高いガラの悪い男性は、葉巻をふかしながら気怠げにグレアムに話しかける。


「ちげえよ。俺のタイプは色気のあるエロい姉ちゃんだっつってんだろが」

「っは、分かってるよ。で、誰だその子は」

「うちの治癒士見習いのルシアだ」

「はじめまして。何だかよく分かりませんがグレアムさんに半強制的に連れてこられました、ルシアと申します」


 頭にポンと手を置かれながら紹介され、ルシアは会釈してから自己紹介と共に軽く愚痴った。

 治癒士という言葉にピクリと反応した神父はグレアムに鋭い視線を向けた。


「……オマエなぁ。わざわざ連れてこなくてもいいのに」

「さっさと治療院に行かない方が悪いんだよ」

「??」


 鋭い目を向け合う二人にルシアは首を傾げたが、神父の白い袖からチラリと覗いた包帯を見て理解した。


「この方を癒せばいいんですね?」

「そうだ。頼めるか」

「もちろんです。お任せください」


 本人そっちのけで話が成立した。ルシアは右手で胸をドンと叩いて、グレアムに誇らしげに答えた。


「では失礼します」


 一言断りを入れると、ルシアはその場ですぐに神父の左の袖を捲り上げ、肘から手首まで巻かれた包帯を外した。

 広範囲にわたり赤黒くただれた患部を確認すると、右手をかざす。手のひらから放たれた癒しの光によって、腕の怪我は数秒で完治した。


「はー……まだ小さいのにすごいな。ありがとなルシアちゃん」

「どういたしまして」


 ルシアはにっこり笑って返事をする。


「助かった。このオッサン、早く治療院に行けっつっても忙しいだとか言ってなかなか行こうとしなかったもんでな」

「忙しくて行く暇がないんだから仕方ねぇだろ」

「走って行って走って戻ってきたらそんな時間かかんねぇだろが」

「そんな元気ねえよ。くたびれた中年なめんな」


 ルシアが口の悪い二人の言い合いを見ていたら、後ろに気配を感じた。

 くるりと振り返ると、後方の扉の隙間から数人の子供が覗いていた。


「こんにちは」


 笑顔を向けると、2〜5歳ほどの子ども6人が勢いよく扉を開けてわっと駆け寄ってきた。


「こんにちは! さっき光ってたのは何〜?」

「お姉さんまじゅつし?」

「グレ兄のおともだちですか?」


 後方からは何をしているか分からなかったようだが、白い光を出すところは見ていたようだ。


「さっきのは治癒魔術っていってね、怪我を治すものだよ。私はグレアムさんと一緒に働いている治癒士見習いなんだ」


 そう答えると、幼い子供たちは瞳をキラキラと輝かせた。

 ルシアが質問攻めにあっていると、また扉の隙間から覗く人影が二つ。その目からはルシアに対する敵対心が感じ取れるが、子供の相手をしているルシアは気付かない。


「ソニア、ロザリー。コイツがオッサンの火傷を治してくれたぞ」


 二人の存在に気付いたグレアムが扉に向かって声をかけると、10歳ほどのふわふわ桃色ツインテールの少女と藍色の長い髪の少女が顔を出した。


「え? 本当に?」

「その子が?」


 二人は不思議そうな顔でルシアに近づく。

 グレアムから詳しく話を聞いた二人は、ルシアにわっと詰め寄った。


「ありがとうっ!早く治してきてって言ってるのに、なかなか行ってくれなくて困ってたんだ」

「あの火傷は私たちを庇ってできたものだったの。本当に感謝ですわ」

「どういたしまして」


 少女二人に手を強く握られながらお礼を言われ、ルシアは誇らしげに目元を和らげる。

 そのあまりの美しさに二人は頬を染めた。


 火傷の治癒という仕事を終えたルシアは、その後は子供の遊び相手という仕事をグレアムから与えられた。


 思っていた仕事とは違うが、魔術を見せてと懇願してくる幼い子が満足するまで治癒の光を見せてあげるのはなかなか楽しい。

 年頃の子供のように遊ぶことも数年ぶりで、転んで膝を擦りむいた子の怪我をさっと癒やしてあげたりと、これはこれで悪くないと楽しく過ごした。


 ソニアとロザリーともすっかり仲良くなった。

 グレアムのことが大好きだという二人は、早く大きくなって色仕掛けするのだと意気込んでいる。


「ルシアはすっごく綺麗だけど、お胸の大きさなら私はきっと負けないからね!」

「そうですわ。グレ兄さまはきっと顔より体を重視するタイプですから」


 なぜかルシアを恋敵に認定している二人は、未来のルシアに負けない気持ちを表明した。


 つい数日前までなら、こんな言葉をぶつけられたら辛くてたまらなかっただろう。

 自分を置き去りにして変わり続けていく日常、成長していく人たち、目に映るそれら全てが羨ましくて、悲観していた。

 未来に希望を抱くことも、目標を掲げることも、全てが無意味だったから。


 だけど今は違う。

 身に刻まれた呪いが解けるかもしれないという希望が胸に灯っている。

 もしも解けたなら、再び成長することができるなら、自分は彼が理想とする女性になれる気がする。


 二人のようにまだ何年も先のことで、14歳から先の自分の姿はまだ知らない。

 だけどきっと、素敵な女性になれるはず。


「ふふ、私も負けないからね」


 こんなにも数日後が楽しみになるなんてと自分でも驚きながら、二人の言葉にルシアは不敵な笑みで対抗した。



 ***



 正午になると、ルシアとグレアムは昼食をとるために町の食堂へとやってきた。

 二人掛けのテーブルにつくと、グレアムはメニュー表を手に取ってルシアに差し出した。


「ほら、好きなものを選んでいいぞ。働いた分しっかりとごちそうしてやる」

「やった。それでは遠慮なくごちそうになります」


 ルシアは笑顔でメニュー表を受け取り、どれにしようかなと真剣ににらめっこする。


 出会った日の遠慮がちだった姿はどこへやらという姿に、グレアムは頬杖をつきながら目元を和らげた。


「グレアムさん、私これが食べてみたいです」

「オマエ……一番高いやつを選ぶなよ」

「好きなものでいいって言いましたよね。私、朝からけっこう働きましたよ」

「だからってなぁ……ったく、しょうがねぇな、今日だけだぞ。今度からはもう好きなものだなんて言ってやんねぇからな」

「はいっ!」


 呆れ顔で溜め息を吐くグレアムにルシアは満面の笑みで返した。

 食べたいものを選べて嬉しい気持ちももちろんある。だけどそれよりも、何気ない一言が一番嬉しい。


(えへへ。また今度一緒に来れるんだ)


 またいいようにこき使われるだけかもしれない。むしろそれしか考えられないが、それでも自分を必要としてくれるなら、一緒にいられる時間が増えるなら。それでもいいと思った。




 ***




 食事を終えた二人は、孤児院の神父に手渡された買い物リストを手に、町外れの小さな薬草店を目指して歩く。


「あー……めんどくせぇな」

「まあまあ。今の時期は子供たちだけで郊外に出るのは危ないですから、お使いを頼める人がいなかったんですよ」

「確かにそうだな。オマエが言うと説得力あるわ」

「う……」


 ルシアは郊外を一人で歩いた結果、人さらいにあった。グレアムからの容赦ないつっこみに返す言葉もない。


 ルシアを襲った集団は他国からの流れ者だったが、農作物の収穫が減少し、山や森で食材を採取することも困難になる寒い時期は、備えが足りず生活に困って犯罪に手を染める者が少なからずいる。


 騎士や魔術師が町を巡回しているのでほとんど未然に防がれるのだが、念のため人通りの少ない郊外へ行くには、子供は大人と連れ添って行くのが望ましい。

 孤児院の神父は見た目と口の悪さこそアレだが、子供たちのことを第一に考えているのだ。


(……本当にそっくりだな)


 今日初めて会った人だが、神父はグレアムと同じような、気怠げで面倒くささを隠そうともしない雰囲気だった。

 態度の悪さで損をしているけれど、子供と接しているところを見ていると分かる内面の優しさもそっくりだと感じた。


 施設に子供が増えたため、自分が治療院に行く時間すら惜しいと怪我の治癒を後回しにし、周りを不安にさせていたのはどうかと思うが。

 そんな不器用さも併せて本当によく似ていた。


 だけど胸を締めつけるような感情を抱くのは、前をスタスタと歩くこの人にだけだ。


「ん? どした?」


 急に静かになったことを不思議に思い、グレアムは後ろに顔を向けた。


「何もないですよ。そろそろおやつの時間だなと考えていただけです」

「オマエなぁ……さっき食ったばっかだろうが」

「甘いものは別腹に決まっているでしょう」

「ったく……」


 彼は面倒くさそうに呟いたが、その後に続く言葉にルシアは何となく察しがつく。


「ケーキ一つくらいしかダメだからな。俺が水を出してやっから飲み物はそれで我慢しろ」

「やった! ありがとうございます」


 ほら、やっぱりこの人は優しい。

 前を向いてブツブツと文句を言いながら歩く後ろ姿に、ルシアは熱がこもった瞳を向けた。




「────ちょっと止まれ」


 グレアムは急に立ち止まり、右手を後ろに出してルシアを制止した。

 何かあったのだろうかとグレアムの背中越しに前方を確認したルシアは、ヒュッと息を呑んだ。


「……義父さん」


 数年前に最後に会った時より随分歳を取っているが、清潔感を感じさせる短髪と、高給そうなスーツに身を包む立ち姿は少しも変わっていない。


「ルシア……やっと会えた。たまたま近くまで来ていたんだよ。友人から君らしき人物をこの町で見かけたと聞いて、ずっと探していたんだ」


 ルシアの義父は泣きそうな顔をしている。

 彼は感動で声を震わせながら、言葉を続けた。


「父さんね、君のために世界中のいろんな呪具を集めたんだよ。ほら、これだけあればきっと元の姿に戻れる」


 義父は手に持っていた黒い鞄から、黒い紋様が描かれた白や赤の布が巻かれたものをいくつか手に取って見せた。


 ルシアはグレアムの背中にピッタリとくっついて、義父から無言で目を逸らした。

 彼女から過去の話を聞いているグレアムは、目の前の男がルシアに歓迎されておらず、話すらしたくない相手なのだと容易に理解していた。


「この国では安全性が認められていない呪具は、一般人は使用禁止だ。反動で怪我をする可能性の方が高いからな。あとルシアは今後もうちでしっかり面倒を見るから心配するな。アンタは何もせず、会いに来るのも今後一切やめてほしい」


「君は誰だい? 僕はルシアと大切な話をしているんだから邪魔しないでくれるかな」

「ルシアはアンタとは一緒にいたくないし、話すらしたくないんだ。諦めて帰ってもらえるか」

「何も知らないのに勝手なことを言わないでくれたまえ。僕たちは大切な家族なんだ」


 男は嘘くさい笑みを顔に貼り付けて、どこまでも優しい声音で返してくる。


 グレアムは面倒くさそうに大きく息を吐くと、顎をくいと上げて蔑むように細めた目で男を見下ろした。


「はっきり言われないと分からないのかよ。オマエが嫌いでルシアは逃げてきたんだよ。娘をいやらしい目で見て欲情するようなやつは嫌われて当然なんだ。だから話すことは何もないし、むしろ気持ち悪くて話したくないんだよ。だから二度と来ないでくれ、この変態野郎」


「っっ……!」


 グレアムの歯に衣着せぬ物言いに、義父は顔に貼り付けていた笑みを一瞬だけ外して不快感を露わにした。

 だがすぐにまた穏やかな顔を見せた。


「一言だけでも話がしたい」


 義父はルシアとの対話を諦めようとしない。

 グレアムはハァと面倒くさそうに息を吐くと、後ろのルシアに声をかけた。


「ルシア、嫌だと思うが頑張れるか? この一回だけ頑張ればそれでいい。後はどれだけしつこかろうが、俺がどうにかしてやるから」


 グレアムはいつもの面倒くさそうな言い方ではなく、力強い口調で言葉を放った。

 ルシアは大きく頷いて、グレアムの隣に立つ。


「お久しぶりです。数年間、私の父親になってくれたことには感謝しています。だけど私はあなたを好きになれませんでした。あなたから異性として見られることが本当に気持ち悪くて、耐えられなくて、だから逃げたんです」

「そんな……誤解だよ。僕は本当に娘として君を可愛がっていたんだ」

「誤解だなんて思えません。もし仮に誤解だとしても、もう私は中身は大人なんです。あなたの力は必要ありません。だからお引き取りください。今まで本当にありがとうございました」


 ルシアは深く頭を下げ、そして震える手でグレアムの腕を掴んだ。


「……ダメだ。また一緒に暮らすんだよ、ルシア。しっかり話し合おう。そうすればわかりあえるはずだよ」


 義父はふらついた足取りでゆっくりと近づいてくる。

 怖くなりグレアムの腕を掴む力を強めたルシアの頭上からは、すぐに優しい言葉が降ってくる。


「大丈夫だ」


 男を見据えたまま放たれたその言葉とほぼ同時に、前に出した右手から大量の水が放たれた。

 水はすぐに上に横にと、薄く長く伸びていく。


 陽の光を反射しながらゆらめく水面は、行く手を完全に遮断するように、義父の目の前に立ちはだかった。


「すごい……一瞬で……」


 瞬く間に出来上がった綺麗な透明の壁に、ルシアは感嘆の声を漏らす。


 義父は驚いて一度立ち止まった。

 通りの両端には建物があり、端から端まで行き届いた壁に隙間はない。

 ルシアの元へ行こうと思うと、通りをずいぶん引き返して、違う道を通らないといけない。


 しかし目の前にあるのはどう見てもただの水でできている壁。

 たいした力はないだろうと、押しのけるように右手で壁に触れた。


 ────パキン パキパキパキパキ


 手のひらで触れた箇所が氷に変わる。そのままじわじわと這い上がり、手から肘へと薄い氷が肌を覆っていく。


「ひっ……」


 義父は慌てて水の壁から手を離した。

 手で触れた箇所から波紋が広がると、何事もなかったかのように透明の水の壁は静かに光を反射しながら佇んだ。


 義父は額に汗を滲ませながら、氷に包まれた右手を左手でもみほぐす。薄い氷をパラパラと下に落としていき、程なくして右手の自由が戻った。


 苛立ちながら黒い鞄に手を伸ばし、その中の一つである手のひらサイズの丸みを帯びた塊を取り出した。

 塊をしっかりと覆うように巻かれた赤い布をはらりと解き、中から出てきた歪な形の黒い玉に魔力を流した。

 グレアムに対抗するため、所持していた呪具を使って攻撃を仕掛けてくるのだと見て取れた。


(仕方ねぇよな……)


 グレアムは男を止めることなく、静かに眺めていた。


 この男は何を言われようがルシアを諦めない。

 追い返したところで何度もしつこく戻ってくるだろうと判断した。


 ルシアがこの男の前から消えてから、最低でも6年は経っている。

 その間、諦めることなく彼女に執着し続けているのだから、簡単に諦めるはずがない。


 それならこちらに危害を加えようとした犯罪者として捕らえ、危険人物として強制的に遠くへ追いやることが、ルシアにとって最善だ。


 人を傷つけるほどの強い力を有する呪具は扱いが難しい。

 正確に魔力を流せずに不完全に稼働し、暴発するのが目に見えている。


 それで怪我をしても自業自得。これに懲りてもう使おうという気を起こさないだろう。


 魔術師としてのグレアムは物事をしっかりと見極め、最善を判断する冷静さを持つ。

 この点に関してのみ、仲間からは厚い信頼を寄せられている。


 しかし、義父が持つ呪具から黒い靄が勢いよく出てきたことにより、グレアムは即座に動いた。

 義父の頭上に魔法陣を描き、呪具を破壊すべく氷の矢を降らせる。

 しかし義父を守るように包み込む黒い靄に触れた氷は音を立てて蒸発し、全て消え去った。



「……すごい。これならルシアの呪いもきっと消し去ることができる……!」


 呪具の持つ強大な力を初めて目の当たりにした義父は、興奮して頬を紅潮させた。


 グレアムはルシアを守るために魔術障壁を幾重にも張り、自分にも二重の障壁を張りながら、顔をしかめて冷たく言い放つ。


「そんな危険なもん使わせられるかよ。仮に使うとしても、呪印士に安全かどうか確かめさせてからだっての」

「黙れ。僕がルシアを救うんだから邪魔しないでくれ!」


 興奮ぎみに叫び、右手に持つ呪具を勢いよく前に出した。

 黒い靄は義父の意志に従うように前方の水の壁をめがけて飛び出す。

 靄と水の壁がぶつかると、お互いを打ち消してすっと消えた。


 それと同時に義父の右手の人差し指は黒に染まる。

 靄を放ちながらゆっくり少しずつ消えていき、第2関節あたりまで消滅した。


 力を使う対価のように消えた人差し指、そしていつの間にか消えていた中指を義父はじっと眺める。


 中指は氷の矢を消した時に対価として消えたのだろう。

 不思議と痛みはなく、炭化した切り口から血は流れていない。


(この程度なら安いものだな)


 これだけの力を使えるのなら、指先がどれだけ消えようと構わない。優れた治癒士になら元通りに治すことが可能だろう。

 目の前の目障りな魔術師を消してルシアを取り戻し、彼女の呪いを消せればそれでいいと、勢いよく黒い靄を放つ。


 グレアムは焦ることなく冷静に魔術式を構築する。

 自分に向けて放たれた靄と、義父の周りを覆う靄、それら全てを閉じ込めるように、水の膜を何重にも張り巡らせた。

 靄と水の膜は触れ合うとたちまち消えていき、辺りは霧がかかったようになる。


 ルシアの視界は二人の姿が確認できないほど白く染まった。

 何が起きているのか全く分からない。

 込み上げる不安を押し込むように、目を閉じて両手を握りしめながら待っていた。


 数分後、パリンという音が聞こえ、ルシアは目を開けた。

 視界を遮っていた霧が少しずつ晴れていき、先ほどの音は呪具が壊れた音だと気付く。


「グレアムさ────……」


 目の前にあるはずの背中に声をかけた。 

 そこに彼は立っておらず、ふと視界の端に映る赤に気づき、下方に目を移した。 


「グレアムさん……?」


 血溜まりの中、うつ伏せで倒れている人物は、動かない。

 ルシアは慌てて駆け寄って、どうにか仰向けにさせた。

 シャツは血に染まっていて、胸元だけぽっかりと穴が空いている。


 ──早く治癒しないと。


 震える両手を彼の胸元にかざし、上手く吸うことができない呼吸をどうにか整える。

 大丈夫、大丈夫と気を強く持ち、頭の中から恐怖心を無理やり追い出した。


 素早く魔術式を構築し、手のひらから眩い治癒の光を出す。

 焼けただれた傷口に光を当て、完全に塞ぐことに成功する。


 しかし彼は目を覚まさない。

 彼の口元に耳を近づける。どれだけ耳を澄ましても、何も聞こえない。


「息……してない」


 優れた治癒士はどんな大怪我だろうと治すことができる。

 しかし、失った命を取り戻すことはできない。


 義父がいたはずの場所には、大きな黒い炭のようなものが一つ転がり、その横には割れた呪具が落ちている。

 ルシアを手に入れるため、邪魔者を排除しようとした男の成れの果てだと、すぐに理解した。


「なん、で……」


 自分はただ、幸せな未来を夢見ていただけだ。

 誰にも迷惑をかけていない。

 せっかく前向きに生きようとしていたのに、なぜ他人の身勝手に邪魔ばかりされなければいけないのか。


 人の努力を踏みにじる薄汚い大人たちが許せない。

 悲しみよりも、母と義父に対する強い憎しみが込み上げる。体の内側で静かに燃えるように、黒い魔力がゆっくりと渦巻く。


 ────負けてやるもんか。


 両手から滲み出る黒い魔力を強く握りしめて、大きな赤紫色の瞳にグレアムを映した。

 自分はこの人と一緒に過ごす未来を諦めてやらない。そのためなら何だって利用してやる。


 目を閉じて自身の胸元に意識を集中させる。

 自分の魔力でない黒い塊がそこには確かに存在している。

 心臓を締め付けるように巻きついている黒い蔦は、母からの呪いだ。


 ルシアの存在がなかったことになるよう、体の時間を巻き戻し、存在そのものを消し去るはずだった呪い。

 発動を途中で食い止めたのはルシア自身。そこで母の呪いは時を止めるものへと本質を変えた。


 自分から時間を奪うはずだったものは、最初は確かに存在していた。

 その残穢がほんの少しでも残っていたなら。僅かな望みをかけて、母の呪いをこじ開けるように自身の黒い魔力を流し続けた。


 流れに逆らうように伝わってくるのは母の恨みの感情。

 憎い、羨ましい、許せない。

 ルシアの精神を汚染するように、黒く淀んだ恨みの声が頭の中に押し寄せる。


「うるさい! 恨んでいるのはこっちの方だよ」


 負けてたまるかと、母の感情を自分の怒りの感情で呑み込んでやる。違う情報をよこせと魔力を送り続ける。

 ひどい頭痛と吐き気が襲ってくるが構わない。


 ふと、絶え間なく流れてくる恨みの言葉の中に呪詛の断片が混ざっていることに気付いた。


 ────見つけた。

 ルシアはかすれて消えかけている散らばったそれらをかき集め、組み立てていく。


「──かはッ」


 強い呪詛に触れた反動で心臓に痛みを感じた。ルシアは口から血を吐き、目眩で前に倒れそうになりながら、呪詛に魔力を注いで形作る。


 数分だけでいい。この人の時を巻き戻す呪いを。

 怒り、憎しみ、希望、そして彼への想い。ルシアが抱く感情を余すことなく呪詛に変えて、無理やり作り出した呪いをグレアムの心臓に向けて放った。


 真っ黒に汚れていて、だけど少しだけ光の粒が交ざった塊がズズズと彼の胸に吸い込まれていくのを確認すると、ルシアはいつものグレアムのようにニヤリと悪そうな笑みをうかべた。


「へへ……ざまぁみろ」


 必ず成功していると確信して、ルシアの意識は途絶えた。




 ***




(……頭痛い……気持ち悪い)


 ルシアは不快感で目が覚めた。

 体が鉛のように重くて動かせる気がしない。


 母に呪われてからというもの、体に不調を感じたことがなかったため、久しぶりの不快感だ。


 頭がズキズキと痛くて吐き気がする。胸のあたりもチクチクと痛くて、とにかくすごく嫌な気分である。


 腕をどうにか動かして胸元に手を置くと、そこにはまだ確かに母の呪いが存在していることが確認できた。


 無理やりこじ開けて呪詛を奪ったりと、好き勝手こねくり回してやった呪いは、消えはしなかったがまた変質したようだ。


 自分の時はまだ止まったままだということは、感覚で分かる。

 だけど今は空腹や、痛みを感じる。


『中途半端だな、おい』なんて言われそうだけど、何でもいいから彼の声が言葉が早く聞きたいなと思っていたら、部屋の扉がガチャリと開いた。


「ルシア!」


 聞きたいと思っていた声がすぐに聞こえてきたことに驚いて、重い首をどうにか扉の方に向けた。


 深緑色のローブを着た黒髪の男性は、眉をひそめていて目つきの悪さが際立っていた。

 本当に、宮廷魔術師とは思えない人相の悪さがおかしくて、ルシアはふふっと笑う。


「……悪かったな。俺が判断を誤ったせいでオマエを危険に晒した」

「何言ってるんですか。死にかけたのはあなたの方でしょうが。というか一回死にましたからね」

「あー……やっぱ俺死んでたか。そんな感じはしてたんだよな」


 グレアムは気怠げにそう言うと、ルシアの頭に手を置いた。


「何をどうしたかは知らねぇが、オマエが助けてくれたんだろ。ありがとな、ルシア」

「えへへ、どういたしまして。……でもあなたが死んだのは私のせいなんですよね。ごめんなさい」

「あ? オマエは何も悪いことしてねぇだろうが」


 グレアムは眉をひそめて、しゅんとなったルシアのおでこを指で強く弾いた。


「あいたっ! ちょっと何するんですか。ただでさえ頭と胸の痛みで辛いんですから優しくしてくださいよ」

「痛み? 何オマエ、痛みを感じるようになったのか?」

「そうみたいです!」


 別に誇れることではないが、ルシアは何となく胸を張った。しかしグレアムに呆れたような顔をされた。


「それなら自分で癒せるんじゃねぇの。オマエ治癒士だろうが」

「……そういえばそうでした」


 すっかり忘れていた。

 ルシアは両手から白い治癒の光を出して、全身を包み込んで癒した。

 体が軽くなったので起き上がり、ついでにぴょんとベッドから下りて立ち上がった。


「こらこら。無理するなって」

「大丈夫ですよ。それよりお腹すきました」

「オマエなぁ……」


 ルシアはにこにこしながら、呆れて息を吐くグレアムの手を引いて、お腹を満たすために食堂に向かった。




 ***




 三日後の昼下がり。

 他国に行っていた、国一番を自称する呪印士が帰ってきたと知らせを受けて、ルシアはその人物の元へと向かっていた。


 もしかしたらという期待から、同僚に借りたふくらはぎまで長さのあるブカブカのワンピースを着て、その上から白いローブを羽織った。


(ここだよね……)


 ドキドキしながら、王城の一室の扉をノックする。


「失礼します」

「はいはーい。どうぞ〜」


 部屋の中からは想像していた数倍軽い返事が聞こえてきた。

 壁に本棚が並ぶ部屋の中で待っていたのは、長い赤髪を後ろで緩くまとめた、白いローブを身につけた男性だった。

 ルシアが想像していたよりも随分若い。


「こんにちは。君が解呪を希望する子っすね。俺はルークっていうっす」


 明るく声をかけてくる男性の垂れ気味の茶色の瞳からは、優しさと自信が滲み出ていた。


「はじめまして、ルシアと申します。帰国されたばかりで恐縮ですが、よろしくお願いいたします」


 ルシアは申し訳なさそうに深々と頭を下げて、丁寧に挨拶をした。

 顔を上げると、ルークはポカンと口を開けていた。


「はぁー、礼儀正しい子っすね。人にものを頼む態度だとは思えなかったグレアムさんとは大違いっす」


 その言葉から、いつもの口の悪さと上から目線の偉そうな態度で頼んだのだと嫌でも理解した。


「何かその、すみません」

「ははっ、何でルシアさんが謝るんすか。グレアムさんに下手に出られたら逆に気持ち悪いから大丈夫っすよ」


 ルークは少しも気にした様子なく、ケラケラと笑い終えると、『さてと』と話を切り出した。


「そんじゃさっそく解呪するんで、そこの椅子に座ってください」


 言われた通り、ルシアは部屋の真ん中にポツンと置かれた椅子に座った。


「解呪方法は機密なんで、目隠しさせてもらいますね」

「はい」


 ルシアの目を覆うように布を巻くと、ルークは彼女の背後に回った。


「多分ですけど、解呪が終わるとすんごい痛みに襲われると思うんで、自分に治癒の光を当てながら何とか耐えてください。メッタ刺しになって骨がバキバキに折れるくらいめちゃくちゃ痛いと思いますんで、ほんとどうにか耐えてくださいね。治癒せずに痛みで気絶しておいた方がいい気もするんで、まぁお好きな方でお任せするっす」


「……頑張ります」


 後ろから何とも明るい声で不穏なことを言われたが、治癒しながら耐える方向で頑張ることにした。


 ふうと息を吐く音、そしてジャラリと何かが擦れる音がした。


「そんじゃいきます」


 静かな声でそう告げられると、体に黒い魔力が流れてきた。

 濃縮されたような力強い魔力がルシアの心臓に届くと、母の呪いを呑み込み、そして共に消えた。


(……へ? 消えた?)


 目を覆っていた布も外してもらい、あまりのあっけなさに呆然としていると、心臓がドクンと音を立てた。

 全身の血が沸き立ったかのように熱くなる。


「ぐっ……」


 体からミシミシと音がする。骨がバラバラに砕け、肉が裂けていく感覚。

 母から呪いを受けた時の数倍の痛みだ。


 息ができない。とにかく苦しい。

 気絶しておいた方がいいとはよく言ったもので、本当にその方がよさそうである。


 しかしルシアは負けず嫌いだ。

 気絶するのは負けな気がして、涙目になりながら治癒の光で全身を包み込んで耐え忍んだ。


 ミシミシと音を立てながら、確実に体は成長しているのだと感じる。この感覚をどうしても味わいたかった。

 痛みでおかしくなりそうになりながら喜びを噛みしめ、そしてあることを心に強く願った。




 ***




 全身の痛みが治まると、ルシアは椅子から立ち上がった。


 銀色の髪は足首の辺りまで長く伸びている。

 手足もスラリと伸びて、同僚から借りたワンピースは膝上丈になっていた。

 胸元がとにかくきつくなっていて、ルシアは右手を強く握りしめた。


(よしっ……!)


 一つ目の願いが無事叶い、ホッと胸をなでおろす。

 鏡がないので顔の変化は分からない。

 両手で頬をペタペタと触りながら振り向いて、後ろのルークに問いかける。


「どうですか? これでグレアムさんを落とせそうだと思いますか?」


 ようやく呪いが解けて、まず口にする言葉がそれはどうかと思うが、ルシアにとっては一番重要なことだ。


 驚きを隠せずに、目を見開いて固まるルークの顔を覗き込み返答を待った。



「はぁー……びっくりしたっす」


 数秒後、ようやくルークは口を開いた。


「どうですか? グレアムさん好みの大人っぽさだと思いますか? 落とせそうですか?」


 再び真剣な顔で問いかけると、ルークは満面の笑みで親指を立てた。


「ばっちりっすよ。ガンガン攻めちゃってください」

「本当ですか! やったぁ」


 両手を上げてぴょんぴょん飛び跳ねて喜ぶ様子は大人っぽさとは程遠い。

 それでもどう考えても確実に落とせるとしか思えない美しさに、ルークは満足げに口角を上げた。


「いやぁ、ほんと楽しみっす」


 自分が国を離れている間にこんなに面白そうなことになっていたなんてと、ルークは頭の後ろで両手を組みながら朗らかに笑った。




 ルークにお礼を言って部屋から退室したルシアは、治癒士の仲間が待つ詰所へと戻った。


「きゃぁぁ、ルシアちゃんかっわいい!」

「うわぁぁぁ、すっごい、すごいよルシアちゃんっ! よかったねぇぇ!」


 エリオットとミラベルからはしゃぎながら喜んでもらえて、その他の仲間たちからも温かい言葉をもらえた。


「えへへ。ありがとうございます」


 しばらく喜びを分かち合った後、ルシアはミラベルと別室へ移動した。

 まずは長すぎる髪を切ってもらうため、ルシアは椅子に座った。

 グレアムの好みな長さは分からないため、とりあえず腰の長さまで切り揃えてもらう。


「ルシアさん、いろいろ借りてきました」

「わぁ……! ありがとうございます」


 切っている間に、仲間の女性治癒士が服を調達してくれていた。

 三人でどの服にしようかとはしゃぎながら選んで着替える。

 そして詰所に戻って仕事の続きをしながら、任務に出ている彼の帰りを待った。



 三時間後、扉をココンッとリズムよく叩く音が聞こえて、床を雑巾がけしていたルシアは瞬時に立ち上がった。


 パタパタと足音を立てて扉に向かう様子を、室内にいた仲間たちは温かい目で見守った。


「グレアムさんっ!」


 ルシアは勢いよく扉を開けると、目の前に立つ男に元気よく声をかけた。

 まずは彼の頭から爪先まで目をやって、怪我はなさそうだと安心する。


「グレアムさん見てください。呪いが解けました」


 ルシアは両手を広げて白いローブと水色のワンピースの裾を揺らしながら、成長した体を得意げに見せた。


「もしかしたらと期待はしていましたが、実年齢まで戻れました!」


 ルシアは伸びた髪を両手で持ち上げて彼に見せつけた。


「ほら、髪もちゃんと伸びたんですよ! どうですか? いい感じですか? …………グレアムさん?」


 彼からなかなか返事がこないので、ルシアは顔を覗き込む。


「……成長しすぎだろうが」


 ようやく言葉が返ってきたかと思えば、グレアムは不快そうに目を細めている。

 微妙すぎる反応にルシアは不安になってきた。


「……え、何で喜んでくれないの? もしかして好みじゃなさすぎた? ハッ……! 本当は幼い子が好みだったとか……? だからあんなに私に優しく……?」


 ルシアは視線を床に落として、憂いを小さな声で漏らしていった。

 もちろん目の前のグレアムの耳に届いている。


「んなわけあるか。俺好みすぎて怖いくらいだっての」


 グレアムは反射的にルシアの呟きに突っ込んだ。

 すぐにしまったと口を押さえて、気まずそうに視線を横にずらした。


「あー……何だ、その……よかったな。元に戻れて」


 ようやくもらえた祝いの言葉は、眉をひそめながらとてつもなく不機嫌そうな声で発せられた。

 だけどルシアは嬉しくなって、頬を染めながら満面の笑みで返した。


「えへへ。ありがとうございます」


 俺好みすぎるという言葉に心の中で飛び跳ねた。

 自分は今日からやっとこの人と一緒に歳を重ねていけるんだと喜びを噛みしめる。


 そしてこれからもずっと一緒にいられるように、押して押して押しまくろう。


 ルシアは新たな目標を心に掲げた。





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― 新着の感想 ―
[気になる点] グレアムさん目線でも一つ読めたら面白そうですね
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